黒-1
リリと別れた後のドゥールは、自分のできることをしようと……。
柔らかな微笑みを少年に向け、リリは「じゃあね」と言って、暗くなり始めた空へと消えて行った。
それを見送り、ドゥールはしばらくリリが消えた空を眺める。
「さっきのって……本当にあったこと、だよな?」
自問しても、答えてくれる人はいない。リリが言ったように、周辺にいるのは彼女の姿が見えない人ばかりのようで、リリが再び空へと飛んだ時も誰一人騒いだりしなかった。
やっぱり夢を見てたのかなぁ、と思ったが、それならそれでもいいや、と思った。
夢だとしても、とても楽しかったし、思い返せばまたどきどきしてくる。
うわ、それじゃ俺って天使と対面してたのか? すっげー。こんなことが本当に起きるなんて、それこそ夢にも思わないよな。
今更ながら、リリとの出会いに感動するドゥールだった。
ふと公園の時計を見ると、思ったより時間が過ぎている。楽しい時間が過ぎるのは、本当にあっと言う間だ。
「帰ろっと」
本当はまだここにいて、空を見ていたい。もしかしたら、またリリが現われるかも知れないと思うと、公園を出たくなかった。
しかし、ここでずっと突っ立っていても仕方がない。
ドゥールは芝生に置いていた荷物を持つと、公園を出た。
いつものようにすごして、いいと思うことをするって……何だか難しいな。
自分が考えることと、リリが考えることがちゃんと一致しているのかも怪しい。
それに、そんなことで本当にリリを手伝うことになるんだろうか。リリの言い方はとてもあいまいだったし、ドゥールはその辺りがちょっと不安だった。
しかし、深く考えたところで答えは出ないのだし、ドゥールは悩むのをやめた。リリが顔を曇らせるようなことをしなければいいのだろう。
少なくとも、自分が悪い行いをしなければ。
家へ帰る途中、ドゥールはコンビニへ寄った。
普段は人の多い店内が、今は珍しく空いている。いつも買うアップルジュースを目当てに、ドゥールはジュースが陳列されているエリアに来た。
あ、残り一本。
グレープやオレンジなど、他の種類はまだ残っている。でも、アップルだけが一本になっていた。
リンゴのイラストがついた紙パックに手を伸ばそうとすると、横から同じように手が伸びてくる。その手の目標は、ドゥールと同じだ。
そちらを見ると、十歳くらいの男の子。丸顔に薄い金色の髪の彼も、同じく横から伸びて来た手に気付き、こちらを見ている。
どちらの手も同時に伸びていたが、まだ紙パックまで到達していない。
これが同級生相手なら「もーらいっ」なんて言いながらさっと取ってしまう、もしくは取られてしまうところだ。
でも、ここでそんなことをしたら大人げない。大人から見れば子どものドゥールでも、小さな子どもから見れば大人とそう大差ないだろう。
別に悪いことをしてる訳じゃないのに、向こうは完全に気後れしている様子だ。伸ばす手が止まっている。
それを見ると、余計に目の前で取り上げてしまうのはかわいそうな気がした。
そうか。こういうこと、だよな。
リリの言葉を思い出す。
彼女は、こうした方がいいと思うことをして、と言った。この状況であれば、年下であるこの少年にジュースを譲ること……だろう。
アップルジュースは好きだが、何が何でもこれでなきゃいけない、というのでもないのだ。
それなら、今は一歩引いて。
「いいよ」
ドゥールが手を引きながら言うと、少年の顔がパッと輝いた。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
嬉しそうにジュースを手に取ると、少年はレジへと走って行った。
これでリリの役に立てたかな。立ててるといいな。
たとえほんの小さなことではあっても、これでリリが笑ってくれるんじゃないかと思うと、何だかそれだけでドゥールは嬉しくなってくる。
これだけのことなのに……俺って結構単純だったんだなぁ。
知らず緩みそうになる口元を引き締めるのに苦労しながら、ドゥールはどのジュースにしようかな、と陳列棚を眺めるのだった。
☆☆☆
次の日。
昨日あったことは本当だったのかな、とドゥールは半信半疑な気持ちだった。
リリと別れてからすぐ後も夢だったような気がしたが、一晩眠るとその気持ちはさらに強くなる。
あれが現実だった、という証拠は手元に一つも残っていない。彼女と会話をした、という頭の中の記憶だけだ。
やっぱり夢だったんじゃないの? と言われてしまえば……そうかも知れない。
でも、一方で「あれは絶対に夢なんかじゃない!」という気持ちもある。
もう一度リリに会いたいなぁ。二度も天使に会うなんて、無理かな。だいたい、昨日会えたのだって、他の人から言わせれば奇跡みたいなもんだろうし。リリが空へ戻る前に、また会えるか聞いておけばよかったな……。
学校へ向かう途中、曇り空を眺めて今更ながらのことを考え、ドゥールは小さくため息をついた。
後悔先に立たず。あの時は気持ちが舞い上がりすぎて、そんな細かいところにまで気が回らなかったのだ。
「ん?」
ドゥールの向かう方向に、白い杖を持った中年の男性がいた。その杖を自分の周囲の地面にこんこんと当てながら、右往左往している。
その様子は道の安全を確認していると言うより、手探りで何かを探しているような仕種に見えた。
「あの……おじさん、どうかした?」
わざと少しだけ足音をたてて、ドゥールは声をかけた。いきなり声をかけるより、足音で誰かが近付いて来たとわかる方がいいだろう、とドゥールなりに考えたのだ。
「ハンカチを落としてしまって……。近くに落ちてないかな」
「ハンカチ?」
見ると、男性が立っている斜め後ろに白いハンカチが落ちている。
「あ、これかな。白いハンカチ?」
「ああ。端の方に青の糸で名前が刺繍されてるんだ」
ドゥールが拾ったハンカチには、片隅に青の糸で「ジューロ」と刺繍されていた。
「うん、青い刺繍があるよ。それじゃ、これだね」
ドゥールは相手の手を取って、そのハンカチを乗せてあげた。
「どうもありがとう。助かったよ」
黒いサングラスをかけた男性は、嬉しそうに笑った。
「おじさん、どっちへ行こうとしてたの?」
「駅の方だよ」
「じゃ、こっちだよ」
ハンカチを探しているうちに。方向がわからなくなったのでは。
そう思ったドゥールは、相手を駅のある方向へ軌道修正してあげた。
「この道をまっすぐね」
「どうもありがとう。きみは学校の時間、大丈夫かい?」
彼にドゥールの姿は見えてないはずだが、声で学生だとわかるようだ。
「え……あ、大丈夫だよ。じゃあね」
それでなくとも、のろのろと歩いていたのだ。このままだとちょっとマズい。
ドゥールは何でもないフリをしてその場を少し離れてから、慌てて走り出した。
遅刻の理由が、人に親切にしてました、なんて先生には信用してもらえないだろうなぁ。
見えて来た校舎に向かいながら、そんなことを考える。
あ、でも待てよ。今のって一応、いいことだよな? ってことは、リリが喜ぶ訳で。こういうことを続けていたら、そのうちリリが「手伝ってくれてありがとう」とか言いに現われてくれるかも……。そうだよ、それってかなりありえるよな。
別に礼を言われたい訳じゃない。いや、もちろん言ってもらえれば、それはそれで嬉しいが。
それよりも、ドゥールはリリに会いたい。
理由が何であれ、彼女がもう一度ドゥールの前に現われてくれればそれでいい。
よーし、それなら……がんばるぞっ。
下心があるとか、何か変なことを考えてる訳じゃない。ただ「会いたい」というくらいだけなら、神様も少しは目をつぶってくれるだろう。
急に目的ができてテンションが上がり、ドゥールの走る速度も自然に上がった。