第1話 前座 (その1)
室田 英明 ボーカル・ギター。城戸高校2年生、16歳。
加藤 泰司 ギター。小山高校2年生、17歳。
白木 咲 ベース。鷹井高校2年生、17歳
武藤 一翔 ドラム。鷹井第一高校2年生、17歳。
バンド名は、「4LIVE」。高校もバラバラ、好きな音楽もバラバラ、性格もバラバラ、見た目もバラバラ、身長も、血液型も、好きな食べ物も、バラバラ。
僕たち4人の唯一の共通点であり、初期の接点だったこと。それは、僕たちは、「殴られる側の人間」であった、ということ。そして、僕たち4人は、かつて僕たちを殴った人間と、ついうっかりと出会ってしまった場合、7割の確率で、今でも殴られる、ということ。
ちなみに、一応ロックバンドなので、好きな音楽の紹介だけしておきたい。
僕、室田 英明は、ekという東京の団地生まれのバンドが好きだ。どういう傾向の音楽が好き、ということではなく、ekが作る歌が好きなのだ。僕は、小学生の時からekが好きだった。今、ekのメンバーは全員中年になっている。
加藤 泰司は、洋楽全般が好きだが、特に好きなのが、サイケデリック・ファーズという、1970年代後半から1980年代を中心に活動していたバンドだ。好きになったきっかけは、そのバンドの曲をモチーフに作られた同名の映画、「プリティ・イン・ピンク」だ。父親がDVDレンタルで借りてきたのを、たまたま一緒に観たそうだ。主演女優は当時アメリカで10代のカリスマとなっていた女優だけれども、映画の内容はB級もいいところで、この映画の監督は、単に自分の好きなバンドの曲を集めたサウンドドラックを作りたかっただけではないかと言われていたらしい。ちなみに、彼の父親は、公開当時、この映画を二本立ての同時上映として観たらしい。どちらにしても、加藤の音楽の嗜好は、4人の中では一番ロックバンドらしいものだと思う。
白木 咲は、クラシックで育った。クラシックが好き、というよりは、クラシックしか聴かせて貰えなかった、と言っていた。幼稚園の頃からピアノを習っていて、今も定期的に先生に指導を受けに行っているそうだ。その先生も、もう70歳を過ぎ、冗談かもしれないがピアノ教室の跡をついでくれないかと言われることがあるそうだ。
武藤 一翔は、アニソンが好きだ。アニソンと言っても色々ある。最近は、若くこれから知られていくだろうというバンドの曲が、アニメの主題歌として使われることが多い。武藤は、そういう曲ももちろん好きだけれども、音楽との接点を求めているのではなく、アニメとの接点が多く、たまたま、アニメに使われていたバンドを知る機会が多い、ということのようだ。
僕たちは、お互いのことを、室田、加藤、武藤、と呼び、白木だけは、咲、と下の名前で呼んでいる。泰司とか一翔とかは、いかにもバンドっぽくて、そっちの名前で呼んだ方がいい気もするけれども、存在そのものがバンドっぽくない僕たちがそんな呼び方をするのは、自分達でも気持ち悪い、と思うので、そうしない。
本当は、言いたくはなかったのだけれども、やはり、この後、何かにつけて必要になると思うので、僕たちの共通点、「殴られる側」ということの説明もしておく。
一言で言うと、「いじめられっ子」ということだ。
僕は、小学校4年生の時に、なぜかクラスのリーダー格に通学時の帽子を取り上げられて捨てられたことがきっかけで、男子全員と女子の一部から、毎日殴る蹴るの暴行を受けた。参加する全員が楽しそうに笑っていた。よく分からないが、多分、本当に楽しかったのだろう。社会の授業の時に、基本的人権の話になり、先生が、
「この教室の中に、まさか、基本的人権を認められていない者はいないよな」
と、何気なく言うと、男子全員と女子の一部が、一番後ろの席に座っていた僕を、振り返って、にやにやと眺めた。
情けなかった。
加藤は、小学校5年生の修学旅行の時に車酔いしてゲロを吐いたことがきっかけで、「ゲロオ」というあだ名をつけられて苦しんだらしい。今は乗り物にも強くなり、そんなことは無くなっているが、街中を走っている観光バスを見ただけで気分が落ち込むそうだ。
武藤は、成績が良すぎていじめられていたらしい。しかしそのことが更に武藤を勉強へと走らせ、武藤自身はそれを‘悪循環’と捉えて苦しんできたようだ。だが実際は鶏と卵のように、どちらが先か分からない。唯一武藤がほっとできるのが勉強の合間に観るアニメだったようだ。
一番分からないのが、咲だ。身長174cm、女子としてはかなり背が高い方だが、今時は珍しくもない。髪もさらっとしながら光沢があり、ストレートで背中くらいまで伸ばしている。 体型も細身の、静かな美人、と言って差し支えない。強いて言えば、咲は小学校4年生の頃から、既に170cm近くの身長になっていた、ということがいじめられた原因の一つだったのだろうか。
小学生離れした身長に加え、長い髪。今は「静かな」という表現がしっくりくるけれども、小学生の目から見ると、暗くて怖い、というイメージだったのかもしれない。ホラー映画のヒロイン(幽霊)に似ているということから、そのヒロインの劇中での名前があだ名になったらしい。咲の口からそのあだ名がなんというものだったのかは聞いたことがない。ちなみに、そのヒロイン(幽霊)を演じた女優は、今では‘美人’の代名詞となるような女優になっているのだが。
僕たち4人がいじめられたきっかけや原因について、なんだかんだと言ってみたが、結局、4人全員に、何らかの人格的欠陥があったことは、多分、間違いがない。偶然ではなく、必然だった、というのが、少なくとも僕の認識だ。それは多分、協調性だったり、思いやりだったり、情熱だったり、ガッツだったり、何かが欠けていたのだろう。
僕たちは、僕たちの欠陥をあえて認める。いや、認めざるを得ない。
だから、僕は、‘彼ら’に向かってこう言う権利がある。
「では、あなたの欠陥を自分で言ってみろ」
僕たちは、別々の小学校でそれぞれの「殴られ」を繰り返して育った。
僕たちが一同に会したのは、4人が大木中学校に入学した時だ。
市内5つの小学校から入学してくる大木中学校で、僕たち4人はそれぞれ別々のクラスで、できるだけ自分を殴る蹴るしていた‘彼ら’とは目を合わせないようにして、小学校の時のことを無かったこととしてリセットしようと、暮らしていた。
しかし、誰が何のためにそんなことを考えるのか知らないけれども、2・3年生による新入生の歓迎集会というものの中に、1年生からのお礼の‘出し物’をするため、7クラスから男女各1名ずつ選んで、3グループ作ろう、ということになった。
入学したてで、皆それぞれ猫を被ったり、大物の振りをしたり、おちゃらけて人気を取ろうとしたり、様々な神経をすり減らすような攻防が繰り広げられている各クラスの中、こういう人選を行おうとすると、その選び方はいくつかのパターンに分かれる。
たとえば、あいつはしっかりしたリーダータイプだ、ということで何となく自薦のような他薦のような、まともな選び方をされる場合。また、自発的に自薦の先制攻撃をすることによって、自己防衛を図る、まあまあまともな選び方をされる場合。
それから、小学校の時、あいつはちょろい奴だったから、生贄にしとけばいい、という、まともではない選び方をされる場合。僕たち4人は、‘生贄’として選ばれたタイプだった。
最初の打合せの時、7クラスからの計14人が集まり、一目見て僕たち4人は‘同類’だとお互いに悟った。何が、ということで悟るわけでもないけれども、雰囲気というか、お互いの挙動不審さをみれば、ああ、そうなのか、と、納得できたのだ。
僕たちは、はじき出されるように、4人でグループになっていた。
僕は、この打合せの前日から、ひたすら考え、自分の父親にも根回しをしていた。
僕は、一緒になった3人に向かって、こう言った。
「バンドにしない?」
グループごとの打合せの結果を担当の先生を含めた皆の前で発表する。
別のグループは、コーラスと、寸劇だった。
僕は4人の代表として、発表した。
「バンドにします」
生徒も先生も、「は?」という反応だった。
バンドという発想そのものに対してもだけれども、何よりも僕たち4人の風貌・雰囲気を見て、‘お前らが?’みたいな感じをあからさまに出していた。先生も、だ。
けれども、僕は用意周到の説明をした。
父親が音響機器メーカーに勤めている関係で、機材の貸し出しをしてもらえるよう、話がついていること。曲は、‘希望’を絵に描いたような前向きな(おめでたい)バンドの曲を演奏すること。服装も当然制服であること。
先生は、まあ、それなら、という感じで認めてくれた。
それから、僕は、死にもの狂いだった。僕は、小学校の時のような、殴られ続けるだけの時間の過ごし方をするのは、もう、耐え切れなかった。バンドは、そのような時間の過ごし方と訣別するための方便でしかない。
新入生の歓迎集会まで二週間しかない。楽器の割り振りは、なんとなく、という感じで決めた。冒頭に書いたままの割り振りだ。誰も、ロックバンドの楽器に触ったこともない。僕も、触ったこともない。
先生に説明した‘希望に満ちた前向きな曲’を演奏する‘おめでたい’バンドは別に好きでもなんでもない。こういった曲でないと許可してもらえないだろうということと、この、腐ったような稚拙な簡単な曲ならば、完全な素人の自分達もとりあえず何とか形にできるだろうと考えただけだ。それと、本番で、僕は、‘まともな音’を出す気は全くなかった。
父親のつてで、楽器屋とライブハウスと貸しスタジオをセットで経営している地元の店で、毎日放課後に練習させて貰った。その店のマスターがレッスンまでしてくれた。
とにかく、手取り足取りで僕たちは二週間、毎日毎日マスターのレッスンを受けた。マスターはあくまでも忍耐強く僕たちに向かい合ってくれた。一体何がマスターをしてこんなに真剣にさせたのか、正直、よく分からない。もしかしたら、父親との関係が、僕たちの扱いをいい加減にする訳にはいかない、という関係だったのかもしれない。
一番センスがあったのは、咲だ。さすがに幼稚園の頃からピアノやクラシックに触れているだけあって、飲み込みも早いし、ベースで肝心なリズム感も相当にあった。マスターも、ルックスもいいし、期待できる、と褒めていた。残り3人の男は、全員団栗の背比べでへたくそもいいところだった。特に、武藤は、スティックの握り方から徹底的に反復練習をしないと、音そのものが出るような気がしなかった。僕も、ギターを弾くどころか、まともに歌えるかどうかという状態だったので、マスターからはかなり厳しい叱責を受けた。
一週間たつと、とりあえず、音は出るようになった。僕のボーカルも棒読みではあるけれども、全く恥ずかしくなかった。そもそも、原曲をやっている‘おめでたいバンド’のボーカルは、歌っぽい歌ではあったけれども、全く心に響かない、という点では、結局棒読みと何ら変わらない、と思っていたので。
それからは、何も前に進んでいないような気はしたが、マスターからは、とりあえず、音が鳴っているな、という感じでは聴けるようになった、という評論を貰った。
僕は、こんな曲に対しては、この程度で十分だ、と判断した。後は、本番用の音を出すだけだ。
歓迎集会、本番。僕たちが、お礼の‘出し物’の一番目だった。機材のセットに時間がかかるので、トップバッターにしてもらえたようだ。
僕たちがステージの上に、うつむいてとぼとぼと上がり、それぞれの楽器をスタンバイして、ふっと客席を見ると、ざわざわした中に、笑っている人間が相当数いるのがはっきり見える。‘冷笑’というのを現実に見るのはもう、自分の人生にとっては当たり前で麻痺しつつあったので、特に緊張することも無かった。僕は、笑いというものが、本当に嫌いだった。笑いは恐怖でしかなかった。でも、僕はそれすら麻痺してしまっていたのだと思う。
何の躊躇もなく、僕はギターの最初の一音を叩きつけた。
アンプは最大出力に近い設定にし、それぞれの楽器に、極端に音が歪むようなエフェクターを設定しておいた。
僕は、‘彼ら’全員が難聴になってしまっても構わないと思っていた。そのために‘彼ら’以外の人たちも難聴になってしまっても仕方ないし、自分自身が難聴になるのは、当然の代償と思っていた。3人には、淡々と、事前に説明しておいた。
ギターの一音を合図に、もう一人のギター、ベース、ドラムも一斉に音を叩きつけた。大音量とエフェクターの効果で、体育館にいる全員にとって、拷問のような瞬間だったと思う。誰もあの‘おめでたい’バンドの曲とは分からないだろう。僕のボーカルも、楽器の轟音にかき消されて、ただ口をぱくぱくさせているようにしか見えなかったろう。もし、正面をまともに向いていることのできる人間がいたとしたらだけれども。
担当の先生が、ものすごい血相でステージに駆け上がってきて、やめろやめろと、やはり口をぱくぱくさせているようにしか見えない声でどなり散らしていて、僕のところに詰め寄り、ギターをひったくった。20秒で終了した。たった20秒と捉えるか、20秒もの長い時間と捉えるか、人によってそれぞれだろう。僕は、20秒ものあいだ、‘彼ら’に苦痛と自分の激情を叩きつけることができ、本当に満足した。この後、どうなっても構わないとすら思った。他の3人がどう思ったかは分からない。
僕たち4人はステージから降ろされ、なぜか、保健室に連れて行かれた。一体何なのか、よく分からない。これで、あの小学校の時のような時間の過ごし方をせずに済むのか、結局よく分からなかった。
ただ、小学校の時は、限定的な意味で「浮いていた」僕らが、その20秒を境に、すべてのあらゆる意味で「浮いた存在」になってしまった。
僕の望んでいたものには、かなり近かったのかもしれない。
軽音楽部の設立は認められなった。だから、僕たち4人は帰宅部になった。
週2回、水曜日と土曜日に、マスターのスタジオに僕たちは集まった。
不思議なことに、スタジオ代というものを払ったことがなかった。楽器も機材も貸してくれた。僕たちは結局、自分で楽器を買いもしなかったので、練習はこの週2回だけで、後はイメージトレーニングとでもいうようなものだった。マスターは毎回ではないが、僕たちをレッスンしてくれることがたびたびだった。一体なぜマスターがここまで僕たちのことを構ってくれるのか、訳が分からなかった。
僕たちは、連れ立ってスタジオに行くわけでもなく、集合時間にそれぞれ自然発生的に集まって来て、無言のまま、練習を始めた。
曲は、上手いのか下手なのか分からないように、なるべく誰も知らなさそうな、マイナーなバンドの、それも簡単に弾けそうな曲ばかり選んだ。本当に適当に、you-tubeから、なんとなく、これはどうだろうか、という感じで選んでいった。あのおめでたいバンドの曲は、二度とやることはなかった。
中学校で、小学校と同じような時間の過ごし方をしたくない、という望みは、結局、満たされることはなかった。ただ、何かを命令された時に、僕は、俯いて、ぼそぼそと、「いやだ」というのが口癖になった。「いやだ」とつぶやくと、腹を蹴られたり、顔面を殴られたり、いいことは特にないけれども、あの20秒を境に、「どうなっても、構わない」という思いが、僕の気分を不思議なくらいにすっきりさせていた。殴る蹴るされたら痛いのは当たり前だけれども、精神的落ち込みは極端に減った。
僕は、‘彼ら’という言い方をしてきたが、本当は、‘あいつら’と、言いなおしたい。
あいつらにしたら、僕らと同じ空気を吸うのが気持ち悪い、という感覚かもしれないが、僕にしたら、こうだ。
「僕は、あいつらと同じ音楽を聴きたくない。同じ本を読みたくない。同じ景色で感動したくない。同じネタで笑いたくない。同じ映画で泣きたくない。同じ女の子を見て可愛いと思いたくない。同じ災害に逢って、同じ瞬間には死にたくない。そんな風になるくらいなら、もっと前に、別の理由で死んでしまった方がましだ」
僕らに憐憫、英語でいうならシンパシーを抱いてくれる人も何人かはいたようだ。特に、3年生の中には、「どうなっても、構わない」という似たような感覚を持っている人が結構いたようだ。‘冷笑’ではない、笑みと会釈を僕が廊下を歩いているときにしてくれた3年生の女子の先輩も何人かいたし、僕が下駄箱で帰ろうとしている時に、
「もうやらないの?」と声をかけてくれた3年生の男子の先輩もいた。
けれども、結局、その後3年間、大木中学校の生徒の前で、僕たちが演奏することはなかった。僕たちがバンド活動を続けていることを知っている人間もほとんどいなかったろう。
僕たちは今、別々の高校に通うようになったけれども、週2回、マスターのスタジオに集まることは何も変わっていない。
変わったと言えば、高校に入る前の春休み、4人とも、悪戦苦闘しながら短期のアルバイトをして、マスターの店で売っていた中古の楽器を買うことができた、というくらいだ。