第3話
わたしは家を出て耳を澄ませた。何か聞こえないだろうか。
するとずっと遠くのほうで何人かの足音が聞こえてきた。誰かいる。
わたしは足音のするほうに向かうことにした。
なんだろう、さっきの耳鳴りのあとから頭がすっきりしている。体も軽くなった気がする。
この静かな世界が心地いい。空気も淀んでいなくてきれいだ。
お腹がすいた。わたしはぼんやり思った。何か食べ物はないだろうか。
そんなことを考えていたらまた違う方向から足音が聞こえてきた。さっきの足音よりも騒がしくて数も多い。
せっかくの静寂が台無しだ。わたしは少し苛立った。
足音はこちらにどんどん近づいてくる。そして遠くから人影が見えてきた。
「『天使』を見つけたぞ!」
銃を構えた人間が十人ほどでわたしを囲んだ。
「本部に連絡をしろ!『天使』は五番街にいる」
「『天使』は動かないでください!」
全員わたしを警戒している。わたしが今にも暴れるんじゃないかと思われている。
どうしてやろうか。わたしは考えを巡らせた。このままおとなしくしているか、ここから逃げ出すか。
一人男が銃を構えながら近づいて来た。わたしはその男を睨みつけた。
「ど、どうか…、『天使』様…」
男の手は緊張で震えていた。このままでは極限に達して誤って引き金を引いてしまいそうだ。
小さく耳鳴りが聞こえてきた。その耳鳴りはわたしの眠っていた記憶を刺激した。
全神経を研ぎ澄ませる。そうすれば、ここにいる全員を簡単に倒すことが出来る。
わたしは目を閉じ、大きく深呼吸をした。男が何か言っていたが全く聞こえなかった。いや、声がどんどん遅くなっていったのだ。
ゆっくり目を開けると人間は時が止まったように動かなくなっていた。
さあ、始めよう。
わたしは男の銃を奪い、頭に一発撃ち込んだ。すると男はゆっくりと倒れていった。
物事の動きが全て遅い。周りの人間が撃ってきた銃弾も、何もかも。
耳鳴りはどんどん大きくなっていく。耳鳴りが大きくなるにつれわたしの集中力は高まっていった。
そうだ、わたしはこうやって人を殺してきたんだ。
アスカは肩をすぼめながら歩き続けた。
もう少しでスーパーに着くと言ったものの、なかなかそれが見えてこない。
連日ろくな食事も取らずに歩き続けてみんなの疲れは頂点に達してきている。この状況をなんとかしたかった。
『天使』の捕獲まで時間がない。歩く速度を速めたかったが悟のことを考えるとそれが出来なかった。悟はほとんど寝ていない。夜も寝ないで見張りをしてくれている。初めて会った頃よりも顔色が少し悪くなった気がした。
お願いだ、早く着いてくれ…。
「アスカさん、あれですか?」
勇紀が遠くを指さして言った。勇気が指した方向を見ると見覚えのある建物が見えた。
「そう!あれだよ」
アスカは安心して腰が抜けそうだった。よかった、あった…。
「着いたら少し休憩しようか。悟、いいよね?」
悟は何も言わずに頷いた。
「俺、先に行って様子を見てきますよ」
勇紀はそう言って走り出そうとするのを悟が止めた。
「待て、一人で行くな。俺も行く」
「大丈夫っすよ。悟さんはゆっくり来てください」
「でも…」
「じゃあわたしが行く」
アスカがそう言って手を挙げると悟は驚いた表情をした。
「それならいいでしょ?」
「それでも心配だ」
「誰が行ったって変わらないよ。悟は美雨と一緒に来て」
「…いいのか?」
悟は心配そうにしている。
「心配しないで。大丈夫だから」
「分かった。気をつけて」
アスカは悟に頷くと勇紀を追って走った。
「あ、アスカさんも来たんですか」
勇紀がアスカに気づいて言った。
「俺一人で大丈夫だって言ったのに」
「いいの。こういうものは一人より二人で行動するほうがいいから」
アスカたちは何気ない会話をしているうちにスーパーの駐車場に着いた。車は一台もなく広々としている。
「一応注意して中に入ろう。何かいるかもしれないし」
アスカがそう言うと勇紀は少し笑った。
「何言ってるんですか。まるでゾンビでもいるかのような言い方ですね」
「そんなつもりはじゃないけど、何が起きるか分からないでしょ?」
「『天使』がいたらさすがにビビると思いますけど」
アスカたちは入口から中の様子を窺った。電気が点いていないせいで薄暗く中の様子が分からなかった。
「開けてみますか」
勇紀はそう言ってスライド式のドアに手をかけた。鍵がかかっていると思ったがすんなりドアは開いた。
中に入ると商品が床に散乱していた。野菜は傷んで少し黄ばみ、袋が破れて散乱してしまっているものもある。
「きっとみんな慌てて逃げたんだね」
「アスカさん、俺あっちのほうに行ってみます。きっとお菓子とかあると思うので」
「うん。わたしも行く」
アスカは勇紀のあとに着いていった。
わたしたちは逃げ遅れてしまった。アスカは少し悔しくなった。
こんなはずじゃなかった。今頃わたしはとっくにこの区画から出ているはずなのに。急がないといけないのにこんなことをしている場合じゃない。
その時遠くで何か音が聞こえた気がした。
「何か聞こえなかった?」
「そうですか?」
アスカは耳を澄ませた。銃声の音だ。
「ちょっと外に行く。勇紀はここで食料を探して」
アスカは急いで外に向かった。嫌な予感がする。
「アスカ!」
スーパーを出ると悟と美雨が走ってやって来た。
「銃声だ!近くにきっと『天使』がいる!」
「うん、わたしも聞こえた。でも勇紀がまだ中にいるの」
こんな近くに『天使』がいたなんて。せっかく食料を見つけたのにここを離れないといけない。
遠くからヘリが近づいてくる音が聞こえてくる。もしそのヘリがわたしたちに気づいたら…。
「悟、美雨、やっぱりしばらくここに隠れよう」
「でも…」
「『天使』も危険だけどここで『アンナ』に見つかってもまずい。それならここにいたほうがいいかもしれない」
悟は少し納得がいっていないようだった。
「長居はしないつもり。長くても一時間くらいだよ。だから…」
「分かりました」
美雨はそう言うと一人でスーパーの中に入っていった。
「…そうするしかないか」
美雨を見て悟は諦めたようだった。
「悟は先に何か食べて休んで。わたしはここにいて様子を見る」
「俺は大丈夫だ」
「いいから行って、お願い」
「…分かった。ありがとう」
アスカは小さく頷いて悟を見送った。
『アンナ』は『ユートピア』にいる人間を完全に管理している。その管理下から逃れている自分たちのこともきっと探しているはずだった。そして、もし余計なことを知ってしまっていたらきっと消される。だから絶対に見つかってはいけない。