第2話
わたしは行くあてもなく歩き続けた。
時が止まったように音が何も聞こえてこない。気味が悪いほど静かだった。
家の窓ガラスは割られ、半壊しているものもある。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
何か手がかりがないだろうか。わたしは目に入った家に入ってみることにした。
家のドアをゆっくり開けた。人の気配はない。
家の中は家具が倒れ、服が散らばって散乱していた。ここで何があったのだろうか。
パリンという音が響き、わたしはガラスを踏んだことに気づいた。わたしは視線を落とし、ガラスの破片の近くに落ちていた冊子を拾った。
若い女性が描かれている。その周りには何やら文字が書かれていたがわたしは全く理解することが出来なかった。
わたしは冊子を落とし、家の中を見回した。そして、小さな棚の上に置かれていた鏡に自分の姿が映っているのが目に入った。
長い髪を一つに縛り、目は切れ長で白い頬には炭のようなものがついていた。
この姿、さっき見た冊子の絵の女性に似ている。
ぼんやりそう思った時、突然キーンという耳鳴りが聞こえてきた。
そして、一瞬自分の姿が血まみれになった。
その姿に驚いてわたしはその場に倒れてしまった。
耳鳴りが鳴りやむまでわたしは体を動かすことが出来なかった。
今見えた姿は幻だ。違う、本物じゃない。あんな恐ろしい姿は偽物だ。まるで…。
いや、違う。耳鳴りが収まったとき、わたしは気づいた。
あの姿は本物だ。
悟は辺りを警戒しながら三人の前を歩いた。
町が少しずつ明るくなり、日の出が近いことが分かった。
アスカが言っていた『天使』の確保まで時間がない。自然と悟の歩く速度は速くなった。
「悟!」
アスカが後ろから小走りでやって来た。
「たしかこの道をまっすぐ行った先にスーパーがあったの。そこでもしかしたら食料とか調達できるかもしれない」
「分かった。急ごう」
悟はそう言って後ろを振り返った。美雨と勇紀はうつむきがちに歩いている。きっと寒いからだろう。
「二人とも、頑張ろう」
悟が声をかけると二人とも顔を上げて頷いた。
慣れない。悟は胸のあたりがむずむずした。
もともと先頭に立って人を率いるような人間ではない。だが美雨も勇紀もまだ大学生くらいの年齢だ。アスカは二人より歳が上に見えるがそれでもまだ若い。
三十を超えている悟は自然と先頭に立つようになっていた。
「アスカはこの辺り詳しいのか?」
悟は気を紛らわせようとアスカに話しかけた。
「まあね、でも悟だって”ここ”の住人でしょ?」
「"ここ"の住人だけど、土地勘は全く無い」
「どうして?」
「ここの住人になった初日に『天使』が暴走した」
「あっ…、ごめん」
アスカは察したように黙ってしまった。
「…悟は『天使』を見た?」
アスカが小さな声で言った。
「見たよ、目の前にいた」
「怖くなかった?」
「…どうだろうな。あの時は必死だったからよく覚えてない」
「たしは美雨と一緒だったよね?」
「うん。逃げてる時にたまたま会ったんだ」
「そっか…」
日が昇ったことで辺りが明るくなり、町の状況がよく分かるようになった。
ほとんどの建物は倒壊し、人々は跡形もなく姿を消した。
悟はそれが不気味で仕方なかった。”天使”が暴走した時、明らかに死者が出たはずだ。この惨状で生き残った人はそういない。なのに、死体を見ることがなかった。
それに気づいているのは自分だけだろうか。悟は少し不安だった。
「二人とも大丈夫?寒くない?」
アスカが美雨と勇紀に声をかけた。
「大丈夫ですよ」
美雨も勇紀も上着のポケットに手を入れて寒さに耐えているようだった。
「もう少しでスーパーがあるはずだから、そこまで頑張ろう」
スーパーという言葉に勇紀は大きく反応した。
「え、スーパーがあるんですか?『ユートピア』って」
「当たり前じゃない」
「驚きましたよ。『ユートピア』だからきっとすごいんだろうな」
「もしかして、勇紀も『ユートピア』に来てそんなに時間が経ってないの?」
「そうっすね。ここでの生活の案内を聞いてる途中で『天使』が暴走したので」
「美雨はどうなの?」
美雨は少し体をぴくっとさせ、少しうつむいた。
「わたしも、そんなに長くないです」
「そっかー。じゃあわたしが一番詳しいってことか」
フードをかぶっているせいで表情はよく見えなかったが、少し怯えているように感じた。
『アンナ』は"『ユートピア』を創った。そこで人々は幸せに暮らせると広告で載っていた。
人々は『ユートピア』での生活にあこがれた。
『ユートピア』に行けば自由になれる。幸せになれる。何不自由ない生活を送ることができる。
様々な想いを『アンナ』は受け入れ、『ユートピア』はどんどん大きくなっていった。
だが、『ユートピア』に一度入ったら外に出ることはほとんど許されない。『ユートピア』の外にいる人たちと連絡を取ることも会うことも許されない。だから"ユートピア"を望まない人々にとっては未知の領域だった。
それと同時にその謎に包まれた存在が『ユートピア』をより魅力的にさせた。
悟は『ユートピア』に魅力を感じたことはなかった。だが、悟は『ユートピア』を望んだ。
家族を捨ててでも会いたい人がいた。その人はきっと『ユートピア』にいる。
悟はそう信じていた。