黒-3
再びリリを見付けるドゥールは……。
ドゥールはラインに昼休みの経過を報告し、とりあえず感謝された。
やりとりが穏やかならぬ空気の中でなされたので、ラインに感謝されても逆に恐縮してしまう。口のうまい人間ならもっとスムーズに事を運ぶのだろうが、あれがドゥールのできる精一杯だ。
返事は放課後に、と手紙の中に書いたらしいので、その日の授業が終わると「うまくやれよ」と励ましてドゥールは先に学校を出た。
ラインが何か言う前に、ユーナがまくしたてそうな気もするが……まずは二人が顔を合わせなければ何も始まらない。
あれでリリの役に立てたのかなぁ。ラインの件の場合、かえって妙な方向に……いや、そんなことないよな。うまくいくかどうかはあいつの言動にかかってるだろうけど、たとえ成就しなくたって想いを告げるっていうのは悪いことじゃないはずだ。
自分にそう言い聞かせ、ドゥールは家へ帰った。
「ただいまー」
家に入っても、返事がない。が、ドアに鍵はかかっていなかったし、声はかすかに聞こえている。母のコルティはどうやら電話中のようだ。
いつからかけてるのか知らないけど、また長いんだろうな。
長電話する女性など世間ではそうそう珍しくもないのだろうが、コルティもかなり長い。何をそんなに話すことがあるんだろうかといつも不思議に思うのだが、本人やその電話の相手もまだ話し足りないと言う。いっそ一緒に暮らしたら、と言いたくなる。
出掛けようという前に電話がかかってくれば、運転手役の父はさっさと新聞を読み始める。どうせしばらくは出掛けられないとわかっているからだ。
あれだけしゃべって、よく舌が絡まったりしないもんだよなー。
ドゥールは自分の部屋へ戻り、カバンをベッドの上に放り出した。
「あ、そうだ。数学の宿題、出てたんだよなぁ……」
面倒だが、これはサボる訳にはいかない。数学担当の教師は宿題をやって行かないと、次回は倍にしてくる。一度忘れてひどい目に遭ったことがあるのだ。
ちゃんと手紙を渡したから、とラインに恩を着せてノートを見せろと言うこともできるが、きっと今日の彼は宿題どころじゃないだろう。
うまくいけば、うかれて。ダメなら落ち込んで。
どっちにしろ、手がつかないに違いない。そんなラインのノートを期待していては、二人で「宿題二倍の刑」に処されるのは目に見える。それはゴメンだ。
「仕方ない。自分でちゃんとやるか」
いやなことは、さっさと片付けてしまうに限る。今夜は見たいテレビもあるのだ。
ドゥールはカバンを開け、数学の教科書とノートを取り出した。
「あれ……? いっけね。残りページ、もうなかったんだっけ」
そろそろ終わるな、と思いつつ、新しいノートを買うのをすっかり忘れていた。
残りはあと二ページしかない。これではどうしようもないので、ドゥールは財布を持って部屋を出た。
「あ、ドゥール」
まだ電話をしているらしいコルティが、息子を呼んだ。
「やかん、火にかけておいてちょうだい」
それだけ言うと、コルティはまた電話に戻った。
「……それだけ?」
帰って来た時には「おかえり」もなかったので気付いてないと思っていたのに。母親はちゃんと息子が家にいることをわかっていたのだ。
それくらい、しゃべりながらでもできるだろっ。
固定電話ではないのだから話ながらでも移動はできるし、コンロの火をつけるくらいなら片手でも簡単にできる。話に夢中になると、それすらも面倒なのだろうか。
そのくせ、人に頼む時はちょっと話を中断できるんだから……大人ってすっげー勝手だよな。それとも、うちの母さんだけ?
キッチンへ入ると、コンロの上に黄色いやかんが乗っている。水もちゃんと入っていた。
ここまでしてるなら、後は火を点けるだけじゃんか。
半ばあきれながら、ドゥールは火を点けた。ここでもたもたしていたら、そのうち「ポテトの皮をむいておいて」だの「レタスを洗って」だのと言われかねない。
他の用事まで言いつけられないうちに、ドゥールはさっさと家を出た。
母さんから電話を取り上げたら、絶対死ぬな。しゃべりたいのにしゃべれない病になるとか。
そんなことを考えると、あきれるのを通り越し、いっそ笑えてきた。
「え……おーい」
いつもの文房具店へ行くと、臨時休業の張り紙がされている。
「何だよ、今日に限って休みかぁ。仕方ないなぁ」
もう一軒の文房具店は、この先の大通りを渡った所にある。そこへはいつも自転車で行くのだが、今から家に戻るのも面倒だ。
ドゥールは散歩気分で、のんびり歩くことにした。
途中、何とかリリの役に立てそうなことが転がっていないかと、さりげなく見回しながら進む。だが、これと言っては何もなさそうだ。
困っている人もいないしなぁ。あ、困ってる人はいないに越したことはないんだ。これだと、誰かに困っていてほしいみたいで、俺自身が悪い奴みたいじゃないか。
リリは「いつものようにすごして」と言っていたのだ。それなのにあえて探し出そうとすれば、それはリリの希望に反することになってしまう。
俺も「俺に手伝えること」って言ったもんな。無理して探したりしたら、手伝うって言うより、俺自身が課題をクリアしようとしてるみたいだ。
ムキになってはいけない。普段の生活の中で、できることがあればそれをすればいいのだ。
しかし、もう一度リリに会いたいと思ってるドゥールにしてみれば、一つでも「功績」をあげたい。そうすれば彼女が会いに来てくれるような気がするから、何もない状態というのはちょっと困る。これが本音。
ちょっと複雑な気分だ。これだと、自分が誰かの不幸を願っているように思えてくる。ドゥールはただ、リリに会いたいだけなのに。
天使に二度も三度も会いたいなんて……わがままだよなぁ。一度会えただけでもすごいことなのに。しかも、ちゃんと会話までしてさ。それをもう一度、なんて……きっと俺、他の人が聞いたら分不相応な願いを抱いてるんだろうなぁ。
空を見上げると、灰色の雲が低くたれこめていた。あまりのんびり歩いていては、帰りに降られてしまうかも知れない。
だが、ドゥールはあまり急ぐ気分にはなれなかった。
だいたい、俺はアイサが好きなんだぞ。それなのに、リリに会いたいなんて思ってばっかだと、まるでリリに心変わりしたみたいじゃないか。どれだけ本気になったって、相手は文字通りに手の届かない存在だぞ。それに、会えたからって何がどうなるものでもないのにさ。
頭上の空のように、つらつら考えるドゥールの心は灰色だ。
理性的に「こうだから」と考えようとしても、それは自分を無理に納得させようとしているのだと、自分でわかってしまう。抑え付けようとすると「だけど……」と反論しようとするもう一人の自分が現われる。
ドゥールはブンブンと頭を振った。
ダメだ、俺。無理して自分にウソつくの、やめよう。どう言い訳したって、リリに会いたいのは事実だ。好きだとか、そういうのは抜きにして、とにかく会いたい。会いたいんだから、会いたい。それでいいや。あれこれ悩むの、俺らしくないもんな。うん、そうだそうだ。
こうして開き直ると、少し気分も楽になってくる。
思い悩んでいるうちに、ドゥールは大通りまで来ていた。横断歩道を渡ってもう少し歩けば、目的の文房具店だ。
信号がちょうど青で、たくさんの人に紛れてドゥールは道を渡った。
「ドゥール」
名前を呼ばれ、ドキッとする。
この声は……。
女の子の声だ。しかし、クラスメートでもないし、近所の女の子でもない。
昨日会ったばかりで、別れてからもずっと「もう一度会いたい」と思っていたリリの声だ。
ドゥールはあちこちを見回すが、どこにもリリの姿は見えない。あまりに会いたいという気持ちが強くて、幻聴を現実の声だと思い込んだのだろうか。
ふとドゥールが横を向き、そのまま視線を上に走らせ……ある場所で止まる。
「リリ……」
そこには、確かに昨日会ったリリがいた。何度まばたきしても、消える様子はない。幻ではなく、本物だ。
昨日と同じ、柔らかな笑みをその顔に浮かべ、その視線はドゥールに向けて。
わかってたつもりだけど……リリって本当に人間じゃないんだ。
彼女を見て、今更ながらにドゥールはそんなことを思っていた。
ドゥールが見付けたリリは、信号機に腰掛けていたのだ。車両用の信号機だから、それなりの高さがある。
それに、そんな所に座っていたら歩行者はともかく、車を運転している人には絶対に見えるはずだ。彼女の足は赤ランプの前でブラブラと揺れているから、信号無視のドライバーでない限り、見えてなければいけない。
しかし、誰も「あんな所に女の子が!」と騒ぐ人はいなかった。ドゥールには見えていても、他の人にはリリが見えていないから、信号機だろうが何だろうが座っていても支障がないのだ。
それはともかく。
またリリに会えた。信号機の高さも含め、少し距離があるものの、自分の目でリリの姿を認めることができたのだ。
リリの姿を見付けて一瞬驚き、それからドゥールの顔に笑みが浮かびかけた時。
急ブレーキの音と、ドンッという重くにぶい音が背中で聞こえた。
「え?」
反射的にドゥールは振り返る。
そこには、カーブを曲がって来たらしいダンプカーと、横断歩道の真ん中にうつ伏せで倒れている女の子がいた。
「事故だっ」
誰かが叫ぶのが、どこかよその世界から響いたかのように聞こえる。
そんなの、見ればわかるのに……と思いながら、ドゥールはその光景を前にして動けずにいた。
当たった瞬間こそ見てなかったが、目の前で事故が起きるなんて初めてで、自分が何をどうすればいいのか、全くわからなかったのだ。
周囲にいた数人の大人が、倒れた女の子のそばへ駆け付ける。ダンプの運転手も慌てて降りて来た。少し離れた所からクラクションの音がするのは、事故が起きたことを知らないドライバーが青になったんだから進めよ、とせっついているのだろう。
そうだ。俺、こんな所で突っ立ってちゃいけない。何かしなきゃ。倒れてる子にはもう大人が集まってるし……えっと、救急車を呼べばいい? あ、あそこで携帯かけてる人がいる。ってことは、もう連絡したのかな。それじゃ……。
何かしなければ、とは思うものの、初めてのことで何をどうしていいのか、ドゥールは何も思い付かない。
事故に気を取られていたドゥールだが、なぜかふとリリがいた方をまた向いた。
天使なら何とかしてくれるのでは、と思った訳ではなかったが、心のどこかにリリに助けを求める気持ちがあったのかも知れない。
もういないのではと思ったが、意外にもリリはまだ信号機に座ったままでそこにいた。
「リリ……?」
ケガの具合はわからないが、女の子はピクリとも動かない。アスファルトに血が流れているのも見える。
血って、あんなに黒かったっけ?
落ち着いていられるような状況ではないのに、ついそんなことを考えてしまう。
流れる血は濃い赤を通り越し、ほとんど黒に見える。その量からして、とても軽傷とは思えなかった。
事故。アクシデント。悲鳴。ケガ。混乱。騒然。
この状況は、どこをどう見ても不幸なできごとだ。
それなのに、リリは信号機に座ってその様子を眺めながら……笑っているのだ。あの天使のような微笑みを、その顔に浮かべて。
どうして? この光景を見て、どうしてリリはそんなに明るい笑顔ができるの?
リリの笑顔にドゥールは初めて、何か違う、と感じた。
運転手と通行人の数人が、倒れた女の子を道の端へと運ぶ。反対車線の車が横目で見ながらゆっくりと通過し、事故が起きた車線の後方からはクラクションが何度も鳴る。
いつも以上に騒がしい環境にも関わらず、ドゥールは無音の中へ放り込まれたような気がしていた。自分だけがこの空間から切り離されてしまったような。
事故の様子を眺めるリリを見ていたドゥールは、ふと彼女がこちらを向いてどきっとする。
それは、自分が好感を持っている女の子に振り向かれた時に感じるものではなかった。
見てはいけないものを見てしまい、さらに自分が見ていたことを相手に知られてしまった。
そんな気持ちに近い。
リリは信号機の上で立ち上がると、ふわりと宙に浮かんだ。そのままどこかへ飛んで行く。
その場から飛び去る前、ちらりとドゥールの方を見て。
こっちへ来いってこと……?
彼女の意味ありげな視線に引き寄せられるように、ドゥールはリリが飛んで行った方へ走り出した。