第8話 かげろう(その2)
自転車で近くを流れる川の土手の下までたどり着いた。土手の上に続くコンクリートの階段に足を踏み込み、自転車の車輪をその縁石の上に載せる。ぐっと力を入れて、自転車に乗ったまま登り切ろうと試みたが、ととっ、とペダルから足を外し、やはり無理か、と自転車から降りて手で押し上げて行った。
土手の上にふっと登りきると、眼下には夏草が風に吹かれてさわさわと音を立てていた。その音の涼しさとは反対に、日の光が照度ではなく熱度を持って肌に直に感じられる。
土手の上は細く舗装されたサイクリングロード兼ランニングコースとなっており、上流へも下流へもその地点からはずっと景色が遠くまで続いている。僕はここ数年はこの眺めを見た時から、「夏だ」と感じるのが恒例となっている。
夏草の上に体育座りをして詩を書こうと思って来たが、この暑さではじっとしている方が却って体温が上がるような気がする。サドルにまたがり、ウォークマンで咲の曲を聴きながら下流に向かって自転車をこぎ始めた。
みんなで決めた三曲を何度も何度もリピートする。
僕がゆっくりと自転車をこぐ脇から、ロードレーサーが猛スピードで追い越して行った。
ただ、さすがに炎天下をジョギングしている人はいない。
ノートに書かれた自分の言葉を反芻していると、様々な思いが脳裏に、心に浮かんでくる。
落ち込み。怒り。恥。自嘲。
何か少しでもプラスの要素がないものかと思い起こそうとするが、どこからも出てこない。自分の感情を整理しないと詩は書けないぞ、とマスターは言った。
それは、よく分かる。‘おめでたい’と自分が思っていたあのバンドは、若い人間の気持ちを代弁した歌を歌っている気になっているが、単に混沌とした自分の鬱憤を晴らそうとしているだけだと僕は感じた。だから、心に響かない。
自分がノートに書き溜めたこの言葉は、一体自分の何なのか。他人にぶちまけて、それだけでいいのだろうか。
30分ほどこぎ続けて、あと数kmで海、という所まで来た。だが、土手の舗装コースはここまでで、後は歩道の無い幹線道路を車を気にしながら走らないと海には出られない。
僕はそこでUターンして上流へと戻り始める。
その瞬間に、僕のノートの言葉の断片と、咲の曲がシンクロした。
自分の自力から出ていた言葉が、脱力して咲のメロディーに合わせるように微妙に姿を変える。自分の発した言葉一語一語へのこだわりが一瞬に溶け去り、前後左右、倒置、言い換え、あらゆる手法で言葉の方から咲の曲に歩み寄って行くような、不思議な感覚。脳にかかっていた薄い膜がぺりぺりと剥がされていくような気がする。いや、気がするのではなく、自分の脳をコーティングしていた何かが取り去られた音を、はっきり耳で聴いた。
自分の感情を整理する前に、咲の不思議なメロディーによって言葉が勝手に動き出す。
咲のメロディーと重なった言葉のワンフレーズを、声に出して呟くように歌ってみる。
自力で自分の感情を整理せずとも。今できたこの歌によって、それまで自分のこだわっていた言葉が、全く新しい意味を持ち始める。
ワンフレーズで、自分自身の心が洗われる感覚。心にこびりついていた垢が、ちょっとの隙間から楔を入れることによってごそっとこそげ落ちたような快感。
これまで僕が、どうしようもなく辛いときに「美しい」と、心を慰めてくれた幾つものバンドの幾つもの曲。
詩単体でも、メロディー単体でも持ち得ない、「歌」の力。
今、僕が口ずさんだワンフレーズが、少なくとも僕自身の心を洗った。
他の誰かの心も洗えるのなら、バンドをやっている理由は、あるのかも。