第2話 ふつかめ。
「昨日、夜更かしでもしたの?」
翌日の学校からの帰り道。
彼女がそんなことを聞いてきた。
昨日と同じくらいの時間、同じ道のり。
ただ今日の空は少し雲が多くて、その分暗くなるまでの時間は短そうだった。
「眠そうに見える?」
「今は見えない。けど、授業中はずっと寝てたでしょ」
おかしいな、ちゃんとバレないように姿勢を保っていたつもりだったんだけど。
しかも僕は彼女よりも後ろの席なのに。
「駄目だよ、ちゃんと授業聞かなくちゃ」
「……誰のせいだよ」
聞こえないように、こっそりと呟く。
確かに今日の僕は寝てばかりだった。だけどそれは昨夜、なかなか眠りにつけなかったからで、その理由は目の前の彼女にある。昨日の帰り道のアレは結局のところ、一体何だったんだろう。本当に単にからかわれただけだったのだろうか。
「ひょっとして、私のせいだったりする?」
とても小さな声のつもりだったのに聞こえてしまったらしい。いつものことだけど、この時間帯のこの道は静かすぎる。バイクの一台でも走っていれば、聞こえなかったかもしれないのに。
「……違うよ」
せめてもの抵抗。当然、通用するはずがない。彼女がすっと顔を近づけてきた。昨日もそうだったけど、妙に息が詰まる。
「あの、近いんだけど」
「何が近いのかな」
「だから、その……顔が」
言うと、彼女は楽しそうに笑みをこぼした。吐息が触れて、また頭がくらくらしそうになってくる。その様子を見届けると、満足げに彼女は距離に戻した。
「ふふっ」
「何だよ」
「君、やっぱり昨日のことを気にしてるでしょ」
意地悪そうな表情に、からかうような声。
少しムッとなった。
「ね、そうなんでしょ」
「……違うよ」
「隠さなくてもいいのに」
「だから、違うって」
「あー、やっぱりそうなんだあ」
相変わらず、聞く耳を持たない。
ますます頭に血が上る。
「ね、ね、ひょっとしてそれで睡眠不足だったりする?」
「何も言ってないだろ」
「言わなくてもわかるよ。表情に出てる」
「っ!」
「ね、ね? ――君、ひょっとして私のことを意識しちゃったのかな?」
そんなことない、の一言が咄嗟には出てこなかった。
図星。彼女の言うとおりだった。今日の昼間だって気がつけば姿を目で追っていた。顔を見ると心臓の動きが途端に早まって苦しく感じられた。
「ふふっ」
黙ったままでいると彼女がまた笑った。また勝手に解釈したらしい。そういうのは止めて欲しいと言いたいけど、外れているわけではないので何も言えない。
くそっ。
少し自棄になりかけてた。
「……しょうがないだろ、あんなこと聞かれたら」
「あんなこと? それって何のことかな」
「しらばっくれるなよ、わかってるんだろ」
「さあ?」
白々しくそう言われた瞬間、思考が止まった。
引き金になった、と言い換えてもいい。
心の中に溜まっていた鬱憤が、一気に口から吐き出された。
「好きな子がいるのかとか、私のことをどう思ってるのとか。そんなことをいきなり言われたら誰だって戸惑うだろ? 気になるだろ? 何考えてるんだろうってなるだろ。おまけに最後には茶化して終わるから余計にわからなくなるし。それで何も引きずるなって言う方がムチャじゃないのか? おまけに今日もまたこんな感じだし。君は一体……」
……何がしたいんだよ。
息が続かなくて、そこで言葉が途切れてしまった。
次の瞬間から、後悔の念が生じ始める。
つい責めるようなキツい口調になってしまった。そんなに声を荒げるつもりなんてなかったのに。
「……そう」
彼女からしたら、いきなり爆発したかのようなものだったのかもしれない。呆然としているように見えた。
「あ、いや、その……」
何とか訂正を試みようする。
だけど次の一言で、その必要がないことがわかった。
「そうなんだ。つまり君は『私のことを意識するようになって戸惑ってる』と」
……彼女にとって重要だったのはそこらしい。
「ねえ、それってどんな感情なのかな」
「どんなって……」
「つまり、私のことを『好き』になったってこと?」
「っ!」
言葉に詰まる。
好き? 僕が彼女を?
言われて愕然とする。
もやもやした感情を持て余すばかりで、その発想にはいたらなかった。
「好きって……それはつまり……」
「――異性に対する恋愛感情――それしかないと思うけど」
はっきりと言われてしまった。全身が一気に熱くなり、汗が滲み出てくる。
「ねえ……君は私のこと、好き?」
そんな言葉が自分に向けられたのは、僕の人生でこれが初めてのことだった。
「……そんなの、わからないよ」
「わからないって、どういうこと?」
「言葉通りのままだよ。今まで女子の誰かを特別だなんて思ったことは無かった。意識した事なんて無かったんだ。だから今のこの気持ちがどうかなんてわからないんだよ」
「自分のことなのに? 何かこう『ビビッ』と本能的にわかったりしない? 『ああ、これが恋なんだあ』みたいな感じで」
ふるふると僕は首を横に振る。何だ「ビビッ」て? 彼女にはそういう体験があるのだろうか。
「うーんと、じゃあね……」
彼女が少しだけ何か考える仕草をしてから呟いた。
少し熱のこもった声音。そんな気がした。
「ねえ」
「……何?」
「私とキスしよっか」
「――は?」
いきなり何を言い出すんだ。
「だからキスだよ、キス。く、ち、づ、け」
言いながら自分の口元に人差し指を当てる。ちょうど雲間から覗いていた月の光が彼女にあたり、妙に大人っぽく感じられてドキッとした。
「ねえ、どうかな」
「そんなこと、急に言われても……」
「する? それとも、しない?」
無意識のうちに、彼女の指からその先、触れている唇へと視線が移る。殊更に胸の鼓動が早くなるのを感じた。慌てて目を逸らすと、今度は濡れたように輝いている瞳が視界に入り込んできた。
そのまま吸い込まれていきたい気分になる。
自然と身体が動こうとするのを感じた。
――いけない。
はっと我に返り自制する。
「—―だから、何でいきなりそんなことになるんだよ」
「キスしたら、きっと君も自分の気持ちがわかるんじゃないかなって思って」
「発想が飛躍しすぎだよ」
「そんなことないよ」
「いや、あるって」
どういう理屈なんだそれは。
第一、それじゃ順序が逆だろう。
「まあ、いいじゃない」
「良くないよ」
「いいの。私がそう言ってるんだから」
「そんな無茶苦茶な……」
「いいから早くどっちか決めて。――する? それとも、しない?」
……これはもう、どっちか答える以外に選択肢は無いのか。
とても理不尽さを感じる。
でもいつだって会話の主導権は彼女にあった。
今日に限ったことじゃない。
だから今回も、やはり折れるのは僕の方だろう。
……しばらく逡巡した後、僕は彼女への答えを口にした。
「しない」
「――どうして?」
「……上手く言えないけど、キスってのは好きな人同士がするものだろ? だから何ていうかその……とにかく、こういうのは嫌なんだ」
「こういうのって?」
「えっと、だからその……こう、会話のノリで……みたいな?」
――あ。
声に出した途端、失敗したと直感でわかった。
「っ!」
彼女がはっと息を飲み込んだのがわかり、確信へと変わる。
違う、そうじゃない。
そう伝えようとして、必死に頭の中で言葉を探そうとする。
――けれど、もう遅かった。
俯いてしまった彼女から、消え入るような小さな声が聞こえてきた。
「そっか。そんなふうに思ってたんだ」
「いや……」
「冗談半分に受け取ってたんだ」
「だから、そうじゃくて……」
「ごめんね、無理強いして困らせちゃって」
「あの……」
「いいよ、もう」
僕の言葉を全て遮り、彼女は顔をあげた。
さっきまでとは明らかに違う――今にも泣き出しそうな表情。
「心配しないで、もう言わないから」
「……」
「ごめん。今日は先帰るね、私」
言い終わるや否や、彼女は背を向けて駆けだして行ってしまった。
……違うんだ。
そう思いつつも、身体が動かない。声も出ない。
どんどんと遠くなっていく彼女。
僕はその後ろ姿をただ見送ることしか出来なかった。
――彼女が男子から告白されていたことを知ったのは、その次の日のことだった。




