つきまとい
大昔に見た、夢の話をしよう。
授業中だった。
どうやら大学生のようだった。ものすごく急な階段教室の、後ろの方の席に座っていた。講義をしている先生をだいぶ見下ろしている感じだ。
私は一応真面目に出席し、ノートをとろうとしているのだが、とても集中できない状態だった。
隣に座る男が、やたら話しかけてくるのだ。
男はここしばらく私につきまとっていた。
私の何が気に入ったのか、どうやら付き合って欲しいというようなことを言って、私の行く先々に現れていた。
男と知り合ったのは、ごく最近だ。
特に何があった訳でもなく、私には顔と名前が一致しているだけの他人で、好きも嫌いもなかった。なのにいきなり距離を詰められて、私はドン引きだった。
そっけない態度くらいでは効かず、何度かはっきりと拒否したのに、男は一向にめげなかった。
言葉が通じない感じに、私はかなりうんざりしていた。
講義に全く集中できず、助けてくれそうな友人もあいにく側にいない。
私は荷物をまとめて教室を出た。
教室は、背の高い円柱の中にあり、建物の外へ出るには長い長い梯子を降りなければならなかった。背の高い煙突の外側を天辺から降りて行くような感じだ。
私はあまり高い所が得意ではない。
幅の細い金属製の梯子はとても怖かった。
なぜこの教室はこんな作りなのか、だからこの授業は嫌なのだ。
荷物を背負い、梯子をしっかり握りしめて一段一段ゆっくり降りて行く。踏み外さないよう足元を見て、決して下は見ないように。
よりによって、どうして今日はセミフレアの膝下丈スカートを履いてきてしまったのだろう。降りづらい。
さわり、と何かが膝裏を触った。
咄嗟に両手でがっちりと梯子を握りしめ、右側を見た。
あの男がにたりと笑ってそこにいた。
梯子はもう一本あって、いつの間にか、男は私の隣まで追いかけて来ていたのだ。手を伸ばせばいくらでも私を触れる距離。男の手は私に向かって伸ばされたまま。
ぞっと血の気が引いた。不安定な高所に二人きり。
固まっている場合ではないと私は慌てて手足を動かす。
必死に降りているのに、慌てて足を滑らせたらという恐怖で、思うように逃げられない。
男はにやにや笑いながら(にこにこしているつもりなのかも知れないが)、余裕で私に合わせて降りていて、触るのをやめない。
「やめて下さい」そう言っても無駄だった。
「慌てると危ないよ〜」我儘な彼女を宥めるような口調。
振り払えないのをいいことに、膝や太腿を撫でては離れて行く手。
恐怖と嫌悪で私は半泣きで叫んだ。
「やめて下さい!!触らないで!!」
睨みつけると、初めて男は薄ら笑いをやめた。
怒鳴りつけた反動が怖くて、わたしは身をすくませた。梯子の左側に寄り、少しでも男から距離をとる。
男は、戸惑ったような、怪訝そうな表情で、私を見た。
そして、それからにっこり笑った。
「じゃあ、先に行ってるね〜」
そう言って、梯子から手を離した。
私は声も出なかった。
視界から消えた男の行方を見ることもできなかった。
何を考えることもできない。
がくがく震える手足を何とか動かして、残りの距離を降りた。酷く時間がかかった。
地面に降り立って目をやると、思ったよりも離れた場所に男が倒れていた。
まばらに生えた草があるだけの、白っぽい土の上に横たわる男はぴくりとも動かない。顔はあちらを向いて横になっているので見えない。
男の体が不自然に捩れていないか、血は流れていないか、確認するのが恐ろしくてそれ以上は見られなかった。
助けなくては、助けを呼ばなくては、と思う。
しかしひりついた喉は何も音を出せない。全身が震えて動けない。
どうしようどうしようどうしよう。
人が落ちたのが怖かった。
しかもさっきまで笑っていた。
どうして自分から落ちた。飛び降りて無事に済むような高さじゃない。
私が邪険にしたから? いや、当たり前のことを言っただけ。
私のせい? 違う違う。手を振り払ったわけでも押しのけたわけでもない。私のせいじゃない。
勝手に落ちたの。私のせいじゃない。
内心で必死に自己弁護しながら、がくがくする足をどうにか動かす。
実際にはあっという間だったのかもしれないが、体感的には恐ろしくじりじりと男へ近づく。
ともかく怪我の状態を確認しなければならない。
男の顔は乱れたボサボサの髪に隠れてよく見えない。
見える範囲には血が流れた様子はない。
だが、痛みにうめくような声もない。
気を失っているのか、それとも‥
触るのは怖かったが、私は恐る恐る手を伸ばした。
「つーかまえたー」
男の手が私の右足首を掴んだ。
悲鳴を上げた、と思う。
私はもう無我夢中で男を振り払って逃げた。
私は家に逃げ帰り、そのまましばらく外出できなかった。
男が高所から落ちたこと、怪我をしたかも知れないことを、私は誰にも言えなかった。
私は悪くないと言い訳しながら、怪我人を見捨てた罪悪感でいっぱいだった。男を突き落として殺そうとした加害者のような気さえしていた。男がへらへら笑いながら報復にやってくるようで、息を潜めていた。
しかし、しばらく時が経っても何も起きなかった。
恐る恐る会ってみた友人たちは誰も男の話をせず、以前と変わらない様子だった。
自分から余計なことは聞けず曖昧なまま、日常が戻ってしまった。
それきり男は現れなかった。
日が過ぎるうち、私の中でも男の存在は薄れていった。
ほんの一時私につきまとっていただけで、思えば私は男の学部や学年も知らない。同じ大学の学生だったかどうかすら怪しい。
揶揄われただけだったのかも。
そう思うのは気が楽になるが、後ろめたい気にもなる。
肌に触れられた手の感触や間伸びした声を思い出すと、鳥肌が立つ。
嫌な気分になるばかりなので、私は男のことを思い出さないようにすることにした。
何年もたった。
私は大人になり、社会人になり、それなりに毎日暮らしている。
人付き合いはちょっと苦手だ。誰かが自分の近くにいる状態がどうにも慣れない。
だから、親しい友人も恋人もいない。
当たり障りのない人付き合いさえできれば、学生の頃と違って特に困ったりもしない。楽でいい。
そんなゆるゆる一人生活を満喫している私だが、今日は気合い入れてめかし込んだ。手持ちではどうにもならなかったので、メイクも服も、お金を払ってプロに頼んだ。
もうちょっと身なりに気を使えないのとお小言を言われてしまう私だが、今日は特別だ。
妹が結婚するのだ。
私には歳の離れた妹がいて、溺愛していた。
小さな頃から構い倒し、今にしてみれば妹としてはうざいと思うこともあったろうが、幸い嫌がらずお姉ちゃんっ子になってくれた。
私が家を出てからは若干疎遠になってしまったが、それでもまめに連絡は取り合ってきた。
その妹が今日、結婚式を迎える。
本当は結婚式の準備も色々手伝いたかった。
花嫁の母よろしく、ドレス選びなんかもしてみたかった。
しかし、実家は遠く、あまり嫁の姉などがしゃしゃり出るのもよろしくなかろうと大人しくしていた。
控室にいた白ドレスの妹は、とても綺麗だった。
嬉しそうに笑う妹に、早くも涙腺が緩んで仕方ない。
おめでとう、幸せになってという言葉もちゃんと伝わったかどうか怪しい。
くしゃくしゃになってしまった私に、妹はしょうがないなぁと笑った。そして、紹介するね、と続けた。
「私の旦那さんになる人だよ」
完全に失念していた存在に私は慌てた。
挨拶もせず失礼なことをしてしまったと、振り返った。
「初めまして、お義姉さん」
にたり、と笑う。
「やっとまた会えたね〜」
間伸びする声と張りついたような笑顔で。
あの男が立っていた。