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ねがいごと

作者: 幾乃 葉

 太陽が沈む頃、


 ──先客?

 少女は川原に降り立とうとしていた。

 別段深い理由はない。ただなんとなく、強いて言えば夕涼みでもしようかな、くらいの気持ちだった、のだが。

 誰かがいるとは露ほども思わなかったのだ、ましてそれが同じくらいの少年だとは。

 少年は川のほうを向いていて、少女に気づいた様子はない。少女はしばらくためらい、それから一歩、少年のほうへと足を踏み出した。

 さく、と草を踏む音が、川の流音に混じる。

 その小さな音に少年は振り向いた。無表情の瞳に、わずかながら驚きが映り込む。

 ――――え?

 なぜだか。

 既視感と、ほんの少しの懐かしさがちらりと心を掠めた。

 会ったことがある、ような……?

 川原に佇む少年と、土手の斜面で立ち止まった少女。

 一陣の風が吹き、草と、少女が着ている麻のワンピースをなびかせた。

 数瞬の沈黙と、跳ねる水の音に続いて、

「──邪魔かな」

 先に口を開いたのは少女だった。

 少年が首を横に振る。ほぼ同時に、いや、とかすかな声が風に乗って届いた。

「そんなことは、ない」

 下手すれば聞き逃してしまうほどの声だったが、少女の耳にはしっかり伝わった。

 少女は口の端を緩めて、さくさくと音を立てながら少年の隣に並んだ。

 少年はすでに川のほうへ向き直っていた。しかし、その目に映っているのは川ではなく、薄く橙が残る宵闇の空。

 少女も真似をして、同じように空を見上げた。


「──君は?」

 おもむろに、少年が沈黙を破る。

 それが名前を指しているのだと少女が気づくまでに、一呼吸分の時間が空いた。

「私は×××××」

「そっか」

 綺麗だ、という呟きが聞こえて、心音が軽く跳ねた。

 至って平凡な名前だから、褒められたのは初めてで。少女は嬉しくなって、貴方は、と尋ねた。

「×××××、です」

 少女は二、三度、口の中でその音を転がし、貴方こそ綺麗な名前なのに、と思った。それから、今度は口に出して言う。

 横目で少年の様子を伺うと、黒髪から覗く耳が夕焼け色にうっすらと染まっていた。

 きっと自分の頬もお揃いなんだろうなと思いながら、少女は視線を再び空へと戻した。

 ありがとう、という小さな声が、風に乗って少女の耳に届いた。


 橙はすでに塗り替えられ、空には紫から藍へのグラデーションが広がっていた。

 時折、思い出したかのように二人は口を開いた。それは少年からであったり、少女からであったりもした。

 そして二言三言かわしてから、また口をつぐむのであった。

 ──決して不愉快な沈黙ではないけれど、やはり話しているときのほうが、楽しい。

 少女がそんなことを考えていると、

「君はどうして、ここに来たの?」

 少年が突然声をかけたものだから、少女はびくっと肩を震わせた。

『何故、此処に』

 突発的、ともすれば抽象的な質問に、少女は答えようとする。

 いや、答えなければいけない気がした。

 しかし、それはあまりにも、唐突すぎて。

「あ…………」

 なんでだろう、わかっているはずなのに。

 すると、真っ黒な瞳が、うつむいた少女の顔をのぞき込んだ。

 あまりの近さ――引きずり込まれそうな、深い黒。

 どくん、と心臓がひとつ鳴った。

 少女は慌てて顔をのけぞらせて距離をとった。そうでもしないと、漆黒の瞳の向こう側へと連れていかれてしまうような、そんな気がした。

 うろたえた表情の少女を見て、少年の眉が下がった。

「ごめん」

 少年の言葉に、少女は慌てて首を振る。

 うまく説明ができないの。はっきり思い出せないの。

 そんな稚拙な言葉すらも出てこなくて、少女の硝子玉のような目が次第に潤んでいく。

 涙がこぼれそうになったとき、頭にかすかな重みが伝わった。

 顔を上げると、少年が心配そうな目で、少女の頭を撫でていた。

「――やめよう、この話は終わりだ」

 頭のてっぺんから広がる手のぬくもり。

 それさえもどこか懐かしくて優しい。質問の答えを探すことも手放して、少女はそのあたたかさに身をゆだねた。


 二人の頭上には、星が光っている。


「君は、星をどう思う?」

 少年は、唐突に少女に尋ねた。

 それはひどく不明瞭な質問だった。

「……キレイなモノ」

 しばし少女は悩んだが、曖昧な質問には曖昧にしか返せない。

「そっか」

 そう言って少年は黙りこんでしまった。

 ただそれだけだったので、この話は終わりかなと少女は思った。しかし、不意に「僕は」と少年が言ったので、思わず耳に全神経を集中させた。

「僕は、輝けるものだと思う」

「『輝ける』?」

 少年があまりにも平然と言うので、少女は思わず聞き返してしまった。

「そう、輝けるもの」

 聞き間違いであってほしいという少女の祈りも虚しく、少年はうなずき返した。

 輝けるもの。輝くことができるもの。

 ――だって、それは、つまり。

「なんかこの世界は、一人で輝けなかったり、お互いに照らし合ったりして生きてるのがほとんどだから、自分一人で輝けるようになりたいんだ」

「……そっか」

 二人の頭上の星がひとつ、ちかりと瞬いた。

「でも、        」

 少女の声をごう、と風が覆った。

「え?」

 少年が聞き返すが、なんでもないと少女は笑う。

 呟いた言葉は風に飛ばされ、少年に届くことはなかった。


 しばらくして、今度は、少女が口を開く番だった。

 少女が答えられなくて、少年が終わりにしてくれた話。しかし、少女はその話を再び始めようとしていた。


 それが、二人の過ちだったのかもしれない。


「貴方は、どうしてここに居たの?」

 ──どうして、ずっと星を見ているの。

 そう問うた瞬間、少年の顔が強ばるのが薄暗闇でもわかった。

 訊いてはいけなかったのかもしれない。きっとそうだ、自分は答えられなかったのだから。

 撤回しよう。少女がそう思ったときだった。

 ふー、と長い息を吐いて、少年は肩の力を抜いた。そして、力なく笑う。

「星が、好きで」

 笑っていいよ、と少年は自嘲した。

 そんな少年の笑顔が心に痛くて、少女は間髪入れずに返した。

「素敵だよ。少なくとも、笑うようなことじゃない」

 見開かれた目を見て、なんとなく、本当になんとなくだが少女は察してしまう。

 ──驚くということは、その経験が少ない、または無いということ。

 少年が、否定され続けてきたことを。

 自嘲的な笑みを引っ込めた顔に残ったのは、寂しさだけだった。

 その口から、閉じこめられていた言葉たちが、堰を切ってあふれ出す。

「違うんだ。普通の人の『好き』じゃない。僕のこの『好き』は、たぶん焦がれるのと同じ、憧れの『好き』なんだ。理由なんてわからない。ただひたすらに星が好きで、どうしようもなくて、このまま星になってしまっても構わない。むしろ、────星になりたいくらいだ」

 初めは弁明するかのように早口に、

 次第にゆっくりと、

 最後は吐息とともに紡がれた、

 それは、告白だった。

 まさしく、叶わない片想いのようで。

 少女はなにも言えなかった。その痛みは、少女自身もよく知るものだから。

 独白は、静かに紡がれ続ける。

「できることなら、ここから消えてしまいたい」

 たとえば、と前置きがされる。

「この『僕』という存在が砕け散ったら、その無数の欠片のひとつくらいは――」

 少年は不意に少女のほうを向く。

 その瞳は、淡い夜の帳でもわかるほど色濃く、悲しみに縁取られていた。

「――――星に、なれるような気がして」

 普通なら笑い飛ばすような台詞だけど、それは、とても冗談ではない響きだった。

 一瞬交錯した視線は、少年が目を伏せたことで離ればなれになる。

 それはただの妄想、ただの幻想。叶うはずがないことは二人にとってもわかりきっていることだった。

 少年は黒い川のほうに、

 否、

 星が散る空に向き直った。


 ――それでも、せめて、願うことくらいは。


 少年は唾をのみ込んだ。

 白い喉が上下し、黒い髪が風にあおられる。

 黒曜石の瞳が、一度、瞬いて、血の気のない白い頬に、


 透明の雫が

 音もなくつたった。


 少女は小さく息をのんだ。

 その、つくりもののような冷たい美しさに。もしくは、掻き消えてしまいそうな儚さに。

 ああそっか、と少女は痺れた頭のどこかで思った。


 ああそっか、哀しいんだ。


「泣かないで」

 気づけば、少女はそう言っていた。

 少年の正面へと回り、その白磁のような頬に両手を添える。

 言葉と言葉のあいだで、黒い川の流音だけが響いている。

 ――なかないで、と繰り返されるその言葉で、少年は自らが泣いていたことに気づく。

 ぼくは、と唇が音もなく動いた。

 目を伏せて、少女は首を振る。そして少年の目を真正面から覗き込み、優しく微笑んだ。

 少女の明るい色の瞳に、少年の姿が映る。中の少年も、哀しそうな目をして少年を見つめ返した。

 再び、新しい雫が頬を滑っていく。

 少女は手をのばして、赤子をあやすように少年の頭を撫でる。そして、祈るように囁いた。

「消えたいなんて、言わないで」

 少年のまぶたがぎゅっと閉じられる。目のふちに留まっていた涙は、睫毛に小さな水滴を残して流れ落ちた。

 少女は、しばらくそのうつむいた頭をそっと撫でていた。


 どれくらい、そうしていたのだろうか。

 少年は、自分の頬に添えられた手に、ためらいがちに触れた。

 触れた箇所から広がるそのぬくもりは、いったいどちらの手のものか。

 少女の目が丸く見開かれる。伏せられたままだった少年のまぶたがゆっくり持ち上げられ、

 かすかに、微笑んだ。

「……ありがとう」

 少女は、自分のしていることに今さら慌てて、ぱっと手を離した。

 頬が次第に熱を帯びていく。

「暗くなってきたね」

 そんな少女を知ってか知らずか、少年は至って普通のことを言う。

 うん、と少女は赤い顔のままうなずいた。

 これでお別れなのだろうか。せっかく、少し、仲良くなれたのに。

「……あのさ?」

 少女は顔を上げた。少年の視線が右、左と泳いで、

「もしよかったら、また会いたいんだけど」

 そう言った頬もまた、赤みがさしていた。

 少女はふわ、と嬉しそうに笑ってそれに答えた。

 断る理由なんて、どこにもない。

「──貴方がいいのなら、ぜひ」

 ん、と少年も赤い顔でうなずいて、小指をさし出した。

「約束」

 小指を絡めるだけの、ささやかな約束。

 二人は互いを見て、小さく笑い合った。


 それじゃあ、と言って別れた帰路で、一人と一人は物思いにふける。

 少年は、受け入れてもらえたことが嬉しくて。

 少女は、高鳴る鼓動の正体に気づかないふりをしながら。


 ────『ずっと、こうして』会いたい。


 そう強く願った瞬間、頭上の星が流れたことに、二人が気づくことはなかった。

 強い願いは、一言一句違わず星に届いた。

 妖しい軌跡を残して、星は、消えた。



 星たちはうたう。

 ──シュクフクヲ。

 ──カナエラレシネガイニ、シュクフクヲ。


 ──シュクフクヲ。

 ──トコシエニクリカエサレルヒビニ、シュクフクヲ。


 ──シュクフクヲ。





 そんな簡単に、現実は廻らない。














 再び夜が明け、そして


 太陽が沈む頃、





    ────そして物語は冒頭へと戻る────


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