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魔女になったよ(『召喚されて悪魔の娘になりました』からタイトル変更)

作者: 詠垣 菘

 私はオディール。悪魔と呼ばれているロットバルトの娘です。十七歳になりました。娘とは言っても血の繋がりはありません。ある日いきなり召喚されて娘になったと言われたのです。誘拐されたようなものですね。十年前のことでした。


 召喚される前の名前は黒岩千佳です。仲良しのミッちゃんとバレエ教室のレッスンに行き玄関マットの上にレース模様のような図形が輝いているのを見つけました。それが始まりでした。




「ねえ、ミッちゃん。玄関マット新しくなったのかな?きれいな模様だね!」


「模様?チカちゃん?いつもと同じマットだよ?」


「ええ?この模様だよ。ほら。きれいでしょ!」




 私はレース模様の中心にポンと飛び乗りました。途端に視界が暗転し、気が付くと知らない部屋に居たのです。




 部屋は小学校の教室程度の広さで正面に教卓のような机が一つありました。その上に蠟燭(ろうそく)が一本灯されています。床の上にはバレエ教室の玄関マットの上で輝いていたのと同じようなレース模様がいくつもありました。模様一つごとに女の子が一人(うずくま)っています。




「我が名はロットバルト。ようこそ娘たちよ。君たちは選ばれた」




 教卓の方向から声がしました。蝋燭(ろうそく)の明かりに照らされて痩せて背の高い男の姿が浮かび上がります。黒い髪に黒い目。黒いマントのような服。明かりが揺れる中、皮膚の色は青白く見えました。


 恐ろしいと思いました。誰かが悲鳴を上げました。


「我が召喚陣を見つけた。それは才能の証。我が子となるにふさわしい。さっそく名前を与えよう」 




 床のレース模様がいつの間にか消えていました。ロットバルトと名乗った男は娘達の頭に触れ名を告げていきました。どの子も動くことが出来ないようです。されるがままです。


 私の頭に男の手が乗りました。怖くて逃げたいのに動けません。頭の中にオディールという名前が浮かび上がりました。とたんに今までの名前が口に出せなくなったのだと理解させられました。頭では黒岩千佳の名前を憶えています。ただ口にすることが出来ないのです。同時に今まで住んでいた国の名前や町の名前も口に出来なくなっていたのです。そして何故か部屋にいた全員の新しい名前が理解できてしまいました。




「なんてこと!私は『ザー!』国の『ザー!』王女よ!さっさと元の場所に戻しなさい!そうしなければ父の軍勢があなたを滅ぼすわ!」


 オデットという名を告げられた少女が叫びました。先ほど悲鳴を上げていた子です。私よりも少し年上のように見えます。豪華なドレスを着てティアラを着けていました。金髪に青い目のお人形のような子です。かなり頑張って国の名前や自分の名前を叫んだらしく顔が真っ赤になっていました。でも国や名前の部分には雑音が入ったようになって聞き取れませんでした。じっとロットバルトを(にら)みつけています。勇気があると思います。私に同じことは出来そうにありません。




「王女であろうが巫女であろうが此処(ここ)では等しく我が娘だ。此処に居れば衣食住で困ることはない。望むなら魔法を教えてやる。一人前の魔女になるまで育ててやろう。帰りたいのなら自分で方法を探すが良い」




 オデットはロットバルトを睨みつけたままです。隣同志でひそひそと話が始まります。ざわめきが広がっていきました。




「息子よりも娘の方が華やかで良いと思い女ばかりを召喚したのだ。しかししくじった。思った以上の騒音だ。これでは研究の邪魔になる。娘たち、昼の間は鳥の姿で外にいなさい」




 私たちは一斉に灰色の鳥の姿になりました。強い風が吹き屋敷の外まで運ばれてしまいます。


 ロットバルトの屋敷は森の中の湖の(ほとり)にありました。屋敷から追い出されることになって面喰いました。しかも鳥の姿ではうまく歩くことができません。翼をばたつかせガーガーと声をあげながら湖に飛び込んでいきました。


 鳥の体は水に浮かびました。羽毛のおかげなのか冷たさも感じません。足を動かすと水面を移動できました。水鳥になったのだと思います。隣にいた鳥に話しかけようとしましたが口から出るのはガーガーという鳴き声だけでした。


 立て続けに起こる不思議な出来事に頭が混乱しています。何かをしなければ!どうにかしなければ!と焦るような気持ちでいるものの、何をどうして良いのか少しもわかりません。ただこの状態で独りぼっちになるのは怖いので灰色の鳥の集団から離れないように必死で足を動かしていました。


 どのくらいの時間水面に浮いていたのか分かりませんが日が暮れてきました。空が茜色に染まっています。一羽の鳥が突然ビクッと体を震わせ慌てたように岸に向かって進み始めます。直後、群れは一斉に岸を目指しました。端から見たらガーガー鳴きながら羽をばたつかせて泳ぐただの灰色の水鳥の群れですから平和な光景に見えることでしょう。


 でも本人たちは必死です。鳥の姿から人の姿に戻る気配がなんとなく分かったからです。湖の上で人の姿に戻るわけにはいきません。深さの分からない湖を泳ぎ切れるほど水泳が得意ではないのです。足を動かし羽をばたつかせ何とか岸にたどり着いたところで人の姿に戻りました。服は元のままでした。練習用のシューズやタオルの入ったカバンも抱えたままでした。服も荷物も濡れていないのが不思議でした。


 湖畔の屋敷にはいつの間にか暖かそうな明かりが灯っています。ロットバルトが怖いので恐る恐る屋敷に近づき扉から中を覗き込みます。申し合わせたわけではないのですが私と他に三人で一緒に行動しています。ひそひそと声を掛け合いながら。


「誰もいないみたいよ」

「入っても大丈夫かな?」

「お腹空いた」

「喉も乾いた。お家の中に何かある?」


 扉の先は召喚された部屋のはずです。さっきまではがらんとした教室のような部屋でした。いつの間にか丸テーブルが五台ほど運び込まれています。清潔なテーブルクロスが掛けられ椅子も娘たちの人数分用意されています。


「さっきと変わった」

「座っていいのかな」

「さっきのおじさんいないね」

「ロットバルトって言ってたよ。それって悪魔の名前だよ。怖いね」


 おしゃべりをしていると怖さが少し減るような気がして、絶えず何か話しながら部屋に入ります。思い切って椅子に座ってみました。一つのテーブルにつき四脚の椅子がありました。私たち四人は同じテーブルにつきました。


 すると目の前に食事が浮かび上がりました。スープにサラダに肉料理が一品。手のひらサイズの丸パンが一つ。コップに入っているのは牛乳でしょうか?一人分が一枚の盆に乗っています。手前にフォークとスプーンありました。四人は驚きながらお互いの顔を見つめ合い、次にお互いの盆を確認しました。全員同じメニューのようです。


「いただきます」

私は手を合わせてそういうとコップを取って一口飲んでみました。良く冷えて甘いミルクでした。

「美味しい!」

右隣の子がそういうので見ると肉にかぶりついていました。正面の子はスープ皿を抱え込みスプーンを忙しく動かしています。左隣の子はパンを割ってサラダと肉をせっせと挟んでいるところでした。なんだか給食の時間みたいだと思いました。


 私たちが食べ始めると扉近くで様子見をしていた女の子たちも部屋に跳び込みテーブルに着きました。食事が現れる度に歓声があがります。


「なんなのです!これは!」

声の先をみるとドレスにティアラ姿の女の子…確かオデットという名前…がまだ扉の前にいました。


「使用人を呼んで!テーブルに案内なさい!」

そう叫んでいますが誰も出てきません。


「わたくしは庶民ではありませんのよ!こんな屈辱耐えられない!」

と文句を言っていました。やがて空腹に耐えられなくなったのでしょう。空いていた椅子のところにまで歩いて行き自分で椅子を引いて座りました。


 食事の盆が現れても

「…この貧相な食器は何…カトラリーが足りないわ…なんて下品な…」

などと呟いていました。結局きれいに平らげたようです。


 食べ終わると汚れた食器はテーブルに沈み込むようにして消えました。食事の量が足りないような気がしましたがお代わりは出てこないようです。代わりにお茶の入ったカップが現れました。お茶はさっぱりした味の温かいものでした。


 食事が終わるとバタンと音がして入り口の扉が閉まりました。そして奥にあった別の扉が開きました。私と同じテーブルの女の子たちは好奇心旺盛なようで一斉に立ち上がり開いた扉を(くぐ)っていきます。


「普通の廊下ね」

「扉がいくつもある」

「アパートみたいだね」

宿屋(ホテル)の廊下みたい」

長い廊下の両側に同じ形の扉が並んでいました。扉には不思議な形の模様が彫り込まれています。


「あ!こっちに書いてあるのアタシの名前!。変だ。アタシ字が読めないのに解る!」

「こっちは私の名前だ。オディールって書いてある。ただの模様なのにどうして名前だってわかるの?」


 自分の名前の書かれた扉を開けるとそこは寝室でした。小さめのベッドの上に清潔な寝具が整えられ寝間着が畳んで置かれています。部屋の中に明かりはありませんがガラス窓から月明かりが差し込んでいました。カーテンは無く外の湖が見えました。作り付けの棚には洗面道具と水差しが置かれ、その隣はクローゼットになっていて衣装が何枚も掛けられていました。靴も何足か用意されています。新しい衣装にちょっと嬉しくなり一着を手に取って体に当ててみました。鏡がないので窓ガラスに映してみましたが暗いので良く見えませんでした。


 娘たちがそれぞれの部屋に収まったからでしょう。辺りはシンと静まり返っています。やることもないのでとりあえず寝間着に着替えます。


 ベッドに腰を下ろしたとたん、とてつもない寂しさに襲われました。


 母さんに会いたい!父さんの声を聴きたい!

 持ってきたカバンの中からスマホを取り出し電話しました。何度も。何度も。繋がりませんでした。兄にLINEしました。送信できませんでした。GPSがONになりません。エラーマークが点灯するばかりです。どのくらいの時間スマホを(いじ)っていたのでしょうか?電池が切れて動かなくなってしまいました。


 さっきからずっと涙が頬を伝っています。とうとう布団に潜り込み声を上げて泣きました。『だれか迎えに来て』と繰り返し言いました。泣きながら眠ってしまいました。



 翌朝ベッドの上で目を覚ましました。窓から朝日が差し込み体に日の光を浴びた途端、姿は水鳥へと変わります。窓が開くと鳥の姿になった私は風に運ばれ屋敷から出されました。外では水鳥たちが灰色の翼をばたつかせガーガーと泣き喚いていました。


 日中は餌を取ったり羽ばたく練習をしたりして過ごしました。目の前に魚が泳いでくると反射するように首が動いて魚を捕らえそのまま飲み込んでしまいます。鳥の姿でいる時にはそれが当たり前です。気持ちが悪いなどと考えることはありません。日が沈むと人の姿に戻るので屋敷に入って過ごしました。食事も寝具や衣装も不足なく湧き出し、屋敷の中は清潔でした。


 衣食住で困ることはないというロットバルトの言葉は嘘ではありませんでした。




 何日かが過ぎ生活に慣れてきました。日が暮れると娘たちは好みの衣装を着て食事を楽しみます。眠りにつくまでの時間は湖の畔で踊ったりさざめき合ったりして遊びました。疲れた者から自分の部屋に戻ります。


 王女であったオデットは娘たちを束ねるようになりました。衣装の選び方や食事のマナーなどを皆に教えます。衣装も食器類も必要だと強く思うことで欲しいものが現れるようでした。オデットは王女らしく振舞います。ほかの娘たちは王女に(かしず)く令嬢のように振舞いはじめました。



 半年ほど暮らすうちに灰色の水鳥は白鳥へと育ちました。灰色の水鳥は白鳥のヒナだったようです。羽ばたく練習をした甲斐もあって皆飛べるようになりました。


 ただ私だけが真っ黒でした。私は皆と仲良くしていたかったのです。灰色のヒナの時にはそれなりに馴染んでいたと思うのです。でも一人だけ真っ黒に育ったというのは不気味な感じがしたのでしょう。いつの間にか群れから追い出され孤立していました。


 ヒトの姿になった時にも黒髪黒目であったのがロットバルトを連想させて嫌だったのかもしれません。夕食の時も、眠るまでの遊ぶ時間も一人で過ごすことが当たり前になっていきました。





 召喚される前、私には中学生の兄がいました。本を読むのが好きな兄は異世界に憧れていました。


『もしも異世界に行ったなら必ず魔法使いになる。異世界は剣と魔法が定番だけど習うなら絶対魔法だよ!』


 兄は始終そんな話をしていました。どうやら兄は自分の行きたい異世界の物語をノートに執筆していたようです。私はそんな兄の創作した話を聞くのが好きでした。

 召喚されたのが兄だったら、どんな立ち回りを見せたでしょうか?今の私を見たらどんな風に言うでしょうか?


 家族から離されて悲しい友達が居なくて寂しい仲間外れにされて辛い。私はこのままで良いのでしょうか?


 嫌です!このままでは嫌です!



 そんなある夜、不意にロットバルトが現れました。私は彼に言いました。


「魔法を教えてください」




 ロットバルトは快く指導してくれました。授業の場所は食堂で丸テーブルに向き合って座ります。


「魔法を使うために必要なのは『魔力を感じる力』『計算力』『現象を起こすきっかけ』が大切になる。他にも細かい決まり事が幾つもあるがそれは順に教える。まず『魔力を感じる力』これは既に適性があると分かっている。魔法陣を己で発見しそれに乗って此処に来たのだから」




 魔法陣とはレース編みのように輝いていたあの模様のことでした。




「計算力を上げるには地道に学習する以外に方法はない。お前、計算はどの程度できるのだ?」


ロットバルトは計算問題を出しました。私は二年生まで小学校に通っていたのですから足し算・引き算・掛け算までは出来ました。それ以上の難しい問題は解けません。




「なるほど。ある程度の計算は分かるようだ。しかし不十分だな。基礎の基礎から教えよう」


「現象を起こす『きっかけ』っていうのは何ですか?呪文みたいなものですか?」


「人により現象により異なる。だが呪文を『きっかけ』にしている者は多い」

「他人が掛けた魔法を解くことはできますか?例えば私たちにかかっている鳥に変身する魔法とか」

「解呪は簡単だ。魔法式を壊す『きっかけ』を与えれば良い」


「難しいような気がしますけど?」


「魔法理論を学んでみればいずれ理解できるだろう。魔法についての知識はどの程度持っている?」


「知識って?…。アニメとかで見たのは知識になりますか?」


「アニメというのが分からんが何を見た?」


「えっと…杖を振ったり箒に乗ったりしているのを見ました。シンデレラではかぼちゃを馬車に変えていました。あっそうだ!白雪姫を生き返らせるのに王子様がキスをしました。カエルになった王子様はお姫様の愛の誓いで元の姿に戻りました」


「なるほど。愛の誓いやキスは解呪の『きっかけ』になり得る」




 その時、開いていた扉の辺りから何やら物音が聞こえました。




「娘の誰かが盗み聞きをしていたようだ。学びたければ魔法は教えると最初に言ってあるのだから部屋に入って聞けば良いのだ。お前以外は誰も来ないが何故だ?教えを()わない者に教えるつもりなど無いがな」




 それからというもの私は夢中になって魔法の勉強をしました。




 まず魔法文字を習いました。各部屋の扉に刻まれている模様のように見える文字のことです。文字を習う前でも自分の名前だけは読めたのが不思議です。文字を習ってから図書室の使用許可をもらいました。ロットバルトの蔵書が仕舞ってある図書室です。理解できる文字や言葉が増えるにつれて魔法理論や魔法式などの難しい本も読むことが出来るようになりました。理解の難しいところはロットバルトに尋ねます。大抵のことは教えてもらえました。




 鳥へと変身する魔法は三年ほど勉強した頃に解呪できました。私は呪文と相性が良いらしく呪文を使っていつでも黒鳥に変身できるようになりました。呪文を道具に刻み付け変身の道具を作ることも覚えました。七歳の頃の体に変身できる指輪だって完成させました。いつか必ず元の世界に帰りたい。召喚されたあの時間から元の世界で暮らしたい。そう思っているからです。


 本名も口にできるようになっていますが誰かに教えるつもりはありません。此処(ここ)での名はオディールなのですから。




 白鳥の娘たちは私が憎くなったようです。自分たちは昼間は白鳥として過ごし夜間だけしか人に戻れません。未だにロッドバルトの魔法が解呪できていないのです。それなのに私だけ鳥になったり人になったりと思うままにしていると知ったからです。


 オデットを筆頭に白鳥の娘たちは私を無視するようになりました。黒鳥になって湖に舞い降りても白鳥の群れは離れていきます。日が沈んで人の姿でいる時にも近寄ってきません。

 

 用事があったから声をかけたのに返事が返って来ない日々が続きました。さすがに辛いです。気持ちが沈み、落ち込んでしまった私は屋敷の裏庭に行きました。湖とは反対側にある木々に囲まれた薄暗い庭です。白鳥の娘たちはそこへ来ません。


 屋敷の壁と向かい合って(たたず)んでいたところ不意にバレエ教室に通っていた頃を思い出しました。壁がレッスン室の鏡のように思えてきます。使える魔法を駆使して壁を鏡に変えてみました。屋敷には不思議なことに鏡がありません。久しぶりに見た自分の姿に驚きました。ずいぶん背が伸びていました。バレエ教室のお姉さんのように手足が長くなっていたのは嬉しいです。思わず鏡の前でいくつかポーズを取ってしまいました。思っていたよりも体が柔らかく動きました。踊ってみました。体はしっかりと習ったことを覚えています。それが嬉しくて日課にバレエレッスンを組み込みました。ひっそりと行う一人きりのレッスンです。だれも邪魔しに来ませんから充実した時間を過ごせるようになりました。


 ロットバルトに教わった魔法の訓練の中に体内の魔力を意識したり巡らせたりするものがあります。それをバレエレッスンに組み込んでみました。すると高く跳ぶことができました。回転すると体から光のようなものが(きら)めいて(あふ)れ出ます。何の現象なのか図書室で調べました。魔力が可視化されたのだと推測しました。そういった事柄を文章にまとめてロットバルトに見てもらいました。意見を交わし合いました。そんな日々が日常になり使える魔法が更に増えていきました。


 白鳥の娘たちとはおしゃべりできません。ですがどうしようもないほど人間と会話したくなる時があります。そんな時には人里まで行くようにしています。


 人里への行き来は割と自由です。ロットバルトは人里に行くことを禁止していなかったからです。翼に魔力を通わせると速度があがります。私は白鳥の娘たちに邪魔をされないよう、彼女たちの来ることのできない遠くの町まで飛びました。変身を解いてから町に入り普通の娘として過ごします。


 私は図書室で得た知識を使って薬を作り町の薬屋に卸すようになりました。思ったよりも稼げるので驚いてしまいました。衣食は屋敷に用意されているので困りませんがお金があれば人里で楽しめることが多くなります。お店を覗いて買い物をしたり屋台で買い食いしたりと楽しい時間が増えていきました。




 白鳥の娘たちも近隣を訪れているらしいです。オデットと彼女を取り巻いている白鳥の娘たちは王城がある街へ行くのが好きで素敵な王子様を見つけたと騒いでいました。夕食時には同じ部屋で食べるのですから聞こえてしまうのです。私の食事する丸テーブルに一緒に座る娘は誰もいませんが。


 オデットが食事の時間になっても帰って来なくなりました。そんなある晩、娘達の会話が聞こえてきました。


「オデットさまはジークフリート王子と恋に落ちたのよ。夜の湖で会っているの」

「まあ素敵!明日は私もついて行こうかな」

「でも湖では夕食が食べられなくてよ。人の姿で生魚なんか食べられないわ」

「それが問題なのよね。でもジークフリート王子は素敵よ!お会いする価値があると思うの」

「それで、それで!王子様のキスはいただけるの?」

「きゃー!はしたないわよ!求婚の誓いを頂けるのはたった一人よ!キスだなんて恥ずかしすぎる!しかもオデットさまを差し置いてそんな、そんな!」

「ねえねえ、王子様のキスで本当に魔法が解けると思う?」

「ロットバルトがそう言ってたって。誰かが聞いて来たらしいわよ」


 私とロットバルトの授業を立ち聞きしていた誰かがそんな噂を流したのですね。まあ、確かに。私たちは才能があって召喚されたのです。そういう風に思い込んでいる状態でキスされれば解呪の『きっかけ』になり得ます。変身の魔法は解けるでしょう。


「今度王城で夜会があるそうよ。夜会でジークフリート王子の結婚相手が決まるのですって」

「行ってみましょうよ。国中の令嬢が招かれるそうよ。たぶん私たちだって入れるわ。着ていくドレスには困らないし」

「そうよね。王子でなくても素敵な出会いがあるかもしれないわ」




 私は少し離れた席についてそんなおしゃべりを聞きながら食事をとっていました。そこへロットバルトがやって来ます。


 彼はめったに食事に現れません。ここで暮らして十年になりますが彼の私生活は謎です。昼は研究と称して部屋に閉じこもっていることが多いです。不定期にどこかへ出かけていきます。教えてもらいたい時には何故か近くに姿を現します。だから魔法の勉強で困ることは無いのですけれど。




「王城の夜会か。なるほど。オディールも行って来ると良い。良い『きっかけ』を掴めるだろう」


「えっと、私はちょっと…。マナーとか社交ダンスとかできませんし」




 白鳥の娘たちはオデットからマナーやダンスを教わっているのです。白鳥の姿のまま王城を覗きに行っているので貴族の生活に馴染んでいるようです。夜会に侵入して食事をしてきたと豪語する娘もいました。私はオデット達と交流していないので貴族風のマナーや社交界のダンスを知りません。バレエ教室に二年ほど通っていましたし裏庭でレッスンを続けていますがあれは社交界のダンスとは別ものです。召喚される前も今も私が馴染んだ生活は庶民の暮らしの中にあります。雅やかな王城には行きたくありません。




「立ち居振舞いなど幻惑の魔法でどうにでもなるだろう」

ロットバルトは問題ないとばかりにそう言いました。



なるほど。魔法を使えば何とでもなりますね。どうしても夜会へ行かせたいようです。


 もしかすると夜会へ行くことで元の世界へ戻る魔法が完成するかもしれません。『きっかけ』を掴めるかもしれません。これまで何年もかけて元の場所に戻るための魔法陣を組んできました。ところが魔力を込めても魔法陣は輝いてくれません。いくら考えてもやり直しても発動の『きっかけ』が掴めなくて悩んでいたのです。そのアドバイスをくれるというわけでしょうか?


 それとも単に魔法の勉強をしようとしない白鳥の娘たちへの嫌がらせをしたいだけなのでしょうか。




「娘たちが行くのならば父として私も行かねばなるまい」


ロットバルトは何かを企んでいるような笑みを浮かべていました。






 夜会当日、私は自分の部屋で支度をしています。


 黒っぽい生地で軽そうな素材の夜会服を着ているように変身しました。肩や胸が開いてるデザインです。袖はありませんが長い手袋を着けています。踝まで隠す丈のスカートがエレガントにふんわりと広がりました。胸元を飾る赤い刺繍は私が描いた魔法陣です。この魔法陣に魔力を通すことで服や仕草がそれらしく見えるようにしています。


 夜会服を着ているように見えていますが幻です。本当は胸元に刺繍を施しただけの普段着ワンピースを着ています。上手に幻惑の魔法がかかったのでおそらくバレたりしないでしょう。



 壁を鏡に変えて姿に違和感がないか確認しました。それから黒鳥に変身し窓から飛び立ちます。王城まであっという間です。翼に魔力を行き渡らせて飛びますから普通の鳥よりも速度が出ています。それでも夕闇に紛れた黒鳥ですからどんな速度で飛んでいたとしても気が付く人はいないでしょう。


 王城のバルコニーへ舞い降りました。誰もいないことを確認してから人の姿に戻ります。服装を確認してから夜会の会場に入りました。




 会場を見回しましたが白鳥の娘たちはまだ来ていないようです。彼女たちは夜明け前にドレスに着替え朝日と共に空へ飛び立っていきました。変身の魔法を使いこなせないからです。十年前ロットバルトに掛けられた魔法のまま、昼は白鳥として過ごし日が沈むと人の姿に戻るのです。少しは勉強すればいいのにと思います。


 今日もおそらく王城の近くで白鳥の姿のまま日が沈むのを待っているのでしょう。人の姿になってから王城目指して歩くしかありません。うっかり遠い場所で人の姿になっていたら大変です。空を飛べば数分の距離でも地上での移動は時間がかかるのですから。それに今夜は夜会用のドレスに靴という歩きにくい服装をしているはずです。普段着を夜会服に見せかけるなんて出来ないのですから。皆無事にたどり着けるといいですね。




 会場の隅に立ってキョロキョロしていると、花かごを抱えた道化師が近づいてきました。


「失礼ですがどちらの令嬢でいらっしゃいますか?」


道化師が丁寧な口調で尋ねます。


「ロットバルトの娘、オディールと申します」


 舞台挨拶レヴェランスの姿勢をとって答えました。バレエ教室で二年間、レヴェランスの姿勢をみっちり仕込まれました。レヴェランスの姿勢は令嬢の挨拶カーテシーの姿勢と同じではないでしょうか?カーテシーの姿勢はオデットが白鳥の娘たちに教えているところを何度か見ました。たぶん同じだと思っています。


「ではこちらを髪に」


道化師は花かごの中から一輪の花を摘まみ

私の髪に挿しました。


「令嬢には花をつけていただいております。既婚者に求愛してしまうと困ったことになりますから」


道化師はそう言うとウインクをして去っていきました。




 なるほど。髪に花を挿しているのが未婚女性というルールのようです。そういえば今夜は王子の結婚相手を決める夜会でした。念のためもう一度会場を見渡しましたがオデットは到着していないようです。


『早く来ないと花をもらえませんよ。花をもらわないと既婚者と間違われちゃいますよ。オデット王女はジークフリート王子と恋に落ちたんでしょ。会場入りしないと求婚してもらえませんよ』




心の中でオデットの到着を祈ります。




 心の中で祈っていますがオデットは夜会に間に合わないでしょう。此処はどう考えても『白鳥の湖』の世界です。異世界大好きの兄が言っていました。『物語の世界に転生や転移することがある』と。私の場合は召喚でしたが。「どうして兄ではなく私が来たの?」と召喚されてから何度思った事か。兄なら大喜びだったでしょうに。来たばかりの頃の私は家に帰りたくて泣いてばかりでした。




 私は『白鳥の湖』のストーリーを知っています。バレエ教室の公演では定番ですから。召喚された日の翌々日には文化会館の小ホールで踊る予定でした。ミッちゃんがオデット役で私が黒鳥(オディール)役でした。プロのプリマドンナは白鳥と黒鳥を一人で演じるそうですがバレエ教室では別々でしたよ。




 まあ、そんな訳でストーリーを知っています。オデットが夜会に間に合うことはないでしょう。来たくてもロットバルトが邪魔をするはずです。ほら噂をすれば何とやら。ロットバルトがこちらに向かって歩いて来ます。


「我が娘オディール。不安そうな顔をしなくても大丈夫だ。心配なら私が幻惑の魔法を掛けておいてあげよう」


 頼みもしないのにロットバルトは魔法を掛け、私の姿はオデットに見えるようになってしまいました。ロットバルトは楽しそうに笑っています。何だか(しゃく)に障ります。時間をかけ刺繍までして発動させた私の魔法だったのに上書きされてしまったからです。




 物語と同じように夜会が進行するなら、私はジークフリード王子からダンスに誘われ一緒に踊ります。夜会で行われるダンスのステップを知りませんが適当に足を動かしてさえいれば魔法の効果でそれなりに見えるはずです。


 そうだ!いっそのことバレエ教室で習った黒鳥の踊りを披露してみましょう。バレエのレッスンは続けてきたのです。裏庭で鏡に変えた壁に向かい合いながら。


 召喚されてしまったから文化会館での公演に出られませんでした。それを残念に思っていたのです。せっかくのチャンスです。ここで披露いたしましょう。



 王宮という立派な場所で行われている本物の夜会です。これ以上の見せ場なんてあり得ません。でもロットバルトの幻惑の魔法は強力です。たとえバレエ教室仕様の黒鳥を踊ったとしてもオデット王女が夜会で社交ダンスしているようにしか見えないとしたらどうしましょう?黒鳥を踊る意味が無いような気がします。


 しばらく考えてみましたが、やっぱり黒鳥の踊りを披露することに決めました。私の踊る姿がどのように見えていたとしても構いません。私の好きなように踊ります。



 ダンスホールにさざめく令嬢たちの数が増えてきました。オデットはまだ現れません。オデットはジークフリード王子に恋をしているのでしょう。ジークフリード王子はオデットに求婚するつもりでいるのでしょう。物語の筋書きにそって黒鳥オディールを演じるとはいえ恋愛の邪魔をするのは気が進みません。


 私はジークフリード王子の顔すら知りません。初対面の王子から求婚されるという場面になったら気まずいことでしょう。


 今日までオデット王女を筆頭に白鳥の娘たちから無視されてきました。悪口を言っているのをうっかり聞いてしまったことも度々です。傷つくことが日常でした。


 でも、だからといってオデットの恋を邪魔するのは何か違うと思うのです。人が好過ぎると言われたことがあります。


 以前ロットバルトから魔法を教わっている時

「目的を遂行するならば、時に非情になる必要もあるのだよ」

と諭されたことがありました。そうでした。私はオディールを演じなければなりません。今夜は私にとっても帰還の魔法を完成させられるかもしれない大切な夜会なのです。


 ファンファーレが鳴り響きました。一段高く設置された王族用の椅子に注目が集まります。


 金の冠をつけ紫に金色の刺繍と房飾りのついたマントを(ひるがえ)す銀髪の男性が入場してきました。男性のマントお揃いのドレスを(まと)い褐色の髪を固く結い上げ金のティアラをつけた女性が隣に並びます。国王陛下夫妻です。豪華絢爛な装いをしています。


 そのすぐ後ろに青地に銀の刺繍と房飾りのついた衣装姿の銀髪の青年が入場してきました。頭に冠は載せていませんが国王陛下並みの絢爛な衣装を着ています。彼がジークフリード王子なのでしょう。


人々の注目を集めながら三人は用意されていた椅子に座ります。再びファンファーレが鳴り渡り国王陛下がパーティーの開催を宣言しました。静かに演奏が始まり会場にさざめきが広がっていきます。髪に花を飾った令嬢たちが保護者に付き添われて挨拶の列を作り始めました。


 列の順番などの知識はありませんが先頭の令嬢たちほど豪華な衣装を着ているようです。陛下夫妻は令嬢の挨拶に言葉を返したり頷いたりされているようです。大変ですね。令嬢は大勢いるのですから。


 小一時間が経過し挨拶の列に並ぶ令嬢たちの数もだいぶ減ってきました。挨拶の終わった方々は食事の用意されたテーブル付近に集まり楽しんでいるようです。陛下夫妻は疲れてきたのか言葉をかけることがほとんどなくなりました。それでも挨拶には頷いておられます。


 そんな様子をぼんやり見ていましたがロットバルトに手を取られます。そのまま挨拶の列の最後尾に連れて行かれました。挨拶を待つ令嬢は私の前に数人だけです。ジークフリード王子が私の姿を見つけたようです。目を見開き明るい笑顔をこちらに向けてきましたから。


『ごめんなさい。幻惑の魔法なの。私はオデットじゃない』


 心の中で謝っておきます。


 いよいよ私の順番がきました。私はドレスをつまんで姿勢正しく挨拶のポーズを決めました。

「ロットバルトの娘オディールと申します」


 ええ、名前だけは嘘をつかないつもりです。だからジークフリード王子、気が付きましょうね?


 陛下夫妻は私の挨拶にも頷いてくれました。前の令嬢の時と同じように。


 ジークフリード王子は椅子から立ち上がり満面の笑顔で私に手を差し伸べてきます。ダンスを申し込むつもりなのでしょう。会場にざわめきが広がります。王子とのファーストダンスをすべての令嬢が望んでいるのですから。


 私は王子の手は取らずにダンスホールの中央に向かいました。履いている靴はトウシューズです。ハイヒールに見えているかもしれません。


 位置について始まりのポーズを取りました。伸ばした腕が、反らした背中が心地よく緊張しています。


 弦楽器と金管楽器で奏でる音楽が流れ始めます。黒鳥の曲です。曲が流れているのは私の頭の中だけでしょうか?周りの人にも聞こえているのでしょうか?聞こえてくれていればいいなと強く願いました。


 私は笑顔を作って飛び跳ねます。バレエ教室の先生が生徒向けにアレンジした振り付けです。黒鳥らしく連続して回転を繰り返す振り付けになっています。片足で回って、上げた足を後方に伸ばして回ってからのジャンプ。着地して更に一回転。


 ダンスフロアに円を描くよう気をつけながら立ち位置を移動させ跳躍を交え淀みなく回転を繰り返します。回転するたびに魔力の光が溢れていきます。伸ばした足の位置が、しならせた腕や体が思うままに動く感覚が嬉しいです。魔力を込めた足での跳躍は高度が有りながらも優雅です。踊っていることが楽しくて本気の笑顔を浮かべながら最後のポーズを決めました。



 流れていた黒鳥の曲が止み会場のざわめきが耳に入ってきました。さすがに夜会用のダンスには見えなかったのでしょう。一人で踊ったのですからね。私を取り囲むように踊りを見つめていた人々に困惑の表情が浮かんでいます。


 私はやり切ったのでとても清々しい気分です。舞台挨拶レヴェランスの姿勢をとりながら笑顔を振りまいてみました。


 だれかがパチパチと拍手をしました。つられるように一斉に拍手が沸き起こります。演出に用意された踊り子だと思ってくれたのかもしれません。


 そこへジークフリードが進み出てくると私の前で片膝をつきました。


「ああ、オデット!愛しています。私の妻になってください」


…私、オディールだって自己紹介しましたけど…


 ざわめきが広がります。


 その時ダンスホールの入り口付近で声が上がりました。目をやれば本物のオデットがいました。真っ白いドレスを着ています。胸元の銀の刺繍は王子の服の刺繍と同じ柄なのでしょう。


 オデットは怒りに燃える眼差しで私を睨みつけました。とたんに幻惑の魔法が解けていきます。オデットもようやく解呪の『きっかけ』を掴んだようです。


…やればできるじゃないですか…


 おっと大変。衣装が普段着に戻ってしまいました。慌てて胸元の刺繍に魔力を込めると夜会服を着ているように見えるようになりました。


 ジークフリード王子は姿の変わった私を見てオロオロしています。会場が混乱し始めました。ロットバルトが混乱を煽っているのでしょう。オデットはドレスの裾を掴み上げ怒りの形相でこちらに向かって来ます。それでも所作だけは優雅に見えますからさすがは王女の生まれです。


 白鳥の娘たちまでが会場に入ってきました。誰かが悲鳴を上げたことで会場から逃げ出そうという動きが起こります。入ってくる人の波と出て行こうとする人の波。理解が追い付かないでいる人がほとんどなのでしょう。混乱を収拾しようと警備の騎士のあちらこちらで声を上げています。


 私は会場から出ていこうとする波に紛れて逃げることにしました。オデットに言い訳をするつもりはありません。私は私の役割を果たしただけです。それが私の役割ですから。


 オデットに捕まって怒鳴られたり叱られたりするのは不本意です。さっさと逃げ切らなくては。令嬢のふりをしながら出口を目指します。


 オデットは私を追いかけるよりも王子の腕に飛び込むことを選んだようです。抱き合う二人の姿が見えました。


 私は王城からの脱出に成功し人目に付かない場所にたどり着きました。すぐさま黒鳥に変身して夜空に舞い立ちます。夜空の黒鳥など誰も見つけることはできないでしょう。私の役割は此処までです。もう出番はありません。


『役割をこなして物語を演じ切る事』が例の魔法陣を起動する『きっかけ』になるはずだと思うのです。


 私の出番は終わったのだから黒岩千佳の人生に戻ることができると思うのです。


 黒鳥になって飛んで行った先は森の中にあるロットバルトの屋敷前です。湖の畔に黒鳥の姿で舞い降り足が付くと同時に人の姿に戻りました。地面にはレース模様のような魔法陣が輝いています。いつの間に帰って来たのかロットバルトが魔法陣のそばに立っていました。


「よくやった。一人前の魔女になったことを認める」


 ロットバルトの言葉に私は深々とお辞儀を返しました。もっと言葉を交わしたいのですが時間がありません。魔法陣が起動しているうちに帰らなければなりません。


 変化の指輪を使って七歳の姿になった私は魔法陣に乗ります。目の前が暗くなりました。そのまま意識を失い倒れました。




 目を覚ますと白いベッドに寝ていました。体がものすごく重いです。体内の魔力が足りないのだと分かりましたが魔力の吸収がうまくできません。空気中に漂う魔力が希薄なのだから仕方ありません。もともとこっちの世界はこういう場所でした。やっと元の世界に帰ることが出来たのだと実感が湧きました。枕元でピッビッと鳴っている電子音は医療機器でしょうか。


 こちらの世界では魔力が薄いということを失念していました。だから帰還直後に魔力欠乏を起こしてしまったのです。あちらの世界に十年もいたのです。体は魔力が豊富な環境に慣れ過ぎていました。体が馴染むのにしばらく時間がかかるでしょう。



 帰還して一週間が経過しました。相変わらず入院したままです。それでも体に繋がっていた沢山の管が外れました。まだ点滴の針が一本腕に刺さったままです。コレが抜ければ退院できるそうです。


 湖の畔で発動させた魔法陣にはバレエ教室の玄関マットの場所と召喚された当時の時間を指定した帰還式が組み込まれていました。召喚時と同じ服装に着替える魔法式も組み込んでいました。


 ですからこちらの世界で私は消えていません。バレエ教室の玄関マットの上で突然倒れたことになっています。


 帰還で魔力を大量に失いました。あちらの世界だったなら豊富な空気中の魔力を速やかに吸収できたでしょう。しかしこちらの空気中の魔力は薄いのです。私の体は魔力の薄い環境に即座には対応できませんでした。変化の指輪も地味に魔力を消費します。七歳の姿を保つのも中々きついです。


 体が環境に馴染むまで命を繋いでくれた現代医学に感謝です。転移先の魔力濃度のことにまで考えが及びませんでした。気が付いてさえいれば魔力を補充する方法はいくらでもあったのに。駆け出し魔女らしい失敗と言えるのかもしれません。反省して精進しなければ。


 意識が戻って体が動かせるようになりようやく家族との面会を許可してもらいました。十年ぶりに会えた父と母。何度夢に見たことか。嬉しくて声を上げて泣きました。興奮しすぎたらしく鎮静剤を打たれてしまいました。


 院内感染がどうとかの決まりが厳しくてお兄ちゃんは一緒に来れませんでした。LINEを使って始終やりとりしています。スマホは鞄ごとあちらの世界に忘れて来てしまいました。母と教室の先生が倒れたあたりを何度も探したそうですが見つからないとがっかりしていました。ごめんなさい。見つかるはずがありません。今使っているスマホは新しいものです。


 バレエ教室の皆は私が倒れたのでとてもビックリしたようです。ミッちゃんが直ぐに先生を呼んで救急車を手配してもらったのだとか。ミッちゃんありがとう。先生ご迷惑を掛けました。申し訳ありません。


 結局文化会館での公演には出られませんでした。黒鳥役は誰がやってくれたのかな?


 元気になったら教えてもらいたいこと、やりたいことが沢山あります。


 十七歳になっている私ですが、七歳の姿で小学校二年生の生活をはじめます。複雑な魔法式も組めるほどに計算力を伸ばしましたが小学校ではこれから割り算を習う予定です。面倒くさいです。


 この国には飛び級の制度がありませんから地道に頑張りましょう。そもそも魔法文字は読めるけれど日本語の読み書きはほとんど忘れています。そもそも二年生の国語までしかやってないから漢字も多くは知らないのです。社会科や歴史はこれから普通に覚えなければいけません。化学や物理は魔法理論と被っている部分があるような気もしますが…。どうなのでしょう?


 本物の王侯貴族の前で踊ったことは良い思い出になりました。


 十年もの間異世界で暮らしてきた経験を正直に話したところで誰にも信じてもらえないでしょうね。お兄ちゃんなら信じてくれるかな。異世界に行きたがっている人ですから。


 私が行ってきたのだと知れば『お前だけずるいぞ』って言われてしまうかもしれません。


 やっぱり、お兄ちゃんだけには話そうと思います。魔女になったよって。どんな顔をするでしょう?とっても楽しみです。


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