第5話
男は大量に送られてくるメールに頭を抱えていた。
返事を送っても誰も納得しない。当たり前だ、状態が改善されるわけではないのだから。
部屋をノックする音が響き、男は慌ててマスクをした。
「入れ」
「失礼します」
若い男が一枚の紙を持って入ってきた。
「『天使』を捕えたか?」
「いいえ、発見したものの逃げられたようです」
「『女神』の所在は?」
「分かっていません」
状況は何も変わっていない。
「何か進展がないと先生がお怒りになる」
「はい、尽力いたします。あと、これは所在不明者リストです。ご報告までに」
「ああ、悪いな。また何か分かったら報告してくれ」
「はい、では」
『天使』は今何を考えているのだろうか。やはり『天使』を送ったのは間違いだったのだろうか。
考えを巡らせながらリストに目を通し、男はお茶を飲む手を止めた。
見覚えのある名前ばかりだ。男はパソコンで詳細を調べた。
これは偶然だろうか。男は腕を組んで考えた。数時間前に届いた謎のメールには「みんな一緒にいる」とだけ書かれていた。それはもしかして…。
俺の『女神』は自分に味方している。このチャンスを逃さないように慎重に行動しなければ。
美雨は寝ている悟の隣で寂しくカップ麺を食べることにした。
勇紀は自分のことを軽蔑していただろうか。それとも恐れただろうか。
もしかして自分が何者か気づいたかもしれない。もしばれていたら自分はここにはいられなくなってしまう。
でも、みんなの側にいたい。美雨はそう思った。
今の生活は大変だが楽しい。みんなと離れたくなかった。
美雨はカップ麺を食べ終えると悟の寝顔を見つめた。
とても苦しそうな表情をしている。嫌な夢でも見ているのだろうか。
自分と同じように悟も何か秘密を抱えている。美雨はそれに気づいていたが決して聞くことはなかった。
悟は自分の秘密を知っている。だが他の二人に言わないでくれている。そして秘密がばれないように守ってくれていた。
悟のそばにいて苦しみを少しでも楽にしてあげたい。それが自分にできる恩返しだと思っていた。
突然悟の体がビクッと大きく動き、それに驚いたように悟は目を覚ました。
「悟さん、大丈夫ですか?」
「あれ、俺…」
「倒れたんですよ。それで勇紀くんだここまで運んでくれたんです」
「そうだったな。ごめん、迷惑かけた」
悟はそう言って体を起こした。
「まだ休んだほうがいいですよ。あ、それか何か食べますか?」
「いや、大丈夫だ」
「そうだ、飲み物持ってきます」
美雨はそう言って部屋を飛び出した。
飲料コーナーに行き、美雨はミネラルウオーターを探した。
暗くてよく見えない。美雨は目を凝らしてやっと目当てのものを見つけた。
ペットボトルを握りしめて部屋に戻ると悟は顔を上げて微笑んだ。
「ありがとう」
少しは役に立てただろうか。美雨は悟の表情が少し穏やかになったような気がして嬉しくなった。
美雨は黙って悟の隣に座った。
「美雨も飲む?」
悟はそう言って美雨に差し出した。
「わたしは大丈夫です」
「でもしょっぱいもの食べたから喉が渇くだろ?飲んだほうがいい」
「…じゃあいただきます」
美雨はペットボトルを受け取り、一口水を飲んだ。
「そういえばアスカと勇紀は今どこにいるんだ?」
「多分入口のほうで見張りをしてくれてると思います」
「そうか、みんなに迷惑かけたな」
「そんなことないですよ。みんな悟さんを心配してました。ずっと無理してるって」
「そうか、ありがとう」
聞いてみてもいいだろうか。美雨は一瞬ためらった。
「あの…、悪い夢でも見てたんですか?」
「どうして?」
「寝顔が苦しそうだったので」
「ああ、そういうことか…」
悟は視線をそらし、困ったように頭を掻いた。
「そうだな…。過去に色々あって、よく考えるんだ。どうしたら防げたんだろうとか、どうにか変えられなかっただろうかとか。まあ、俺は弱い人間なんだよ」
美雨は悟の言っていることが全く理解出来なかったが頷くことしか出来なかった。
「悪い、忘れてくれ」
「は、はい」
結局また何も出来なかった。美雨はペットボトルを強く握りしめた。
「そろそろ二人のところに行くか」
「はい、そうですね」
悟はそう言って立ち上がり、部屋を出た。美雨も続いて部屋を出ると突然悟が足を止めた。
「どうしたんですか?」
悟は目を見開いて立ち尽くしていた。
何かあったのだろうか。
視線の先を見るとそこには一人の女が立っていた。
母はいつも言っていた。
「わたしの体は人々を救う力を持ってる。だからわたしの娘である美雨も同じ力があるのよ」
幼い時はその言葉の意味が分からなかった。
ずっと母と白くて狭い部屋に閉じ込められていた。そこが世界の全てだった。
何度も外を求めた。母は何度も外に出ていた。それなのにどうして自分だけ出られないのだろうか。
母と一緒にいたい。
部屋に来る人間たちに訴えた。願いが叶うことはなかった。
「いつか美雨にも外に出る時がやってくる。だから大丈夫」
母はそう言って慰めた。だが、それは慰めにはならなかった。
自分は外に出てるじゃないか。自分だけ外に出てるじゃないか。偉そうに。
「美雨、あなたはわたしのようになってはいけないの。だから今は我慢して」
母はそう言って抱きしめた。
「ごめんね。でもいつか美雨は何にも縛られることなく自由に生きるの。それを夢見て今は耐える時よ」