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枯葉のハーモニー

作者: 雨音トキ
掲載日:2026/02/22

十一月の美術館。静寂が、壁を伝って響いている。


私、椎名奏、二十二歳。美術大学四年。卒業制作の提出まで、あと一ヶ月。


白いキャンバスの前で、パレットを握る。絵の具の匂い。テレピン油の刺激。


でも、筆が動かない。


何を描けばいいのか、分からない。


大学に入る前、私はピアノを弾いていた。音大を目指していた。


でも、三年前、交通事故で右手の神経を損傷した。


リハビリを重ねたけれど、以前のようには動かない。細かいパッセージが弾けない。


「音楽は、諦めなさい」


医者に言われた。


それから、私は美術に「変身」した。


右手が使えないなら、左手で描けばいい。


音楽家から、画家へ。


でも、心の中では、いつも音が鳴っている。


枯葉が風に舞う音。足音のリズム。遠くから聞こえる車のエンジン音。


全てが、楽譜に見える。


キャンバスの前で、私は音を聴いている。


でも、それを絵にすることができない。


「奏ちゃん、まだ描けてないの?」


後ろから声がかかった。同級生の美咲だ。


「うん」


「もう時間ないよ。私は、もう八割できてる」


美咲のキャンバスを見る。鮮やかな色彩対比。赤と緑。青とオレンジ。


完璧な構図。教科書通りの美しさ。


「すごいね」


「でしょ。卒業制作、これで推薦もらえると思う」


美咲が去った後、私はキャンバスに向き直る。


音楽家だった私は、死んだ。


でも、画家になった私は、まだ生まれていない。


翌日。指導教授の部屋を訪ねた。


「先生、相談があります」


教授は、六十代の穏やかな男性。白髪。優しい目。


「どうしたの?」


「私、音を描きたいんです」


教授が、眉をひそめた。


「音を?」


「はい。私、昔、ピアノを弾いていて。今でも、世界が音楽に聞こえるんです」


スケッチブックを見せる。


そこには、音符のようなもの。波線。リズムを表す記号。


「これは、美術じゃないよ」


「分かっています。でも」


「卒業制作は、絵画か彫刻。音楽は、美術の領域じゃない」


その言葉が、胸に刺さった。


「でも、先生。美術と音楽の境界って、本当にあるんですか?」


教授が、長い沈黙の後、言った。


「それは、禁じられた問いだよ」


「え?」


「美術には、美術のルールがある。音楽には、音楽のルールがある。それを混ぜるのは、どちらの世界も冒涜することになる」


「でも、私には、それしかできないんです」


教授が、ため息をついた。


「やるなら、覚悟しなさい。評価されないかもしれない。卒業できないかもしれない」


「分かりました」


部屋を出た。


私は、境界を越えることにした。


美術と音楽の境界。


許されない領域へ。


制作室。


周りの学生は、みんな才能がある。美咲のような完璧な構図。隣の田中君の緻密なデッサン。


私には、彼らのような技術がない。


右手は不自由。左手も、まだ慣れていない。


でも、私には、彼らにないものがある。


音を視覚化する方法。


キャンバスに、パレットを置く。


でも、普通の絵の具じゃない。


私は、絵の具に砂を混ぜた。ザラザラした質感。


それから、枯葉を拾ってきて、砕いて、混ぜた。


キャンバスに塗る。


色じゃない。質感。触れると、音がする気がする。


次に、糸を張った。キャンバスの表面に、細い糸を何本も。


風が吹けば、震える。


それは、もはや絵画じゃなかった。


でも、これが私の方法。


技術で勝てないなら、別の道を行く。


美咲が、私のキャンバスを見て笑った。


「奏ちゃん、それ、何? ゴミ?」


「これは、音だよ」


「音? 意味分かんない」


美咲は去った。


でも、私は続ける。


弱者の戦い方。


力じゃない。知恵で。


卒業制作展の前日。


教授が、制作室に来た。


「奏、ちょっといいかな」


「はい」


教授が、私のキャンバスを見つめている。


「これ、触っていい?」


「どうぞ」


教授が、表面に触れる。ザラザラした砂。枯葉の欠片。張られた糸。


「風が吹くと、震えるんだね」


「はい」


教授が、目を閉じた。


「聞こえるよ」


「え?」


「音が。これは、ハーモニーだ」


教授が、目を開けた。


「奏。実は、私も昔、音楽をやっていたんだ」


「本当ですか?」


「ヴァイオリン。でも、ある日、聴力を失った」


教授の目が、遠くを見ていた。


「それから、美術に転向した。音が聞こえないなら、見ればいいと思って」


「先生も……」


「うん。だから、君の気持ちが分かる」


教授が、微笑んだ。


「私が君を指導したのは、偶然じゃない。君の入試の作品を見た時、分かったんだ。この子は、音を描いている、と」


涙が出そうになった。


「ありがとうございます」


「私は、君に音楽を諦めさせた医者と同じことをしようとしていた。でも、君は、諦めなかった」


教授が、私の肩に手を置いた。


「明日の展示、楽しみにしているよ」


その夜。


制作室で、一人、作品を見つめる。


教授は、かつて音楽を失った。


そして、美術で生き延びた。


今、私は、その教授に教えを受けている。


これは、因果だ。


教授が失ったものが、私の中で蘇っている。


そして、私の作品が、教授に音を思い出させている。


卒業制作展。当日。


美術館の一室に、私の作品が展示された。


タイトルは『枯葉のハーモニー』。


キャンバスに、砂と枯葉。張られた糸。


照明が当たると、影が壁に映る。


風が吹くと、糸が震える。


来場者が、立ち止まる。


「これ、何?」


「分からないけど、不思議」


「触っていいのかな」


ある老人が、作品の前で立ち止まった。


じっと見つめている。


それから、目を閉じた。


涙を流している。


私は、そっと近づいた。


「あの、大丈夫ですか?」


老人が、目を開けた。


「君が、作者?」


「はい」


「ありがとう」


「え?」


「私の妻は、三年前に亡くなった。ピアニストだった」


老人の声が、震えている。


「妻の演奏を、もう聞くことはできない。でも、この作品を見ていたら、聞こえた気がしたんだ」


老人が、作品に手を伸ばす。


「枯葉の音。風の音。それが、ハーモニーになって」


私も、涙が出た。


「私も、ピアノを弾いていました。でも、手を怪我して」


「そうか」


老人が、微笑んだ。


「君は、音楽を諦めたわけじゃないんだね」


「え?」


「これは、音楽だよ。形は違うけど、確かに音楽だ」


その言葉で、やっと分かった。


私は、音楽を失ったと思っていた。


ピアノが弾けなくなって、音楽家としての道を諦めたと。


でも、違った。


音楽は、形を変えて、私の中に生き続けていた。


キャンバスの中に。砂の中に。枯葉の中に。


美術に「変身」したのではなく、音楽が「変身」したんだ。


教授が、近づいてきた。


「奏。審査結果が出た」


「はい」


「君の作品、最優秀賞だ」


信じられなかった。


「本当ですか?」


「審査員全員が、君の作品に投票した。『これは、新しい表現だ』と」


美咲が、遠くから見ている。信じられないという顔。


でも、私には、もう比べる必要がない。


美咲には、美咲の美がある。


私には、私の音がある。


会場を出ると、秋の風が吹いていた。


枯葉が、足元に舞い落ちる。


カサカサという音。


それが、音楽に聞こえる。


私の右手は、もうピアノを弾けない。


砂時計のように、時は戻らない。


でも、私は新しい楽器を見つけた。


キャンバス。パレット。絵の具。


それらが、私の楽譜になった。


卒業する。


音大ではなく、美大から。


でも、私は、音楽家だ。


形は違うけど。


手段は違うけど。


確かに、音楽を奏でている。


美術館の前で、教授が待っていた。


「奏。おめでとう」


「ありがとうございます」


「これから、どうするの?」


「分かりません。でも、音を描き続けます」


教授が、頷いた。


「それが、君の道だ」


風が、また吹く。


枯葉が舞う。


その動きが、リズムを刻む。


色彩対比じゃない。


ハーモニーだ。


世界は、音楽で溢れている。


それを、私は描く。


音楽家から画家へ変身したのではなく、音楽家が、新しい楽器を手に入れただけ。


それが、私の真の価値だった。


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