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韓国の対日感情(ルーツと最近の動き)

作者: 板堂研究所(Bando Research Corporation)

 I. 概観


韓国では、慰安婦や徴用工の問題を含め、あたかも「反日」が政治的に正しいかの様な印象を受けるが、その理由につき考察すれば次の通り。


1.先ず韓国人から見れば、朝鮮半島を取り囲む日本列島は、太平洋への直接的なアクセスを阻み「開放感」を奪う地形であり、特に海軍・海上安全、海運、漁業関係者を含め、日本は邪魔な国に映るだろう。また韓国の地図を眺めながら日々仕事をする韓国の首脳や政治家も同じ思いに違いなく、先ず歴史から離れた次元で日本を疎ましい目で見がちだろう。

  日本人はこの不可避な地理の問題を理解し、日韓関係の計算式に常に入れるべきであり、またその方が中長期的に日韓関係は安定するだろう。


2.更に日本は、古代から文化・文明的な「下流」にあるとの認識が韓国にありそうで、次の通り。


(1)日本は、北東アジアの辺境にあるので、北方民族が日本に流入する際、朝鮮半島が経路となった筈である。例えば日本の古文書を開けば、スサノウノミコトは、朝鮮半島から出雲の地に牛頭天王として渡来したとの逸話が残っており、古代の出雲が政治の中心地になったのも、朝鮮半島からの渡来人の力によるのだろう。天皇家の祖先も、場合に寄り朝鮮半島から来た可能性があろう。

 また漢字、そして仏教や仏教美術、儒教、陶芸等の重要な文物が日本に伝わったのも、先進地域たる朝鮮半島を経由したと言われている。


(2)これに対し日本人は、北方系、南方系の双方が入り混じっているので、そこまで単純な話ではないと捉えていよう。また最近、日本語のルーツに関し、紀元前2600年~前1900年のインダス文明に遡り、また地中海のクレタ島で繁栄したミノア文明でも日本語の祖語を話していた形跡があり、この様な日本語民族が青銅器文明を東アジアに伝え、漢字の形成に寄与したものと見られる。天皇家に関しては、祖先が例え朝鮮半島を経由して日本に渡来したとしても、出発地は遥か古代メソポタミアではないか、との主張も成立しそうである。

 なお仏教等、重要な文物の伝来は、遣隋使、遣唐使等の成果が大きく、百済観音等は有名であるものの、中国から直接輸入したものが多いとの見方もあろう。


3.16世紀末、豊臣秀吉は朝鮮出兵を行い(文禄・慶長の役)、これは明が介入し、秀吉が死去し、失敗に終わった。19世紀後半になると日韓両国の軍事力は逆転し、日本はそれを利用して李氏朝鮮に開国を強要し、不平等条約を締結させた。またその後の日清・日露の両戦役とも、日本が中国やロシアとの間で、帝国主義的な発想から朝鮮半島における覇権を争い、勝者となった日本は、1910年、朝鮮半島を植民地として併合するに至った。

 朝鮮半島は、その後の日本の満州等、大陸進出の拠点となり、第二次世界大戦中も日本の植民地だった。日本は敗戦にも拘わらず、ドイツの様な国家の分断を免れたが、朝鮮半島は連合国の都合により南北に分断される結果となり、朝鮮戦争を経て21世紀に入りなお未統一であり、民族の悲劇が続いている。


4.第二次大戦末期、米国等の連合国は、日本の領土を基本的に日清戦争以前まで戻す発想で、ポツダム宣言やサンフランシスコ平和条約等の基本文書を起草したものと見られる。

 ついては韓国でも、この様な「1894年まで遡り日本の帝国主義の被害を是正する」問題意識が一般的となり、日本に対し、日清戦争以降の累積的な人的・物的・領土的そして精神的な犠牲や被害、また屈辱感への補償を求める発想が一般的となったのではなかろうか。日本が1905年に領土とした竹島に対する要求もその一環に違いない。


5.サンフランシスコ平和条約に関しては、第2次大戦当時、日本と交戦状態にあった連合国との間の平和条約であり、朝鮮半島は日本の植民地であり、交戦状態には決してなかったので、韓国は同条約の当事国ではない。

 しかし第21条(中国及び朝鮮の受ける利益)の規定により、韓国はその反射的利益を受けている。具体的には第2条(領土権の放棄。朝鮮を含む)、第4条(放棄された地域の財産管理)、第9条(漁業協定)及び第12条(通商航海条約)であり、1965年の日韓基本関係条約の前文にも「サンフランシスコ平和条約の関係規定を想起し」との趣旨が明記されている。

 すなわち韓国は、その独立を含め、第2次大戦で連合国が日本に勝利した事の反射的利益を受けており、その内容を米国等の連合国が担保している事を常に意識しているだろう。

 従って日韓間で大きな問題が生じる場合には、いまだに米国等の連合国を頼りにする傾向があり、米国等も「朝鮮民族を解放した」との達成感から好意的に応じる傾向があるのかも知れない。(このため日本から見ると、何故米国等が、常に韓国の味方をしようとするのか、理解出来ない場合があろう)

 また韓国が、日本の戦後処理や戦争責任について求める補償は、基本的に第二次大戦の際、あたかも韓国が連合国の一員だったかの様な立場を取るのだろうが、背景として働く「民族的な恨み」は年数的にそれを遥かに超え、日本の統治時代を更に遡り、19世紀半ばの李氏朝鮮や大韓帝国の時代まで遡るのかも知れない。


6.根強い反日感情が解消されるまで、予想外に長い年月が必要と見られる。今年2019年3月1日には、1919年3月1日、朝鮮半島の反日独立に向けた「3.1運動」の100周年を記念する式典が大統領出席の下に開催された。

 反日運動は、南北隔たりのない民族的キャンペーンであり、南北共通の問題意識に基づいて共同歩調をとり、南北協力促進、朝鮮戦争終結、また将来的な統一に向けて士気を高める縁また象徴となってきた。

 韓国の民間ビジネスマンや一般国民ならともかく、政治家は、この様な不幸な両国間の歴史に基づき「積もる恨み」から反日を主唱するのが「正しい態度」とされる事が彷彿とする。


7.国際法的には、徴用工の問題を含め、全ての請求権の問題は、1965年の「日韓基本条約」に付随する「日韓請求権・経済協力協定」において、日本政府からの多額の経済協力と引き換えに「完全かつ最終的に解決された」ことが両国間で確認されており、それに関連する紛争の処理は、外交で解決する事、うまく行かない場合には仲裁により解決する事とされている。

 因みに徴用工に関し、韓国では、1965年の枠組による最終的な問題解決と法的整理にも拘わらず、今度は司法府の判断に基づき、支払い能力のありそうな関連企業から補償を求めている。関連企業がこれに応じないので、韓国現地法人の株式を差し押さえ、これを換金して充当する姿勢を示している。日本は、1965年の枠組みに基づく紛争処理を発動させる為、日韓外交当局間の協議を求めているが、先方は今のところ応じる姿勢を示していない。


8.「日帝協力者」に特有の問題


(1)戦時中、日本の募集に応じ、あるいは徴用された韓国人の場合、終戦後、祖国帰還後の状況も複雑だったに違いない。

 例えば慰安婦が、故郷に帰還した場合、日本の植民地だった故郷は様変わりし、1945年8月の終戦と共に米軍の一時的な統治に入り、1948年に大韓民国として独立を回復している。従って彼女らは、旧宗主国日本の軍隊のために就業していた構図となってしまう。

 すると独立後、反日感情を露わにする周囲の韓国人から「貴女方は、結局、日帝協力者であり、裏切り者ではないか」との誹りを受けた可能性があろう。

 徴用工の場合も、基本的に同様かと考えられる。


(2)精神疾患の可能性


 誹謗中傷が続くと、それは執拗なイジメと化し、不幸にも精神障害を招くケースも多かっただろう。そして日本に補償を要求する際にも、その様な精神症状が反映されただろう。元慰安婦問題の場合、次の通り。


(ア)1965年の日韓基本条約の枠組みにより、全ての請求権問題は完全かつ最終的に解決されたにも拘わらず、日本は人道的観点から誠意をもって対応してきた。1995年にアジア女性基金を設立し、総理の手紙と共に、見舞金等を支給する事業を立ち上げた。しかし受け取りを拒否されたケースも稀ではなかった由。


(イ)韓国は、日本政府の資金でない等の理由を挙げ、あくまで日本の対応が不十分としている。しかし基本的に日本の善意に基づく対応にも拘わらず、形式的な理由で拒否する理不尽さ、また長年、一向に日本の立場や姿勢に理解を示そうとせず、次々と要求を突きつける頑迷な態度は、理解を超える。


(ウ)しかし元慰安婦たちの戦時中の激烈な体験と、「日帝協力者」として帰国後、執拗なイジメに遭った可能性にまで想像力を働かせれば、その結果、不幸にも慢性の精神病に至ったケースも多くあるに違いない。すると日本に補償を要求する場合にも、その精神症状が表れ、強く反映されたに違いなく、それが韓国の要求の「理不尽さ」の根底にあるのかも知れない。


(3)この様に宗主国日本の募集に応じ、又は徴用されて戦後、祖国で精神障害に至った場合、これは当人の人生に大きく悪影響し、就職の機会や生涯所得の重い制約となったに違いない。

 従ってこの様な被害者は、韓国の福祉制度の下、失業手当や年金収入だけでは生活に困りがちで、日本に対して何回も補償や謝罪を要求する行動パターンに陥り、韓国の司法府や政府も事情を察し、同情的なのだろう。



9.北朝鮮の核武装


 以上に加え、不幸なことに北朝鮮の核保有が、問題を複雑化させている。


(1)2016年9月、北朝鮮が核実験を行ったのに際し、韓国の首都ソウルでも誘発地震に揺れた。この時点で韓国では、北朝鮮が核兵器を手に入れたものと実感したに違いない。爾来、国内で北朝鮮の脅威認識が強まり、宥和政策に転じざるを得なくなった。当時、対北強硬政策を打ち出していた朴槿恵大統領は2017年前半に退陣に追い込まれ、宥和的な文在寅政権が成立した。


(2)北朝鮮は、2017年9月にも核実験を行い、水爆実験に成功したと称している。これに対し米国主導の国連安保理決議により、厳しい経済制裁が北朝鮮に課された。平昌冬季五輪をきっかけとして南北対話や米朝首脳会談が成立したが、2018年夏、米中貿易戦争が激化して以降、中国が北朝鮮に対して、米国の要望に応じ、本気で非核化圧力を加える気配はなくなり、非核化問題は中長期化している。


(3)この様な中で韓国は、南北対話を続けながら増々北寄りの政策を追求するようになり、その一つの帰結が、対日関係の複雑化と見られる。最近、歴史認識問題に関し、北朝鮮は、韓国と共同戦線を張るかの様な協調姿勢を打ち出し、韓国も、核兵器を持つに至った北朝鮮が精神的な支柱であるかの様な姿勢を取り、徴用工の問題をはじめ、対日強硬姿勢を打ち出している印象である。


(4)その結果、日本と朝鮮半島の南北両国、また米国との間では(数学的な記号を少しルースに用いれば)次の様な関係が成立していよう。


(ア)日韓関係(t)∝ 1/南北関係(t-1)


 非核化が進まぬまま南北関係が進展すると、日韓関係が複雑化しよう。


(a)韓国は、南北関係が安定すればするほど、南北融和政策に拍車がかかり、北朝鮮の核がまるで「朝鮮民族の核」であるかの様に振る舞い、対日姿勢が強硬たり得るだろう。


(b)日本では、非核保有国としてNPTに加盟した経緯があり、すぐ近隣の旧植民地たる朝鮮半島にて、核保有に至った展開を複雑に受け止め、また韓国が北朝鮮の核に便乗しているとの印象を受ける場合には、これに強く反発するだろう。



(イ)米朝関係(t)∝ 日韓関係(t-1)


 日韓関係が悪化する場合、日米韓3国の連携が損なわれるので、米国は、北朝鮮との非核化交渉を進める上でマイナスと考え、米朝交渉に関し、暫く後ろ向き足り得るだろう。



10.南北双方を俯瞰すべし


 従って日本は、北朝鮮の非核化交渉の推移を踏まえながら、朝鮮半島全体を俯瞰しつつ対韓政策を練るべきだろう。追加的理由として次の通り。


(1)韓国の司法府は、そもそも左翼的であり、反日的と見られる。然るに韓国では政権関係者を含め、司法府の意向に逆らうのは、個人的不利益に繋がりかねず得策でない、との意識が強く、日本から何を言われても自国の司法府の方がはるかに怖いので、応じようとしないのだろう。


(2)北朝鮮の核保有に伴い、南北の政治力は、急激に北朝鮮に有利に変化した。それでも2018年の平昌冬季五輪以来、南北及び米朝の対話路線が定着し、韓国では楽観ムードが広がった。しかし昨年夏以降、米中貿易戦争が激化し、露骨に中朝両国が接近。また今年2月の第2回米朝首脳会談が物別れに終わった結果、先行き不透明感が増し、現政権に対する支持率も下落している。  

 今までしばらく南北・米朝対話が順調に進んでいた。然るに朝鮮戦争の際、特需を享受して高度成長を成し遂げ、今も平和であり、北朝鮮に対する「宥和路線」に懐疑的な日本は、韓国にとり格好のはけ口だったのだろう。他方、今年に入り、先行き不透明感が増す中で、文政権は、天皇の交替による気分一新をも予期し、一つの活路として、日本との関係改善を検討する可能性があろう。


(3)文大統領は、北朝鮮の非核化は、終戦宣言や経済制裁の段階的な緩和とひき替えに実現させるのが現実的との認識だろう。他方、日本が瀬取り防止等、経済制裁の徹底に熱心で、より強硬と見られる理由、更に目立たぬ形ながら、米国の姿勢柔軟化に少なからず貢献した事を良く理解すべきだろう。


(ア)日本は、韓国や米国と比べても、ここ数年にわたる日本海方向のミサイル発射や余震をもたらす累次の核実験の結果、国民的ストレスの点で最も重大な被害国。北朝鮮を巡る情勢は一頃と比べ遥かに沈静化しているが、非核化が進まぬ結果、北朝鮮が潜在的な脅威である事に基本的変化はない。このまま北朝鮮の核保有が既成事実となれば、日本として、北東アジアの安全保障環境の重大な変化と判断せざるを得ない。


(イ)日本の拉致被害者の家族会が中心となり、日米の首脳に対して拉致問題の早期解決を何回も直訴しながら、人権・人道主義を訴えた。これが結果的に北朝鮮の核・ミサイル問題に関し、平和解決路線が定着するのに、少なからず貢献した。これは紛れもない事実であり、韓国は、その反射的利益を享受する結果となったので、良く認識し、正しく評価すべきだろう。



11.日韓関係改善に向けて



(1)徴用工の問題をきっかけに、日韓両国の間で、国際約束の地位が、明白に異なる事が浮き彫りになっている。すなわち日本では、国際約束を至上とし、日韓基本条約の枠組みは、司法府をも縛るとするのに対し、韓国では、この枠組みは、両国政府を縛るだろうが、個人の請求権については、司法府の判断を尊重すべしとしており、司法府の判断が国際約束より上にあると言わんばかりである。


(2)日韓基本条約と請求権・経済協力協定の枠組みが成立した経緯を振り返れば、個人の請求権を全て正確に把握し、積み重ねようとしても無理なので、日本が韓国に対して一括して支払う金額を定め、経済協力の形で提供する事とされた。それを受け取った韓国政府が、転じて韓国民に支払う方式である。これをもって請求権の問題は、完全かつ最終的に解決されたものとされた。

 従って韓国の司法府が、個人の請求権を認めたのは、日本から見れば2重払い請求そのものである。


(3)しかし韓国の司法府の判断は、元慰安婦の問題に対する憲法裁判所の判断に続き、個人の更なる救済を求めるものであり、韓国社会そして政府部内の最近の空気を反映していよう。

 背景には「1965年当時と今の日本とでは、明らかに支払い能力に違いがあり、更に請求して然るべし」との基本認識があろう。すなわち日本は、毎年90~100兆円にのぼる予算を組む国であり、来年は大変な資金を投じて2度目の五輪を開催する国。個々の企業から少人数の個人に対する100万~1000万単位の支払いならば、一種の所得再分配であり問題なく認められるべし、との問題意識があろう。


(4)他方、韓国は「北朝鮮の核は、民族の核」とばかりの態度で、旧宗主国日本に迫っていた印象であり、結果的に日本で強い反発を呼んだのだろう。


(ア)北朝鮮の核保有を背景に、2018年の平昌冬季五輪をきっかけに南北対話が開始され、複数回の南北首脳会談を経て、南北関係は、ますます安定し、協力的なムードが半島を支配。従って最近の韓国の対日政策は、北朝鮮の問題意識を強く反映していよう。


(イ)北朝鮮は、核・ミサイル問題に関し、非核化を通じて中長期的に解決すべき問題と米国等に認識され、平和解決路線が定着するにつれ、将来的な日本との国交正常化、そして(請求権問題解決の為の)経済協力を期待するに違いない。


(ウ)2019年が、韓国では3.1運動100周年、日本では「平成」から「令和」へと移行する年である事。


(5)日韓請求権問題をも解決した1965年の枠組みは、厳然として存在するが、元徴用工について韓国の裁判所で支払いを命じている金額が限定的である事に着目し、日韓関係がこれ以上紛糾するマイナス面を勘案し、外交的配慮からソフトランディングの方向で検討すべきだろう。

 その際に参考になるのが、あるいは大阪のG20首脳会議の直前に文大統領が出した「共同基金」構想であり、日本が貢献する場合には、法的義務ではなく、人道的配慮から自主的に行うべきだろう。財源としては、例えば最近解散された、元慰安婦の為の日韓共同基金の残額(5億円と言われる)を当てる事も視野に入るだろう。




 II. 歴史



 1.李氏朝鮮の開国



(1853年 ペリー、浦賀に来航)

(1854年 日米和親条約締結、日本の開国)


 1863年 李氏朝鮮で高宗が即位、大院君(高宗の父)による摂政。(鎖国・攘夷政策)


(1868年 明治維新)


 1871年 米国の艦船が江華島を砲撃

 1873年 大院君失脚、閔妃(高宗の妃)派の政権が成立。


 1875年 江華島事件

(日本の艦船が釜山で艦砲演習を行い、2回にわたり挑発行動。この後、3回目の挑発行動で砲台を破壊。この後、閔妃派の政権に開国を要求)


 1876年 日朝修好条規(江華条約)締結、釜山・元山・仁川開港。日本に領事裁判権。その後、関税自主権を剥奪、開港場での日本の治外法権を設定。


[この後、開化政策が展開した。明治維新を参考に留学生を多数、日本に派遣し、日本から教官や技術者を招聘。事大党(清朝への依存を主張)と独立党(親日的)が結成され、対立を深めた]


 1882年 壬午軍乱

 (大院君が日本公使館を焼き討ちにし、閔妃派を攻撃。清が大院君を捕らえ、勢力増大へ)


 1884年 甲申政変

(独立党の急進派、金玉均が日本軍の支援を得ながらクーデターを敢行し、権力を掌握。清との従属関係の廃止等、様々な改革を発表。しかし清が軍事介入したため、クーデターは失敗。金玉均は日本に亡命)


 1885年 日清間で天津条約を締結。

(両国とも朝鮮から一度撤退し、再度出兵する際には相互に予告する)



 2.日清戦争



 1894年2月 「東学農民運動」(甲午農民戦争)

(李氏朝鮮の要請を受けて清が出兵し、日本も出兵したが、暴動鎮圧後も両軍は残留)


 1894年7月 日清戦争の開戦。

(朝鮮半島に残留した日清両国海軍が衝突した事がきっかけ)


 1894年8月 日本の大鳥公使、景福宮より(日本への警戒感を高めていた)閔妃政権を追放、大院君を担ぎ出し、金弘集を首班とする親日政権を樹立。


 1895年4月 下関で講和条約締結。

(朝鮮半島に関し、清国は朝鮮国の独立を認めた。日本の内政干渉が強くなり、高宗や閔妃の勢力がこれに対抗し、ロシアに接近)


 1895年7月  閔妃、ロシアの助力で政権を奪還。


 1895年10月 閔妃が景福宮で暗殺される。(日本の三浦公使の関与説あり)


 1896年2月 親露派がクーデターを起こし、朝鮮の政権幹部を殺害。


 1897年10月 李氏朝鮮の高宗、国号を「大韓帝国」として皇帝に即位。



 3.日露戦争



 1895年 三国干渉

(日清戦争後の下関条約により日本に割譲された遼東半島に関し、ロシア、独、仏が清に返還するよう勧告し、日本はこれを受け入れた)


 1898年 ロシア、清と密約。

(旅順、大連を租界にして艦隊を駐屯させ、軍事拠点とする)


 1900~01年 中国で義和団事件。

 (ロシアは満州に派兵、その後も撤兵せず。また朝鮮半島北部の買収を進める)


 1902年 ロシアの南下政策に呼応し、日英同盟が成立する。


 1904年2月6日 日露,国交断絶。大韓帝国は局外中立を宣言。

 2月8日 日本の旅順口攻撃により日露開戦。


 1904年2月23日 日韓議定書の調印。

(日本の軍事力を背景に、内政干渉や日本軍の駐留が認められた。日本第1軍は北朝鮮の西海岸に上陸し,北進。朝鮮半島北部で日露が戦闘,日本軍は漢城を制圧)


 1904年3月 日本はソウルに韓国軍司令部を設置。


 1904年8月 第一次日韓協約成立。

(財政と外交の顧問に日本の推薦者を置くことを定めた)


 1905年1月 日本政府は閣議で竹島を本邦所属とし、島根県の所管とした。


 1905年9月 米国の仲介で日露 (ポーツマス)講和条約締結。

(朝鮮半島に関し、ロシアは大韓帝国における日本の卓絶なる利益を認め,日本が同国で指導や保護の措置を執るに際し,干渉しないことを約束)



 4. 韓国併合



 1905年11月 第二次日韓協約(日韓議定書)成立。

(朝鮮の外交権を日本が接収し、統監を京城に設置したので、事実上の保護国となった)


 1907年7月 日本は高宗を退位させた。第三次日韓協約の成立。

(日本の統監が高級官吏の任免権等を掌握)


 1909年10月 伊藤博文、ハルピン駅で安重根に暗殺される。


 1910年8月 韓国併合条約調印。朝鮮総督府の設置。(李氏朝鮮が消滅)



(1)日露講和条約の締結を踏まえ、日本は韓国を保護領とする方針で伊藤博文を派遣して交渉し、1905年の日韓議定書により韓国は外交権を日本に委ね、日本はソウルに統監を置くこととした。初代統監には伊藤博文が任命された。


(2)韓国の皇帝は、密かに露,英,米,仏等の支持を得て韓国の主権を回復しようと画策したが、露見。怒った伊藤統監は、大韓帝国の皇帝や首相に対し、戦争への挑発たり得るとの強い調子で非難し、また日本政府に対して外務大臣の訪韓を進言。日本の外相のソウル訪問が予定された。ここで韓国側は最終的に折れ、1907年に皇帝は退位し、皇太子に地位を譲った。


(3)安重根、1909年に伊藤博文をハルピンで暗殺。その翌年,大韓帝国は日本に併合され,1392年の太祖(李成桂)による建国以来の李氏朝鮮が消滅した。



 5.第一次世界大戦



 1914年 第一次世界大戦の勃発


 1918年1月 米国のウィルソン大統領、議会演説で平和に向けた「14か条」を提唱。植民地の取り扱いに関し、民族自決の原則を謳ったとされる。


 1918年11月 第一次大戦、終結。


 1918年12月 李承晩等、連名でウィルソン大統領宛て請願書を送付し、民族自決の原則を朝鮮半島に適用するよう嘆願。


 1919年1月 高宗、死去。国葬が3月3日と定められる。


 1919年3月 朝鮮半島で独立を訴える三・一運動。

 (独立宣言書の朗読、大規模デモ、行進等。ウラジオストク、上海、杭州でも展開。日本の武力弾圧による犠牲者7500人、逮捕者47000人)


 1919年6月 ベルサイユ条約調印

 (日本は日英同盟に基づき、ドイツに宣戦布告し、ドイツの中国や南太平洋における権益や支配地域を攻撃し、戦勝国としてパリ講和会議に臨んだ。そして手中に収めた南太平洋の島々や山東半島等、ドイツの旧権益について会議で承認を得る結果となった。なお朝鮮半島に関し、民族自決適用は実質上、議論されなかった)



 6. 第二次世界大戦



(1)日本の植民地であり、侵攻の対象にあらず


(ア)朝鮮半島は1910年に日本に併合されたため、1931年の柳条湖事件に端を発する満州事変,1937年の盧溝橋事件に端を発する日中戦争,そして1941年の真珠湾攻撃に端を発する太平洋戦争の間,常に日本の一部だった。従って第2次世界大戦中は朝鮮総督府の統治下にあり,当然日本軍の侵攻を受けていない。


(イ)第二次世界大戦当時の朝鮮半島は、日本の華北侵攻の基盤となったが(1945年夏に沖縄が陥落する頃まで)連合国の爆撃等の被害にも遭わず,基本的に平和な状態が保たれていた模様。


「さて,朝鮮は日本内地が被ったような苛烈な空爆もなく,また異民族地域という特殊の環境にありながらも,日本内地に比して,多分に,平静が保たれていた。そしてそれだけに,朝鮮に対する中央一般の期待も大きく,総督府は差し迫ったその内地の要請に応えなければならなかった。」


(注)出典:財団法人 友邦協会* 朝鮮史料編纂会

 昭和37年12月20日発行

 朝鮮近代史資料 朝鮮総督府関係重要文書選集(7)

 太平洋戦下の朝鮮(4)

(朝鮮総督府予算「食糧」関係重要文書修編)近藤釼一編


(*中央朝鮮協会が戦後,改変を経たもの。)



(ウ)上記事態の背景には,米軍の爆撃機の航続距離や補給問題などの制約が指摘されよう。


(a)1944年4月,蒋介石率いる中国(国民党軍)は米国の要請を踏まえ,成都に飛行場を完成させ,同年6月,そこから米軍爆撃機が九州を10回にわたり襲撃した。しかし兵站や航続距離の問題があり,それ以降は太平洋からの出撃に切り替えた。


(b)1944年夏,米軍はマリアナ諸島を陥落させ,同年11月そこから本土爆撃を開始した。しかし朝鮮半島は更に遠方に位置し,また本土の港湾設備,空港,軍需工場等の攻撃目標の方がはるかに重要だったので,航続距離の制約の大きい当時の爆撃機による明確な攻撃目標とならずに済んだに違いない。


(c)フィリピン諸島も,場合により米軍の本土爆撃の発進基地となる可能性があったかも知れないが,日本の軍隊が1942年4月に陥落させてから軍政が続き,米軍の再侵攻は,1944年10月のレイテ上陸に端を発した。首都マニラを擁する最北の島ルソン島は,1945年初に米軍が上陸したが,同年8月に日本がポツダム宣言を受け入れて降伏するまで戦闘が続いた。従ってその間,米軍がフィリピンから朝鮮半島を爆撃するのは現実的でなかったに違いない。


(d)但し1945年夏に沖縄が陥落してから,朝鮮半島も爆撃等の対象となった模様。


「6月25日には,沖縄本島が米軍の手にゆだねられてから,米軍機による本土空襲ははげしくなり,朝鮮全土も米軍の制空権内に入り,米軍の水上機とB29は,朝鮮南海沿岸にも来襲した。7月4日に,大田地区の鉄道施設が爆撃をうけ,7月31日には清川江の鉄橋が爆破された。7月中旬以来8月6日の間,清津・羅津・雄基にB29が飛来して,港内に機雷を投下していた。」


(朝鮮終戦の記録(森田芳夫著 厳南堂 昭和39年8月15日 

 第一刷発行)



(エ)その後1945年8月8日に,ソ連が対日宣戦布告し、同9日には満州に攻め込み、朝鮮半島の北部から侵入した。

 8月14日に日本がポツダム宣言を受け入れ、その後米ソ間の合意により,ソ連軍は朝鮮半島の38度線以北,米軍は38度線以南にて、日本軍の武装解除を行った。


(オ)中国における日本の戦争犯罪に関しては東京裁判(1946~48年)の審理の柱の一つとなり決着がついているが上記経緯から朝鮮半島(現在の韓国、北朝鮮)で,仮に何らかの戦争犯罪があったとしても、東京裁判では審理の対象となっていない。

 また韓国は日本との交戦国ではなかったので,1951年のサンフランシスコ平和条約の当事国ではなかった。そして1965年に日韓基本条約及び経済協力等に関する協定が締結され、初めて戦後賠償等に決着を見た経緯がある。



(2)本土に準ずる住民の動員


(ア)労働者


 1937年に日中戦争が始まると翌年、国家総動員法が制定され、1939年7月に、同法に基づく国民徴用令が日本の内地で実施されるようになった。

 なお当時、朝鮮半島出身者は、まだ徴兵の対象でなかったところ、炭坑や鉱山で,徴兵された日本人労働者の補充のために同年8月、「半島人労務者の移入に関する件」が発令され、8万5千人までの募集が許可された。

 国民徴用令が朝鮮半島にも適用されたのは1944年8月である。


(イ)兵員


 1938年に陸軍特別志願兵令が公布され、朝鮮半島からの志願兵制度が実施された。その後、徴兵制が同半島で1944年度から施行された。


(ウ)従軍「慰安婦」


 慰安所は満州事変の翌年,1932年に上海で初めて設置され,1937年の日中戦争開始後,飛躍的に増加したと見られる。従って1944年に国民徴用令を朝鮮半島でも適用した事とは無関係だろう。


(a)第二次大戦末期まで、朝鮮半島は基本的に平和な土地だったので、同半島出身の「慰安婦」に関しては、とにかく平和な祖国で集められ、戦地だった中国等へと移動させられたことになる。その場合、当時の日本軍が暴力的に人さらいの様なことをしてしまったら、大騒ぎになり、朝鮮総督府をはじめ日本人関係者と現地住民との関係が険悪になり、植民地統治上の大問題となるに違いないので、それは原則的には避けたに違いない。


(b)この様な環境の下で、日本の軍関係者に依頼された現地業者が先ず目をつけると思われるのは、まず水商売系のプロだろうが、次に考えられるのは親との取引であろう。昔の日本でもあったとされる、貧しい家庭で扶養すべき子供の人数を減らすために、養子に準じて親が子供を芸妓等、特定業者に委託し手放してしまう可能性である。

 仮にこのようなケースが該当し、親の意向により日本軍の慰安婦とされてしまった韓国人女性がいたとしたら、終戦後、本国に帰還の後、その事を深く恨み、他方、親の責任にはしたくないので、「当時は親の為すすべもなく、日本軍関係者により、強制的に連行されてしまった」との説明に終始する可能性があろう。


(c)いずれにせよ慰安婦制度の悲惨さ・非人間性を理解するには,募集の次の段階,すなわち海外移送と外国生活・在外勤務にも注意を向ける必要があろう。

 朝鮮戦争やベトナム戦争中も多数いたとされる慰安婦とは異なり,第2次大戦中に朝鮮半島から募集された慰安婦は,祖国を離れ,親戚縁者から離別した状態となり,場合により言葉が通じず,字も読めず,風俗習慣が全て異なるような外国に移送され,そこで長期出張者の生活をしながら日本兵を相手に業務に就いていた。従って人一倍苦労したはずであり,通常の風俗嬢とは同列に論じられないだろう。



 7.民族国家の分断



(1)1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受け入れて連合軍に降伏した。9月2日,東京湾上,米艦ミズーリ号で,降伏文書の署名が行われた。そして同日付けの連合軍最高司令官(SCAP)一般命令第1号に基づき,日本の統治下にあった朝鮮半島の南(仁川)から米軍,北からソ連軍が日本軍の降伏受け入れと武装解除のために進軍し、申し合わせの通り北緯38度線を境界線として双方、進軍を停止した。

 その背景には米国が日本の「朝鮮総督府」の置かれたソウルを手中にすることを最低の条件として、米軍とソ連軍との棲み分けを計画し、ソ連とも協議の結果、北緯38度線を両軍の境界線と定めた経緯がある。


(2)これに基づき南北それぞれに独立した行政区画ができあがり、定着した結果,1948年、南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国がそれぞれ成立し、朝鮮半島は38度線を境として、南北に分断されてしまった。

 その後1950年、南北再統一を目指した北朝鮮が南へ進撃したことを発端に朝鮮戦争が始まり、1953年に休戦協定締結に至ったが、南北分断は解消されておらず、平和条約も成立していない。

 北朝鮮における共産主義政権の成立とこれに続く朝鮮戦争により,450万から600万人の離散家族が南北を跨ぐ形で発生しており,南北会談が成立する場合,離散家族の再会実現は常に重要な議題であり,未だに続く民族の悲劇である。


(3)朝鮮半島の南北分断は、日本の植民地支配また第二次大戦における敗戦の帰結だろうが、日本の意図でなかったことは明白である。

 しかし日中戦争や太平洋戦争を引き起こした宗主国日本に限って、米国の方針により幸運にも戦後の分断を逃れたのに、植民地として日本の統治下にあった朝鮮半島が、まるで東西に分割されたドイツと並び、懲罰されたかのように分断されたのは、全く納得できないに違いない。しかも民族国家の分断により大規模な離散家族問題が生まれ、未だに解消されていない。

 ついてはこれを強く恨みに思い、行き場のないフラストレーションや憤りを旧宗主国日本にぶつけてきても、不思議でないのかも知れない。


(他方、日本が分断を免れた背景には、今日にも引き継がれる甚大な犠牲と被害をもたらした広島・長崎への原爆投下があり、そのために降伏が早期に実現し、ソ連軍の北海道上陸や本土侵攻が回避されたのではないか、と議論することも可能だろう。逆のシナリオならば米国はソ連軍に対し、より以上の介入を要請し、その結果、ソ連との分割占領もあり得たに違いない。従って日本の国土統一は、この様な犠牲の上に成立しているものと認識できよう)


(4)1951年9月、サンフランシスコ講和会議に於いて、吉田茂首相は日本代表として演説を行い、冒頭で次の通り,寛大な講和である旨述べている。彼はその根拠として、日本がドイツ(あるいは朝鮮半島)と異なり、植民地等の海外領土を放棄するものの,国家分断を免れたこと、また対日賠償に関し、欧米先進国は基本的にこれを放棄し、請求できる国も日本経済に過度の負担をかけない形で行うとの原則を強く意識していたに違いない。


「ここに提示された平和条約は、懲罰的な条項や報復的な条項を含まず、わが国民に恒久的な制限を課すこともなく日本に完全な主権と平等と自由とを回復し、日本を自由且つ平等の一員として国際社会に迎えるものであります。復讐の条約ではなく、『和解と信頼』の文書であります。日本全権はこの公平寛大なる平和条約を欣然受諾致します。」


(注)宮城大蔵著「サンフランシスコ講和と吉田路線の選択」

 国際問題No.638(2015年1・2月)




 8.国交正常化



 1965年6月、東京で日韓基本関係条約が締結され、外交・領事関係が開設され、両国の国交が正常化された。この条約の中で1905年の保護条約や1910年の併合条約は、もはや無効とされ(第2条。但し「違法」とは書いていない)、韓国政府が朝鮮半島における唯一の合法政府とされ(第3条)、日本が承認した。

 同時に請求権問題に関して次の通り整理され、問題解決に至った。



 9. 戦後補償



(1)第二次世界大戦終結に至る請求権問題については、植民地統治時代(1910~1945年)のものを含め、1965年に日韓基本関係条約と共に締結された日韓請求権・経済協力協定にて法的に整理された。

 その際,第二次大戦以前・戦中の問題に関して、個々のケースに応じて補償する方法は,時間がかかり過ぎるし現実的でない,との結論から,日本が経済協力の形で一括払いし、韓国が自らの判断で国民にそれを補償金として配布する形式を取ることとされた。


(ア)この一括支払い方式に関しては、交渉中、韓国側が対日債権(韓国人の軍人軍属、官吏の未払い給与、恩給、その他接収財産等)の支払いを求め、日本側は、徴用者名簿等の資料提出を条件に、個別償還を提案したが、韓国側は、個人補償は韓国政府が行うとして、一括支払いを要請した経緯がある。


(イ)そして1961年11月、朴正煕(当時、国家再建最高会議議長)が非公式訪日の際に池田首相と会談して基本的な理解が得られ、翌1962年10月に大平外相と金中央情報部長の間で金額につき了解が得られた。

 具体的には日本から10年間にわたり無償3億米ドル、有償2億米ドルが供与される事となり(日韓請求権・経済協力協定、第1条)、またこれに加え、3億ドル以上の民間信用供与を行う事が交換公文で確認された。


(ウ)因みに当時の日本は「所得倍増計画」を掲げて高度経済成長の最中で、韓国に対し、日本の提供する資金を用いて韓国でも経済インフラを整備し、高度成長を目指すべき旨助言していた模様。


(注)吉村克己「池田政権・1575日」行政問題研究所1985年。


(2)これに基づき両国は、両国及びその国民(含む法人)の財産、権利及び利益並びに両国及びその国民間の請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認した。(同協定第2条の1)


(注)この条項が規定した内容で、意外と表面に出て来ないのは、日本が韓国に残した財産の返還請求権を放棄した事であり、日本政府の国有財産か、韓国在住の日本人の私的財産だったかを問わず、日本は返還請求権を放棄した。

 従って日本が請求権問題解決の為に用いた資産は、無償(3億ドル)+有償(2億ドル)+民間資金供与(3億ドル以上)に加え、韓国に残した全財産が(戦後、1948年の韓国独立まで米軍に接収されていたが)これに上乗せされる構図である。


(3)しかるに韓国政府は、日本側から提供された資金を、1971年の「対日民間請求権申告に関する法律」及び1972年の「対日民間請求権補償に関する法律」に基づき、軍人・軍属・労務者として召集・徴収された者の遺族に対する個人補償金として充当した。

 その際、被爆者、在日コリアンや在サハリン等のコリアン、元慰安婦等は補償の対象から除外された。


(4)韓国政府支給の戦時徴兵補償金は、死亡者一人あたり30万ウォン(約2.24万円)となり、個人補償の総額は約91億8千万ウォン(約58億円)と無償資金協力金3億ドル(当時約1080億円)の約5.4%に過ぎなかった。

 上記以外の資金の大部分が道路やダム・工場の建設などインフラ整備や企業への投資に使用され、これが「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展に結びついたと言われている。


(5)日本の無償資金を財源として個人に補償金を支払う際、韓国政府は対象者を徴用の結果、生命を失った者に限定したものと見られるが、背景には1965年の日韓基本条約と請求権・経済協力協定に至る日韓会談当時の日本の下記の様な考え方があり、それに追随したものと見られる。

 そして今になって韓国の最高裁は、「それでは足りない。日韓併合はそもそも違法であり、生還者にも補償すべきだった」と判断している模様。


(ア)徴用労働者には賃金支払いがあったので、本土の日本人さえ国から賠償を受けていない。従って朝鮮半島出身の徴用工も賠償の対象とはなり得ない。


(イ)徴兵された朝鮮半島出身の軍人(生還者)でさえ、戦後、日本国籍を失った為、恩給受給資格を失っている。然らば徴用工もそれに沿った取扱いとせざるを得ない。


(6)戦死者・重度戦傷者への手当


 その後、戦争中、日本国籍を有していたにも関わらず、戦後、日本国籍を失った元日本兵に関し、恩給等の受給資格を失い、日本人と比べて著しく不公平であるとの問題意識から、1987年9月と1988年5月に法律が制定され、1988年9月から戦死者及び重度戦傷者に対し、一人200万円の弔慰金(見舞金)が支払われる事となった。


(注)粟屋憲太郎他「戦争責任・戦後責任」朝日選書 1994年発行。



 10.教育の問題



 以上、韓国に対する戦後補償は、1965年の日韓基本条約及び請求権・経済協力協定の枠組みにより「完全かつ最終的に」解決された次第であるが、その後、双方にて、かような問題解決が過去に得られた事に関し、教育を怠る乃至軽視する傾向が見られ、それが今日の徴用工に見られる様な、大きな問題を招いているに違いない。


(1)特に韓国では、戦後処理の一環として、日本から大規模な経済協力が行われた事を隠蔽しているかの如き雰囲気があり、1965年の枠組み及び日本からの大規模な経済協力につき、無知なまま育った世代が多かろう。

 例えば、世界の教科書シリーズ「韓国の歴史」(国定韓国高等学校歴史教科書。大槻健他訳 明石書店 2000年発行)では、国交正常化のための韓日会談に関し、一行ほど言及があるが、その結果の1965年の枠組みや経済協力に関する説明は一切見られない。


(2)日本の教科書を見ても、1965年の日韓の枠組みへの言及は時代と共に軽くなり、日本国民の理解レベルも何かと低下しがちかと想像される。

 例えば「新しい歴史教科書」(改訂版)(2006年度使用開始。扶桑社)を見ると、「1965年には、日本は韓国と日韓基本条約を結んで国交を正常化し、有償2億ドル、無償3億ドルの経済協力を約束した」との記述はあるものの、交換公文にて約束された3億ドル以上の民間資金提供には言及がない。



 11.要注意日 



 毎年訪れる次の日は、19~20世紀の大日本帝国による植民地化の歴史を想起させるものであり、韓国で愛国心の高まる「要注意日」。日本側はこれに配慮しつつ、両国関係を円滑に運営していくべきと考えられる。


(1月30日~2月1日  旧正月。その直前は師走に相当。)


 2月22日  2005年に島根県議会が「竹島の日」条例を可決した日。


 3月1日 「三・一運動」の記念日。1919年、民族独立運動家が独立宣言書を発表、全国各地やウラジオストク、上海・杭州でデモ行進。4月には上海で大韓民国臨時政府の樹立宣言が行われた。


 3月26日  1910年に処刑された抗日活動家・安重根の命日。


(6月22日  1965年に東京で日韓基本条約が署名された日)


 8月15日 「光復節(植民地支配解放記念日)」1945年の日本降伏に併せた記念日。


 8月22日 1910年に日韓併合条約が調印された日。


 8月29日  上記併合条約が発効した日。


 10月8日  「明成皇后暗殺(乙未事変)記念日」

 1895年,李氏朝鮮の最後の王妃・明成皇后(閔妃)の暗殺された日。(日本人が関与したと言われる)

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