近藤 勇 玄武編
近藤勇が追い詰めたのは、凶暴な大男であった。
水戸脱藩浪士河西重蔵。
この男に新撰組隊士が三人、斬られている。
(まあ、平隊士では、この男に勝つのは無理であったろうな。可哀想な事をした… )
敵と相対し、その実力を見極める事は、近藤にとって造作もない事である。またそれは、この混沌とする京の治安を護る者として、必要不可欠な能力でもある。
「京都守護職会津中将松平容保様御預かり新撰組局長近藤勇である。不審の儀あり、我が屯所まで同行願いたい」
近藤の声は低い。穏やかと言ってもよい。だが命令する事に馴れた者のみが持つ威厳がある。
近藤の名を聞き、重蔵の顔が歪む。恐れ怒り嘲り、それらが混じる感情が面に浮かぶ。犬がっ!唸る様に声をあげ、刀を抜く。
素直にこちらの言葉に従う筈もない事は、近藤にも分かっている。ただ新撰組局長の職務として、言わなければならない台詞を言ったにすぎない。強い男と剣を交え、斬り伏せたい、これが近藤の本音である。
無論、この男に斬られた隊士達の仇討ちという意味も大きい。
近藤は見事な所作で抜刀する。その手に握られた名刀虎徹は、月の光を浴び、その凄みを浮き上がらせる。
「従う気が無ければ、それでもよろしい。今宵も虎徹は血に飢えている。むしろ礼を言わねばならぬな」
重蔵は目をギラリと光らせ、飛び退がり構えをとった。
ほうっと感心した様に近藤は重蔵を見る。
近藤は、重蔵がその体格を生かす為に大上段に構えると思っていた。しかし近藤の予想に反し、重蔵は下段の構えを取ったのだ。
近藤はこの男に斬られた隊士の遺体を思い出していた。二人は胴を真っ二つに斬られ、一人は胴を斜めに斬り上げられていた。
なるほどな、と近藤は納得する。
おそらく三人が三人とも、重蔵の面に向かって斬りかかったのであろう。下段に構えた相手は当然、顔面がガラ空きになる。そこに斬りかかりたくなるのが、人情だ。だが、そこに罠がある。
重蔵はその膂力を生かし、自分の面を狙ってくる刀を下段から一気に跳ね上げ、逆にガラ空きになった相手の胴を勢いのまま斬ったのであろう。斜めに斬り上げたのは、隊士が身体ごと跳ね上げられたため切り口が、斜めになったのだ。恐ろしいまでの膂力といえる。
近藤は青眼に構えた。何も細工をせず、ただ自然体に構える。その瞬間、近藤の思考は止まる。
雑念を捨てれば、自らの肉体が状況に応じて変幻自在に動く、そんな事は、腕の確かな剣士であれば、誰でも知っている。しかし命のやり取りの中で、それを実践出来る者は、ごく限られる。
戦いの際に、自らの命すら意識の外に置く、近藤は容易にそれをやってのける。
まさに新撰組局長の真骨頂と言えた。
近藤は、間合いを詰める。極限まで無駄を省いた見事な足捌きである。その勢いのまま虎徹は、重蔵の面に襲いかかる。
その瞬間、思わず重蔵はほくそ笑んだ。新撰組局長もこの程度か。平隊士と同じくあっさりと罠にかかりおった、虎徹を跳ね上げてやる、と思ったのと同時。
重蔵は絶命していた。
重蔵の思念より早く、虎徹は重蔵の額を割り、重蔵は顔面から大量の血を吹き上げていた。
神速。
そうとしか言いようの無い近藤の太刀筋であった。重蔵は、自らが斬られた事を自覚する間も無かったのだ。
「河西重蔵、残念であった」
近藤、虎徹を鞘に収め重蔵の遺体に語りかける。
「新撰組局長の力、見誤った、な」
さて、別の敵を追った歳三と総司は、事を済ませたのだろうか?と近藤が踵を返そうとした時、血塗れの重蔵の亡骸が獣の様な咆哮をあげた。
未だ血を吹き出している重蔵の亡骸が、よろめく様に立ち上がる。
人間の体内には、こんなにも大量の血液が含まれているものなのか、その血飛沫が別の生き物の様に蠢き、それに導かれるように亡骸も蠢く。
亡骸と血が混じり合い、やがてそれは、人とは思えぬ姿と化していく。
「やはり妖魔に取り憑かれていたか…」
河西重蔵であったそれは、完全に姿を変え、巨大な昆虫、蟷螂の様な妖しげなモノになっていた。
近藤は摺り足で間合いを取る。再び虎徹を抜く。
(さて、この化け物は虎徹で斬れる、かな?)
近藤は、可笑しくて堪らぬといった表情をしている。幼子が新しい玩具を見つけた時、こんな表情をするかもしれない。
(虎徹、参るぞ!)
その時。
「近藤様、お待ち下さい」
いつの間にやら、近藤の左斜め後ろに控える人影。
それは、闇の色の衣を纏った美女であった。