枯葉のハーモニー
十一月の美術館。静寂が、壁を伝って響いている。
私、椎名奏、二十二歳。美術大学四年。卒業制作の提出まで、あと一ヶ月。
白いキャンバスの前で、パレットを握る。絵の具の匂い。テレピン油の刺激。
でも、筆が動かない。
何を描けばいいのか、分からない。
大学に入る前、私はピアノを弾いていた。音大を目指していた。
でも、三年前、交通事故で右手の神経を損傷した。
リハビリを重ねたけれど、以前のようには動かない。細かいパッセージが弾けない。
「音楽は、諦めなさい」
医者に言われた。
それから、私は美術に「変身」した。
右手が使えないなら、左手で描けばいい。
音楽家から、画家へ。
でも、心の中では、いつも音が鳴っている。
枯葉が風に舞う音。足音のリズム。遠くから聞こえる車のエンジン音。
全てが、楽譜に見える。
キャンバスの前で、私は音を聴いている。
でも、それを絵にすることができない。
「奏ちゃん、まだ描けてないの?」
後ろから声がかかった。同級生の美咲だ。
「うん」
「もう時間ないよ。私は、もう八割できてる」
美咲のキャンバスを見る。鮮やかな色彩対比。赤と緑。青とオレンジ。
完璧な構図。教科書通りの美しさ。
「すごいね」
「でしょ。卒業制作、これで推薦もらえると思う」
美咲が去った後、私はキャンバスに向き直る。
音楽家だった私は、死んだ。
でも、画家になった私は、まだ生まれていない。
翌日。指導教授の部屋を訪ねた。
「先生、相談があります」
教授は、六十代の穏やかな男性。白髪。優しい目。
「どうしたの?」
「私、音を描きたいんです」
教授が、眉をひそめた。
「音を?」
「はい。私、昔、ピアノを弾いていて。今でも、世界が音楽に聞こえるんです」
スケッチブックを見せる。
そこには、音符のようなもの。波線。リズムを表す記号。
「これは、美術じゃないよ」
「分かっています。でも」
「卒業制作は、絵画か彫刻。音楽は、美術の領域じゃない」
その言葉が、胸に刺さった。
「でも、先生。美術と音楽の境界って、本当にあるんですか?」
教授が、長い沈黙の後、言った。
「それは、禁じられた問いだよ」
「え?」
「美術には、美術のルールがある。音楽には、音楽のルールがある。それを混ぜるのは、どちらの世界も冒涜することになる」
「でも、私には、それしかできないんです」
教授が、ため息をついた。
「やるなら、覚悟しなさい。評価されないかもしれない。卒業できないかもしれない」
「分かりました」
部屋を出た。
私は、境界を越えることにした。
美術と音楽の境界。
許されない領域へ。
制作室。
周りの学生は、みんな才能がある。美咲のような完璧な構図。隣の田中君の緻密なデッサン。
私には、彼らのような技術がない。
右手は不自由。左手も、まだ慣れていない。
でも、私には、彼らにないものがある。
音を視覚化する方法。
キャンバスに、パレットを置く。
でも、普通の絵の具じゃない。
私は、絵の具に砂を混ぜた。ザラザラした質感。
それから、枯葉を拾ってきて、砕いて、混ぜた。
キャンバスに塗る。
色じゃない。質感。触れると、音がする気がする。
次に、糸を張った。キャンバスの表面に、細い糸を何本も。
風が吹けば、震える。
それは、もはや絵画じゃなかった。
でも、これが私の方法。
技術で勝てないなら、別の道を行く。
美咲が、私のキャンバスを見て笑った。
「奏ちゃん、それ、何? ゴミ?」
「これは、音だよ」
「音? 意味分かんない」
美咲は去った。
でも、私は続ける。
弱者の戦い方。
力じゃない。知恵で。
卒業制作展の前日。
教授が、制作室に来た。
「奏、ちょっといいかな」
「はい」
教授が、私のキャンバスを見つめている。
「これ、触っていい?」
「どうぞ」
教授が、表面に触れる。ザラザラした砂。枯葉の欠片。張られた糸。
「風が吹くと、震えるんだね」
「はい」
教授が、目を閉じた。
「聞こえるよ」
「え?」
「音が。これは、ハーモニーだ」
教授が、目を開けた。
「奏。実は、私も昔、音楽をやっていたんだ」
「本当ですか?」
「ヴァイオリン。でも、ある日、聴力を失った」
教授の目が、遠くを見ていた。
「それから、美術に転向した。音が聞こえないなら、見ればいいと思って」
「先生も……」
「うん。だから、君の気持ちが分かる」
教授が、微笑んだ。
「私が君を指導したのは、偶然じゃない。君の入試の作品を見た時、分かったんだ。この子は、音を描いている、と」
涙が出そうになった。
「ありがとうございます」
「私は、君に音楽を諦めさせた医者と同じことをしようとしていた。でも、君は、諦めなかった」
教授が、私の肩に手を置いた。
「明日の展示、楽しみにしているよ」
その夜。
制作室で、一人、作品を見つめる。
教授は、かつて音楽を失った。
そして、美術で生き延びた。
今、私は、その教授に教えを受けている。
これは、因果だ。
教授が失ったものが、私の中で蘇っている。
そして、私の作品が、教授に音を思い出させている。
卒業制作展。当日。
美術館の一室に、私の作品が展示された。
タイトルは『枯葉のハーモニー』。
キャンバスに、砂と枯葉。張られた糸。
照明が当たると、影が壁に映る。
風が吹くと、糸が震える。
来場者が、立ち止まる。
「これ、何?」
「分からないけど、不思議」
「触っていいのかな」
ある老人が、作品の前で立ち止まった。
じっと見つめている。
それから、目を閉じた。
涙を流している。
私は、そっと近づいた。
「あの、大丈夫ですか?」
老人が、目を開けた。
「君が、作者?」
「はい」
「ありがとう」
「え?」
「私の妻は、三年前に亡くなった。ピアニストだった」
老人の声が、震えている。
「妻の演奏を、もう聞くことはできない。でも、この作品を見ていたら、聞こえた気がしたんだ」
老人が、作品に手を伸ばす。
「枯葉の音。風の音。それが、ハーモニーになって」
私も、涙が出た。
「私も、ピアノを弾いていました。でも、手を怪我して」
「そうか」
老人が、微笑んだ。
「君は、音楽を諦めたわけじゃないんだね」
「え?」
「これは、音楽だよ。形は違うけど、確かに音楽だ」
その言葉で、やっと分かった。
私は、音楽を失ったと思っていた。
ピアノが弾けなくなって、音楽家としての道を諦めたと。
でも、違った。
音楽は、形を変えて、私の中に生き続けていた。
キャンバスの中に。砂の中に。枯葉の中に。
美術に「変身」したのではなく、音楽が「変身」したんだ。
教授が、近づいてきた。
「奏。審査結果が出た」
「はい」
「君の作品、最優秀賞だ」
信じられなかった。
「本当ですか?」
「審査員全員が、君の作品に投票した。『これは、新しい表現だ』と」
美咲が、遠くから見ている。信じられないという顔。
でも、私には、もう比べる必要がない。
美咲には、美咲の美がある。
私には、私の音がある。
会場を出ると、秋の風が吹いていた。
枯葉が、足元に舞い落ちる。
カサカサという音。
それが、音楽に聞こえる。
私の右手は、もうピアノを弾けない。
砂時計のように、時は戻らない。
でも、私は新しい楽器を見つけた。
キャンバス。パレット。絵の具。
それらが、私の楽譜になった。
卒業する。
音大ではなく、美大から。
でも、私は、音楽家だ。
形は違うけど。
手段は違うけど。
確かに、音楽を奏でている。
美術館の前で、教授が待っていた。
「奏。おめでとう」
「ありがとうございます」
「これから、どうするの?」
「分かりません。でも、音を描き続けます」
教授が、頷いた。
「それが、君の道だ」
風が、また吹く。
枯葉が舞う。
その動きが、リズムを刻む。
色彩対比じゃない。
ハーモニーだ。
世界は、音楽で溢れている。
それを、私は描く。
音楽家から画家へ変身したのではなく、音楽家が、新しい楽器を手に入れただけ。
それが、私の真の価値だった。




