リリ
ドゥールは家へ帰る道を少し外れ、ポーリア公園へ寄った。
ポーリア公園はドゥールが通う中学校のグランドよりも広い。実際の面積なんて聞いたことはないが、見た感じだと三倍近くはあるだろう。
ほぼ円形の敷地のほぼ中央には、ドゥールの知らない名前の大木が公園の主よろしく立っていた。
枝振りは立派で、青々とした葉がたっぷり茂っているから、夏には涼しくて大きな木陰ができる。その下で恋人達が座っていたり、本を読んでいるうちに昼寝時間になってしまう人がいたりするのはいつもの光景だ。
今は夕暮れという時間もあって、さすがに昼寝をしている人はいない。
それに、最近は朝夕がずいぶんすごしやすくなってきたので、この時間に外で横になっていたら身体が少し冷えそうだ。
それでも、公園のあちこちにはまだ人の姿がある。
キャッチボールをする少年達や、ベンチでおしゃべりに興じている女の子達。犬の散歩をしてる人同士が立ち話。
これもいつもの光景。
ここにいると、何となく時間がゆっくり流れるような気がする。だから、ドゥールは時々この公園へ立ち寄るのだ。
ベンチや芝生に座って本を読んだり、何もせずにぼーっとしたり。
今日も何かするという気もなく、芝生に座ってただ空を眺めていた。柔らかなオレンジ色の空に、薄い雲が風に流されてゆく。
それを見ていると、平和だなー、なんてことを思ったり。
「……あれ?」
ドゥールが空を見上げていると、雲とは違う動きのものを見付けた。
鳥の影とは違う。鳥よりもずっと大きい。あれが飛行機なら、低空飛行すぎる。
見ているうちに、それはさらに大きくなってきた。降りて来ているのだ。
やがて、肉眼ではっきりその姿を捉えたドゥールは、自分の目を疑った。
「え……ウソ……だろ」
降りて来るのは、人間。……女の子だ。
パラシュートはなく、もちろん翼もない。それなのに、彼女は空を飛んでいて、ゆっくり降りて来ようとしている。
それも、ドゥールのすぐそばへ。
何度もまばたきをしてみるが、彼女が消える様子はない。
ドゥールが呆然としている間に、五メートルと離れていない所に少女は着地した。
もしかして、空を眺めているうちに眠ったのかと思ったドゥールは、足をつねってみる。痛かった。
「あの……」
彼女はドゥールを目指して降りて来た訳ではなかったようで、別方向を向いていた。
だが、恐る恐る声をかけたドゥールの方を振り返る。ドゥールは座ったままだったので、正確には見下ろすような形だ。
「あたしが見えるのね」
そう言って、少女は笑った。
か、かわいい……。
空から降りて来た少女は、肩まであるふわふわの金髪に濃い青の瞳で、とても愛らしい顔立ちをしている。
ドゥールより少し年上だろうか。見た感じは高校生といったところ。
シルクだろうか、光沢のある黒の半袖ワンピースはミニ。色白の彼女が着ると、とても映える。
艶のある黒のショートブーツは、ヒールが少し高め。細くすらりとした足が長く見える。
どきどきしながら、ドゥールは立ち上がった。並んで立つと、背の高さはほとんど変わらない。
「見えるって……あの、どういう意味? 君は天使なの?」
翼もないのに空を飛んでいたのだ、少なくとも普通の人間ではない。
もっとも、天使が現実の存在なのかと問われると、その辺りは何とも言えないのだが。
「ううん、あたしは魔女よ」
少女はにっこり笑う。屈託のない笑顔にどきっとした。
が、一瞬後には首をひねる。
「ま、魔女?」
顔形はともかく、衣装は黒で統一されている。天使のイメージは、どちらかと言えば白だ。
「ええ。と言っても、まだ修行中なんだけどね」
そうか。魔女にも修行は必要なんだ。
ドゥールは相手の言葉に、あっさりと納得する。何の道具もなしに空を飛ぶ人間がいるはずはない、と認識した時点で、人間以外の何を言われても「有り」だと思えた。
……いや、納得しがたい部分が一つ、ある。
「あの、本当に天使じゃないの?」
たとえ身に付けているのが黒い服でも、彼女の姿はどう見ても天使だ。
「あら、天使に見える?」
少女はそう言って、くすくす笑った。その顔は、とても魔女には見えない。
「うん。えっと……あの、俺、ドゥールって言うんだ。きみは?」
「リリよ」
尋ねたところであっさり答えてもらえるとは思っていなかったので、ドゥールは嬉しかった。本当に魔女なら、こんな簡単に教えてくれないだろう。
もしかしたら天使ってことを言っちゃいけないのかも。だから、魔女って言うのかな。
修行中で、あれこれと制約があるのかも知れない。
特に、人間が相手の場合はありえる。
そう考え、ドゥールはそれ以上その点については突っ込んで尋ねるのをやめておく。
「修行って、どんなことするの?」
「んー、色々あるわ。課題がたくさんあって、大変なの」
内容こそ言わないリリだったが、どこの世界も修行というものはつらいらしい。
「俺達の世界でいう学生みたいなもの、なのかな。俺は中学生だけど、覚えることは山程あるし、宿題も山程出るしさ。リリもそんな感じ?」
「うん、そうね。近いかも」
微笑みながら答えるリリは、やはりかわいい。
ドゥールは同じクラスのアイサに片想いしていて、彼女のことはとてもかわいいと思う。でも、同じくらいリリもかわいい。
アイサ以外にそう思える女の子がいるなんて、考えたこともなかった。
「さっき、見えるのねって言ったけど」
「だって、あたしが見えるから、話しかけて来たんでしょ?」
「それはそうだけど……他の人には見えてないの?」
通り過ぎる人や、少し離れた所で遊んでいる子ども達。
他にも公園には人がいるが、誰もこちらには見向きもしない。誰がいようと気にしてないようだ。
中学生の少年が、かわいい女の子と会話をしている。
周りにすれば、その程度。だとすれば、気にしないのも当然だ。本当に見えていないのかは判断できない。
「見える人間と、見えない人間がいるわ。ここには……見えない人間だけのようね」
「じゃ、俺しか見えてないってこと?」
「そうみたい」
そう言われると、ドゥールは何だか自分だけがとても得をしてるような気になった。本当に見えているかどうかなんて、どうでもいい。
こんなかわいい女の子を見られないなんて、もったいない。そう思うと同時に、リリを独り占めしている優越感みたいなものが生まれる。
「ねぇ、リリ。俺に手伝えることがあったら言ってよ」
「え?」
ドゥールの言葉に、リリは小首を傾げる。
「あ、誰の手も借りちゃいけないなら仕方ないけどさ。宿題する時だって、友達とやればお互いにわからないところを教え合ったりできるんだ。修行だって、誰かの力があれば効率よくできることだってあるだろ?」
「ドゥール、手伝ってくれるの?」
「うん。あ、俺は超能力とかないから、あまり特別なことを言われると困るけど」
ドゥールが言うと、リリはまたくすくす笑った。
「まさか。そんなこと、頼んだりしないわ。そうね……」
ほんのわずか、リリは考え込む表情になったが、すぐ笑顔になる。
「それじゃ、ドゥールはいつものようにすごして」
「え?」
言われたセリフの裏に何か別の意味があるんだろうかと思ったが、ドゥールはその「意味」がすぐには思い浮かばない。
「ドゥールが、こうした方がいいんじゃないかなって思うことをしてくれればいいの」
それはつまり、普通にすごしながらも「善いこと」をしてくれ、という意味だろうか。
たぶんそう……なのだろう。他に考えようがない。あっても、ドゥールの頭では考え付かない。人間を善い方へと導くのが、修行の一つということなのだろう。
そう解釈したドゥールは、大きく頷いてみせた。
「わかったよ、リリ。俺、できるだけやってみるから」
「ありがとう、ドゥール」
リリは嬉しそうに笑った。
短い時間ながら、彼女が見せた笑顔の中でも最上級だと、ドゥールも何だか嬉しくなるのだった。