私と娘の透明な壁
私には不幸がありません。一時期、私は不幸だと何度も思ったことはありますが、今の私はとても幸せです。障がいを持った娘と二人で暮らしています。
私は何度も娘なんて産まなきゃ良かったと思ったことがあります。娘の夢を親として応援できなかった時期もありました。
しかし、私の娘は強く夢に向かって進んでいきました。その姿を見て私は改めて、子供の強さを知りました。障害なんて関係ないと、娘はいつも前を向いていました。
私はそんな娘が大好きで、彼女は私の生涯の宝物です。
***
大学で知りあった夫と式を挙げ、子供を授かりました。夫はとても気前が良く、仕事に熱心で…でも、いつも家事を手伝ってくれる理想の男性でした。
子供ができたと言ったときも、とても喜び何度何度も私に向かって「ありがとう」と言いました。夫は笑顔の似合う人でしたから、生まれてくる子供もきっと笑顔の似合うこなんだろうなと、想像して、毎晩、毎晩、頬を緩ましていました。
子供を迎えるために、赤ちゃんクラブに入ったり、ベビーカーやベビーベッドを買いそろえたりしました。早く産まれてこないかなと、お腹をさすりながら子供に話しかけました。お腹の中にいる子供は、それに応えるように私の腹を蹴ります。
ちゃんと声が聞えているんだ…
と、とても嬉しくなりました。
しかし、其れが頻繁に蹴られるようになってから、少し違和感を覚えました。
今思えば、これは何かの危険信号だったのではないかと思います。
子供が生まれたのは丁度初雪の日でした。
私は、自宅で倒れ気がついた母が病院まで運んできてくれました。
夫は仕事で、知らせを聞いて帰る。とだけ連絡をよこしました。
夫は仕事が好きでしたし、今はとても忙しい時期だったので私は気を利かせて大丈夫だよ。と返しました。
でも、実際のところ不安でした。
初めての出産でしたし、いつも隣にいる夫が居ないことがとても悲しく思えました。
私はこれから母になるのに、怖いものがあるなんて……少し、子供に恥ずかしい気持ちになりました。
母親は私の隣で「頑張ってね」と強く手を握りしめてくれました。
少し、落ち着いたのを覚えています。
病室の外には白い花びらのような雪が舞い始めており、いよいよ吹雪になってきました。
知らせを受けて、親戚やお義母さんや、お義父さんまで駆けつけてくれました。
夫は、まだ到着していないようでした。
彼には子供の顔をいち早く見せたかったので、早く来てくれないかな…とそれだけが頭の中を回っていました。
私は部屋を移動し、赤ちゃんを産むためにベッドの上に寝転びました。
白い天井、一面白い部屋。部屋には私と、助産師さんらが居て、外には親戚らが居ます。
私は、力一杯赤ちゃんを押し出します。
子供も、一生懸命外に出るため下へ下へと降りてきます。
誰の声か分かりませんでしたが、「頭が見えました。もう少しですよ」と声をかけてくださったので、私は最後の一踏ん張りで声を出しながら気張りました。
おぎゃぁ
と、子供の泣き声が聞えたのをはっきりと耳で捉えました。
部屋には歓声があがり、「産まれました。元気な女の子ですよ」と私の隣に赤ちゃんを抱えて見せてくれました。
真っ赤な顔で、とても可愛らしい女の子が生まれました。
私は、彼女を優しく抱きしめました。
「産まれてきてくれてありがとう」
と、何度も言いました。其れが分かったのか、子供は私の頬をぺちペちと叩きました。
外で控えていた親戚らが部屋に入ってきました。私は、嬉しくて早く子供を見せたいばかりでした。
しかし、入ってきたお義母さんの顔はとても暗く他の皆も浮かない様子でした。私は思わず、「どうなさったんですか?」と聞くと、お義母さんはお義父さんの肩を借りて泣き出しました。
そして、義姉が私の名前を呼んでとてもとても悲しそうに私の夫の名前を言いました。
「あのね、雪子さん。正治はね交通事故で死んでしまったの…」
「え…」
正治、私の夫は死んだ。
其れを聞いたとき目の前が真っ白になりました。
何度も聞き返しましたが、返ってくる返答は変わらず私は絶望の淵に追いやられました。
夫はあれ程、子供がみたいと言っていましたし、何より私は夫と共に子供を育てていこうと言っておりましたので、絶望…その一言ですませられないぐらいでした。
部屋にいた助産師や、医者は何て言っていいのか分からないようでただ俯き、だんまりを決め込んでいました。
私は泣くことしかできず、生まれた子供以上に泣いていたと思います。
しかし、私は母になったのでこの子を育てていかなければなりませんでした。いえ、育てなければいけません。其れは親の義務ですから。
夫と事前に考えていた名前を子供に付けました。子供の名前は「夢愛」と言います。夢に向かって進んで欲しい。また、其れを助けるために私達親は愛を注ぐという意味が込められています。
私は、夢愛を抱きかかえて一晩中泣いていました。
夢愛は静かです。
まるで、父親を亡くしたことを悟ったかのようでした。其れもまた、少し気味悪かったのですが、私のことを心配してくれているのだと思うと、なんとも言えない気持ちになりました。
「たぁ…」
夢愛は小さな声で私に呼びかけました。
小さな手、小さな足…でも、夢愛から感じられるのは大きな力でした。夢愛は私に力をくれました。このこと共に生きていく。私はそう決めました。
そしてもう一度、彼女を抱きしめました。
しかし、そんな幸せもつかの間でした。
次の日だったと思います。私は医師に呼び出されある部屋のベッドの上でその話を聞くことになりました。夢愛は別室にいたと思います。
部屋に医師が入ってきた瞬間、決まりが悪そうな顔をこちらに向けられました。不吉な予感がしました。
そして、医師はゆっくりといすに腰をかけ重い溜息をしました。手には束ねられた資料が握られていました。
「どう、したんですか…?」
医師がちっとも話を始めないので、私は少しイラッとしてそう聞きました。医師はもう一度溜息をしてから、私の方を真っ直ぐ見ました。その目には諦め。の二文字が浮かんでいるようでいい話でないことは察しました。
医師は重い口を開き、ただこう言いました。
「貴方のお子さんですが……目が見えていません」
と。
多分私は、もの凄い顔になっていたと思います。全神経がストップしていた、或いは全筋肉が硬直していたのかも知れません。私は「はい?」と、理解できず医師に助けをもとめました。
医師は何度も、「ですから、貴方のお子さんは生まれつき目が見えないのです。全くね」と言います。どうしても其れが、他人事のようで私はその空間に一人取り残されてような気持ちになっていました。
「目が見えないとは?」
「生まれつきです。病院に通ってもらいながらの生活になるかも知れません。しかし、普通の生活は困難なものだと思います」
医師は淡々と話しました。
私の娘は目が見えない。
夢愛は私の姿を認識できていなかったというのです。もしかすると、私のことを母親とすら思っていないかも知れません。
医師はその後の人生のことを話していました。
幸いでしたが、私の家の近くには支援学校などそう言った障害を持ったこがはいれる施設がありましたし、その施設というのも凄い設備が整っていましたのでその点に関しては問題ありませんでした。
しかし、私の娘は普通の生活ができないのです。
目が見えないと言うことは、真っ暗な世界で生きていかなければならないと言うことです。
本当の意味で、世界に一人…だと思います。
医師は、色々と説明しました。
ただ私は、その説明も右から左へと流れていくばかりでした。
不幸の上に不幸が積み重なっていまいしたので、思考が追いついていなかったのだと思います。
夫を失い、最愛の娘は目が見えない。
こんな不幸、誰が想像できたと思いますか。
私は、医師が去った後夢愛がいる部屋に戻りました。
夢愛は元気に泣いていました。しかし、目が見えないので悲しくて、怖くて泣いているようにも思え、惨めに思えてならなかったのです。
私は、夢愛に目もくれず布団に潜っていたと思います。
母としてならぬ行為でした。
それは、これからどうしていけばいいのか分からない、先の見えない不安に押しつぶされてしまいそうだったからです。
障害を持った子供と生きていく。それは簡単なことではありません。
第一、その子供の障害と向き合ってかなければなりませんでしたし、何より其れを支えていかなければならなかったのでとても私にできるようなことではありませんでした。
夫が居れば少し話は変わっていたと思います。しかし、その夫も還らぬ人となった。
私一人にはとうてい無理です。
自信が全くありませんでした。
それどころか、子供を産まなきゃ良かったと思ってしまいました。
夢愛の泣き声が五月蠅いとまで思ってしまいました。
母親としてこの時点で失格でした。
話を聞きつけた親戚は退院後、色々と世話を焼いてくれました。
少し助かったことと言えば、事前に買って置いた赤ちゃんグッズが役に立ったことです。これは、夫が生きているときに一緒に買ったものでした。本来なら、その夫と二人で彼女を育てるはずでした。
もう一つ助かったことがあります。
夫が死んだときにでた保険金と、彼が貯めていた貯金です。私には秘密にしていたようですが、一戸建てを買う。という夢が夫にはあったそうでそのための貯金だったと思います。しかし、それも今では叶いません。なので、その貯金は生活費に回させてもらうことにしました。
親戚から実家で暮らさないか?という話を持ちかけられましたが、私は断ってしまいました。其れは多分、甘える弱い私が出てくるからだと考えたからです。
それに、今は一人で一度落ち着きたかったからです。
親戚は、優しく「いつでも頼ってね」と言いました。私には其れが、「可哀相にね。助けてあげなくちゃね」と上からものを言われているように感じました。
今、私以外は敵に見えています。
私は今、皆と違う世界で生きている。そう感じています。
障害を持った娘が居て、夫が死んで……
不幸この上ないのです。
退院後、私はすぐに風邪で寝込んでしまいました。そのことは、親戚に伝えたので母が家に来て家事を手伝ってくれました。夢愛の面倒も見てくれました。
風邪で通常の考え方ができていなかったのか、そのまま夢愛を育ててくれないか…とまで思いました。いや、実際言ってしまったのです。
母は「何を言ってるの。貴方の子でしょ。こんなに可愛いじゃない。責任持って育てるのよ」ときっぱり言いました。
その言葉はぐさりと胸に刺さりました。
この時点でもう、責任という言葉に押しつぶされ、半分放棄しているようなものでした。母にそれを言われて、泣きそうな気持ちでした。
もう嫌だ。
私は、母に反抗して手伝いに来てくれた母に全て任せて自室で引きこもっていました。自室と言っても、私が住んでいたのはマンションでしたし、鍵は開いているので母は何度もそこを出入りしていました。
風邪も治り、母は家から出て行きました。
最後に私に呪いのような言葉を吐いてです。「貴方が育てなさい。貴方の子でしょ?障害が何なの?彼女を愛してあげなさい」と。
母は少し呆れて、少し怒っていたと思います。
私はそんな母に対して何も言えませんでした。言う勇気も、反抗する気さえも失せていました。
ただ、そこに何かが広がっているだけでした。途方もない何かが……
夢愛が誕生し三ヶ月、夢愛の首もすわり一人で動くことが多くなりました。家具の角全てにコーナークッションを付けました。六ヶ月になると、夢愛は目が見えないのにかかわらず、とても活発的に動き目を離すと台の上にまで乗ってますので危険この上なかったです。
毎日、毎日そんな夢愛に注意ばかりしていたので数日で喉が潰れました。
優しく接することができなかったもの原因の一つだったと思います。
夢愛は目が見えませんが、必死にこの家、空間のことを理解しようと自分なりに動いていたものと思われます。しかし、其れは私にとってとても喜ばしくない行為でした。
目を離す…何てことができず疲れ切ってしまっていました。が、休む暇などありませんでした。
夢愛はどんどん大きくなっていましたが、成長記録を付ける…何て言っていた夫が生きていた頃と違い、育児放棄すれすれの状態でした。
夢愛のご飯は作ります。
しかし、夢愛は自分一人で食べられないので、「まーまー」と言って私に食べさせるよう命令します。可愛らしくなくて、私は無理矢理口の中に押し込みそうになりました。その時夢愛は「うーうー」といやがるような仕草をします。
そこで我に返り、少し優しく接することが初めてできるのです。
私は、子供に気付かされないと気づけないダメな母親になっていました。
夢愛が寝た後、ストレスのあまり何度も吐きました。
何度も、子供なんていらないと、産まなきゃ良かったと鏡の前でぶつぶつ言っていました。其れを察した夢愛は泣き出し、私は鏡の前に立っている、あの頃と変わり果てた自分を見てゾッとします。
目には憎悪、口には殺意、体全体に悪意や負の感情をまとった女が立っています。それが、今の私だったのです。
私は、夢愛を抱きかかえて泣きました。
夢愛は私がなくと泣き止んで、私の頬をペちペちと叩きます。励ましてくれているのだと思います。
私はそんな夢愛に対して「ごめんね」としか言えませんでした。
夢愛は私のことを母親、と認識しているようで、私がなく日には決まって「まーまー」と少し悲しげな声で私を励ましました。
私は本当にダメな母親だったと思います。
それは、人から見ても、自分から見ても、夢愛から見てもです。
しかし、それでも私は夢愛と真剣に向き合おうとそう思えませんでした。まだ、私の中に障害。という言葉が引っかかっていたからだと思います。
***
夢愛も四歳になる頃には、支援幼稚園に通うことになりました。
夫の貯金もいよいよなくなってきたので、私は昼間働きに出ることにしました。アルバイトでしたし、収入はあまり良いとは言えません。しかし、何もしないよりは。と私は飲食店のパートに入ることにしました。
本音を言うと、夢愛から離れたかったのです。
夢愛は八時半にバスに乗り支援幼稚園に行きます。バスに乗るとき、目が見えないので何度かこけていました。先生に手を取ってもらいゆっくりですがバスに乗ります。そして、乗った後、こちらを向いているつもりなのでしょうか、「行ってきます」と笑顔を作ります。
私は引きつった顔で「いってらっしゃい」と返しました。
私にもママ友ができました。
同じ幼稚園に通っているというのですぐ仲良くなりました。
一人は、軽度の発達障害を持った男の子がいる奥さん、明子さん。
一人は、右腕のない女の子がいる奥さん、美桜でした。
しかし、二人とも夫は居るようで、その夫もしっかり子育てに力を入れてくれているようでした。二人とも、顔は輝いていました。
パートのない日は、近くの喫茶店で子供の話をしました。
どう、障害と向き合っていくか話し合ったこともあります。でも、私はどうも話についていけないようでした。それは、私自身がしっかり向き合っていなかったからだと思います。
明子さんは、子供に色々なものを見せて触らせているようでした。そして、子供と同じ目線で其れを体験するということを言っていました。子供と同じ視線でものを見る。それは、障害といえ、子育てをしていく上で大切なことだと彼女は言いました。
美桜さんは、やれることは子供に率先してやらせるようにしているといいました。何でもかんでも親がやるのではなく、子供にできること、してもらいたいことは手を出さないというのです。そうすることで、子供の成長にもつながり、障害なんて気にしなくなるというのです。
「雪子は?」
と、話を振られたとき、私はどう返していいのか分からず、嘘をつきました。
「子供の好きにさせているよ。そうするほうがね、夢愛は自分で学ぼうとするから」
そう、笑顔も付けていったと思います。
すると、明子さんの方が「ちょっといいかな?」と、私の育て方に何か言いたいようで、私の方を見てそう言いました。
「子供の好きにさせるのもいいと思うけど、親としてダメなことはダメとか、ここには何があるから知っておいてねとか…教えてあげることも大切だと思うけど」
口調は強かったと思います。また、その言葉には重みがありました。
実際、その通りでした。
私は、夢愛に対して何も教えていませんでした。
夢愛が勝手に学んで成長していくのでそれでもいいと思っていました。
それに、まだ私の中に障害というワードがとても異形のもので恐ろしい呪縛のようなものでしたので、向き合えずにいました。
「子供と向き合うこと。大切だと思うけど」
明子さんはそう言って、カフェラテに口を付けた。
その日から少し、私は夢愛に対して対応が変わったと思います。ほんの少しの変化でしたが。夢愛が「クレヨンとって」と言ったとき、私は手渡しで「これは赤色よ」と付け加えるようになりました。ただそれだけのことです。
其れを聞いた夢愛は「赤。これは赤なのね!」と嬉しそうに言って絵を描きます。実際目が見えていないので、何を書いているのか分かりませんでしたし、紙からはみ出すことも当たり前でした。そのことを、私は長い目で見ることにしました。
夢愛が産まれ、夫が死んだときは心に余裕がなかったのだと反省しています。
あの二人とカフェに行って、美桜さんに「最近、雪子さんちょっと変わった?」と言われ、私は少し嬉しくなりました。
「そうかな?」
「そうね、雪子生き生きしてるわ」
と、明子さんもいってくれました。
二人は私の変化に気づいてくれているようでした。
持つべきはママ友ですね。
***
幼稚園に入り、もう夢愛は年長になりました。その頃には、夢愛はできることは一人で何でもするという子供になっていました。
まあ、それでも誰かが手をかさなければならないことはあります。
しかし、家にあるクレヨンの色は何故だかもう覚えてしまっているようで、「お母さん、何色とって」と言わなくなりました。
夢愛は、目が見えないので、聴覚に優れていました。多分、見えないぶん、聞いて取り入れようと思ったのだと思います。そして、一度でも触れたものは忘れない、凄い記憶力も兼ね備えていました。
数年のうちに、こんな凄いものを習得していたのだと思うと、やはり子供の成長には驚かされます。
しかし、夢愛とスーパーに買い物に行った時です。
あれは、帰り道だったと思います。信号待ちに知り合いにあったもので夢愛から目を離し話に夢中になっていると、いきなり夢愛が消えました。
「夢愛?」
夢愛は赤信号の横断歩道を渡ろうとしていました。多分、早く帰りたかったからだと思います。夢愛は小さくて、運転手には見えていないようでした。
私は、夢愛を抱き寄せました。間一髪のところで車が通りました。
もし、私が気づかなければ夢愛は…
私は夢愛の体を揺さぶり、怒ったと思います。
その時の記憶は曖昧でしたが、何て恐ろしいことをするのだと、正気か。など思ったんだと思います。
夢愛は、何度も謝りましたが、こちらを向いていません。自分のやったことが悪くない何て言っているように見えてしまい私はさらに夢愛を怒ったと思います。
「何で分からないの!危ないでしょ!」
「ごめん…なさい」
夢愛はとうとう泣き出しました。
周りに居た人の目も私達に集まり、私は恥ずかしくなって夢愛を連れて家に帰りました。それから、家に帰って怒っていたと思います。記憶にないのでなんとも言えませんが。
でも、我に返って考えれば目の見えない夢愛は何で怒られているか分からなかったと思います。それに、真っ暗な視界の中に聞える大人の怒鳴り声に怯えていたと思います。
見えないのに得体の知れない何かが自分に迫ってくるのですから、そりゃあ怖かったと思います。
怖い。
それは夢愛にしか分からなかったと思いますが、もし私だったら耐えられないと思います。なのに、私は夢愛を叱りました。恥ずべき行為です。見直すべき行為です。
夢愛はそんな恐怖に耐え、私に必死に謝っているのだと思うと、なんだか情けなく、自分が惨めに見えてきました。
虐待。
そう言われても可笑しくなかったかも知れません。寧ろ、言われて直すべきだったかも知れません。
私はまだ、夢愛のことを心から好き…じゃなかったのだと思います。
親として叱るのではなく、他人として危ない行為をした子供を叱る感覚だったと思います。もっと酷いものだったかも知れません。
***
夢愛は、目が見えません。
夢愛は、今年の春から支援学校に通うことになりました。しかし、運が悪いことに、支援学校のほぼ隣に普通の学校がありました。
夢愛は、幼稚園にいたときから普通の小学校の話をたびたび聞いていたので、大きくなればそこに入れるものと思っていたのでしょう。
しかし、ここまで重度な障害を持った子が、普通の学校には行って普通の生活が送れるわけもなく、夢愛が支援学校に入るという未来は決定されていたものでした。
入学前、一週間前だったと思います。
夢愛はランドセルが欲しいと駄々をこねました。
正直、今の時代のランドセルは安いと言えるような値段ではなく生活費はなるべく節約したいので、夢愛には買えない。と言っていました。
夢愛は、「でも、皆買うんだって。なんで、お母さん買ってくれないの?」ともっと駄々をこねました。
夢愛にとって、ランドセルというのは特別なものだったのかも知れません。夢愛は、ほとんどものを欲しがりませんでしたし、興味を示すものがあったとは覚えがないのでランドセルがよほど欲しいのだと思いました。
私は買えない代わりに、自分が子供の時使っていたランドセルを夢愛に与えました。夢愛は、本当は青色が欲しかったらしいですが、私のは赤色でした。にもかかわらず、夢愛は私にお礼を言って、もらった日にはランドセルをしょって家中を走り回っていました。
私は、赤色よ。と、言ったのに、それでも嬉しそうな顔で受け取ったので、夢愛は我慢しているのかと思いました。
私は夢愛に沢山の無理や我慢をさせていました。
私も成長しなければならないと思いましたので、今度夢愛がやりたい、してみたいと思ったことはやらせてあげたいと思いました。
支援学校に行っても、夢愛はいつも通り明るく振る舞っていたそうです。
ママ友の、明子さんと美桜さんも一緒でしたので、授業参加は一緒に見に行きました。
支援学校にはいろんな障害を持つ子供が居て、またその子供を見守る親が居ました。どの親さんも、子供のことを第一に大切にしているといった感じで、私とは全く異なった雰囲気をしていました。
夢愛はこちらの声に反応して私に手を振りました。
私は、ぎこちなく振りかえしました。
どうしても、まだ夢愛と真剣に向き合えていませんでした。
夢愛が五年生になったある日でした。
学校から帰った夢愛は嬉しそうに、私に「したいこと」を話しました。そのしたいことというのは、物語を作ることでした。
学校でパソコンを習ったそうで、そこで作った物語を先生や皆に褒めてもらったので、もっと書いてみたいというのです。
私はすぐに「いいよ」と言うことができませんでした。というのは、前にも一度、夢愛がしたい。といった、ピアノをさせたことがありました。
ピアノと言っても電子で、実家にあったものを持ってきただけでした。
夢愛がピアノにはまったきっかけは三年生になった時、学校で先生が楽器の体験をさせてくれたとき、ピアノが楽しかったからだそうです。その後、盲目のピアニストもいるんだよ。と教えられたので、もしかしたら自分にもできるかも…と思ったに違いありません。
その時は夢愛がやりたいことだったので、やらせてやりました。
しかし、そう上手くできず数日で放棄しました。
そう言った事例があったので、本当に続けられるのか…と思ったのです。別にやらせてやっても良かったのですが、結局パソコンを使って物語を書くので自分のデータが飛ばないかとか、誤字脱字はないかとか、立ち上げシャットダウンは私がやらなければならないとか、そう言った問題があり、多分私自身面倒くさいと思ったのでしょう。
すぐに、「いいよ」が言えなかった理由です。
でも、夢愛は必死に「お願い!やりたいの」と言うので一週間だけ付合うことにしました。夢愛はとても早くキーを打つことができていました。この時点で、私より早かったと思います。
夢愛の作る物語は、どれもこれも豊かな表現で心が温かくなるようなものばかりでした。感情描写は勿論できたのですが、驚いたのは情景描写ができたことでした。
夢愛は目が見えないのに、その描写からその風景が目に浮かぶのです。
見たことないはずなのに、しっかり読み手に伝わるものをかけていたのです。
これは、夢愛の才能だと思いました。
見たことはなくても触れたことはある。そして、聞いたり、話をしてもらったりしてその情報を得ていたというのです。
夢愛は物語を書くことに熱中しました。
でも、誤字脱字や、立ち上げシャットダウンは私の仕事なので、彼女が帰ってきたらすぐに其れの作業をしなければなりませんでした。でも、慣れました。
そして、彼女の物語を読むのがつい楽しくて、「見ないで」なんて言われたものまで見てしまうぐらいでした。この年の、見ないで。は、見て欲しいという意味も含まれているような気がしました。
私は夢愛に、ネットにあげてみたらどうだ。という話を持ちかけました。其れは、夢愛が中学二年生の時でした。
この頃には夢愛もすっかり自分で立ち上げシャットダウンはしていましたし、何より物語の構成、キャラの引き立てなどが上手くなっていました。
私は、本屋に並んでいても可笑しくないと思いました。
夢愛の物語をネットにあげたその日に、すぐに評価されました。
コメントにもキャラに感情移入できるや、展開が気になる。といったものが寄せられていました。
中でも、情景描写が綺麗。というコメントがとても多く寄せられていました。
見えない夢愛に、私はコメントのことを話すと夢愛は恥ずかしそうに頬を赤らしめて喜んでいました。
高校一年生になった夢愛は、ネット上で人気の作家になっていました。
私は夢愛が生き生きしているのを見て少し嬉しくなりました。
やっと、彼女と向き合えた気がしました。
喧嘩はしますが、仲がいいと皆から言われます。
明子さんのお子さんも、水泳選手になりたいと言い毎日スイミングスクールに通って居るみたいです。美桜さんの娘さんは、テニスをしています。美桜さん曰く、上手くはないが頑張っている姿を見て励まされているそうです。
そんなある日でした。
夢愛が物語をあげているサイトから一通の手紙が来ました。
夢愛の物語を評価して、是非書籍化しないかという提案のもので、会ってみたいというのです。
私は夢愛にその話をすると彼女は「会いに行きたい!」といいました。
しかし、私は乗り気ではありませんでした。
勿論、夢愛の物語が世に出ることを望まないわけなではないのですが、障害を持った子。という差別のような目で見られないか心配だったからです。
その書籍化しないかと持ちかけてきた出版側が、その作家が実は目が見えず、一人ではかけないことを知ったらどうでしょう。
仕事が増えるし、そんな人が書いていたのか。と思われたら、其れで夢愛が傷ついたらどうしてくれよう。と思ったからです。
夢愛にそれでもいいのかと、聞くと夢愛は胸をはって言いました。
その言葉は、生涯ずっと覚えている言葉になりました。
「障害が何なの?私は私よ。イイじゃない、障害持っている子なんだって思われても。私はいいわよ。だって、私の作った物語を評価してくれたいい人なんだから」
と。
その言葉で、自分自身が夢愛の障害について差別的な目で見ているのだときづかされました。
夢愛がこう見られる…ではなく、そんな夢愛の障害者の母親としてみられるのが嫌だったから私は彼女の夢を妨害していました。
私は、夢愛の夢を応援できていなかったのです。
夢愛に言われて気付かされました。まだ、この年になっても気づくことがあるなんて、どれだけ彼女のことを知らないんだと、自分を責めました。
でも、夢愛はそんな私を責めることなくいつも「産んでくれてありがとう」と言ってくれるのです。
「お母さんが産んでくれなきゃ、私は夢を追うことができなかったのよ。名前も気に入っているわ。私にぴったりだもん…えへへ」
と、いつも照れくさそうに言うのです。
名前。
夢愛―――それは夫と付けた名前でした。
夢に向かって進んで欲しい。また、其れを助けるために私達親は愛を注ぐという意味が込められている…それが夢愛の名前の由来でした。
子供の夢は一人では叶えられない。親が愛を持って育て、助けるからこそ子供は夢に向かって進めるのだと思いました。
私が夢愛の夢を応援しなければならない。
それは義務ではなく、私がすべきことだったのです。
***
私と夢愛は出版社、提案した人たちと顔を合わせました。初めは、勿論ですが目が見えない人がこんなものを作れるのかと驚かれました。しかし、その人達はとてもいい人で、とても凄いものを作るんだね。と夢愛の物語を高く高く評価してくれました。
夢愛はとても嬉しそうでした。
それから色々と打ち合わせをして、書籍化までの段取りの説明を聞きました。
夢愛は其れを聞いているときも、真剣な顔で返ってからもパソコンと向き合っては物語を作っていました。私は、説明を聞いていても何のことだかよく分かりませんでしたが。
ただ、夢愛は真剣に打ち込めるほどのやりたいことに出会えたのだと思います。才能もあったと思いますが、夢愛がやりたいと言い出さなければ始まらなかったと思います。
夢愛は生まれてこの方、自分は障害者で他の人とは違う。と思ったことがないと話してくれました。私も一人の人間で、同じように考えたり話したりできる。ただ、目は見えないけれど見えないだけ。それに、だからこそいろんなものを真剣に聞いたり触れたりできるのだと言いました。
夢愛は私が思っている以上に強かったのです。
私の本当の思いは知らなかったと思います。
初めは、産まなきゃ良かったと思ってしまう自分もいたし、夢を応援できない自分もいたのです。そのことを、夢愛は知りません。もしかしたら察していたかも知れませんが、言わずにいました。
子供の頃、きつくあたったこと…未だに謝れていません。きっと、謝っても許してもらえないと思います。それに、謝るより、今、夢愛の夢を応援するのが優先だと思います。
***
夢愛は二十一歳になりました。
私はこの頃肩や腰に痛みを感じ、年をとったなと感じます。
夢愛の物語が世に出て何年かして、その物語はアニメ化されました。舞台化もしましたし、コミカライズにもなりました。
夢愛は今や有名人です。
物語が映画化するというので、それの会見に行きました。
もう、この時はほとんど障害…という言葉は私の頭の中から消えていました。夢愛の担当の人は勿論ですが、夢愛を一人の人としてみて直すところや、課題点をしっかりと言ってくれます。
夢愛は、名前を呼ばれて会場に出ていきました。
行く前に、私にこういいました。
「お母さん、ありがとう。ここまで支えてくれて」
そんな、支えるだなんて…と私は息をのみました。
支えられていたのはこっちの方だ。と、夢愛に本音を言いました。夢愛は驚いた顔でこちらを見た後、
「何言ってるの?だって、お母さんが物語書いていっていったからやろうと思ったんだよ」と、夢愛は言って会場に行きました。
夢愛にはそう見えたのかも知れないと思いました。
私が夢を支えた素晴らしい親…というように。
しかし実際は、育児放棄仕掛け子供のことをしっかり見えなかったダメ親でした。にもかかわらず、夢愛は誠実に育ってくれて本当に優しく、前向きな子供になりました。
子供が宝物。とはこのことなのでしょうね。
夢愛は会場に出て、話をした。
途中、横から「え?目が見えてないの?」「障害者?」といった、差別するような言葉が聞えました。その言葉は何度も夢愛が子供の頃から聞かされていた言葉でした。
夢愛が小さいとき、其れは私にとって呪いのようなものでした。
私という人間が可哀相な人間。とでも言われているような気持ちになるものでした。
でも、今ではそんなこと気にしなくなりました。
夢愛は会見で言いました。
「私は目が見えません。一人では、物語を書けません…」
会場はざわめいていたと思う。
「しかし、支えてくれる担当のかたや読んでくださる皆さんからのお手紙、そして何より、支えてくれたお母さん。皆がいたからこそ、私は物語を書けました。私は支えられて生きている、こんなにも優しい人に……だから、私はこの感謝の気持ちを忘れず、これからも誰かのために物語を書いていきたいです」
と、夢愛は言い終えてお辞儀をしてこちらに戻ってきた。
物語がかけることは、普通じゃない。そして、支えられながら生きている。と夢愛は言った。私は返ってきた夢愛を抱きしめました。
「痛いよ…お母さん」
最後の夢愛の言葉は、障害で苦しむ子にも元気や希望を与えれたと思う。もう、立派な物書きだ。
私は夢愛が誇らしくて彼女を力一杯抱きしめました。
もしあの時、娘としっかり向き合っていなかったら。
もしあの時、娘の夢を応援しなかったら。
夢愛が夢愛らしく生きるために、親として子供に愛情を持って向き合っていかなければなりません。そこに愛がないのなら、きっと子供は悲しい思いをずっとし続けると思います。
私の子供は障害を持って生まれました。
私の子供は、私を親の顔を見ることができません。そして、自分の父親は既に生まれたときには居ませんでした。
見えないのは不便か。
そうではないと思います。見えなからこそ感じられる世界、そしてより多くのものと触れ合おうとする気持ちがわくと思います。
そんな子供と、親はどう向き合っていくかです。
私は、障害を持った子を産みました。目が見えません……ただそれだけで、彼女を遠ざけていた時期がありました。今では、本当に恥ずかしくてたまりません。
私は、これから夢愛としっかり向き合い、彼女を全力でサポートしていきます。親として。
私の宝物の夢愛、産まれてきてくれてありがとう。