9‐10 こんどこそ、さようなら
「嶋尻くん」低いけれども、温かい呼びかけ。「シマジリくん、なの」
「いいや」俺はその姿を見上げる。
理世はこの世界の中で銀色に輝いていた。「ケンさん?」
「ああ」俺は一歩、彼女に歩み寄った。
「あの夜、最後に店に来た夜」消えそうな声で理世は言った。
「なぜあんなことを言ったんだ? ケンさん」
彼女のこの問いかけで、俺は今はっきりと思い出した、自分のしでかした事を。
三月にふらりと一杯ひっかけに寄ったのが、結局、來夢を訪れた最後だった。
一夜を共に過ごしてからずっと店から足が遠のいていた。
そして本当に久々にそこを訪ねた俺は、コイツに言っちまったんだ。
「たとえレイラと別れても、オマエとは一緒になれねえ」と。
理世は一言も発しなかった。どんな目をしているのか、彼女を直視できなかった。そんな自分の卑怯な姿、いつまでも晒したくなくて
「俺は、責任なんて取らねえんだよ、いつでもどこでも」
そう言い捨てて、後も見ずに店を出て行ったんだ。
俺はずっとそれで悩んでいた、まさか理世もあれで苦しんでいたなんて。
「なぜなんだろうな。でもな理世」
今度こそ彼は、その目をじっと見つめた。深く美しい月夜の湖のごとき瞳を。
「責任ってモノの取り方、コイツらと一緒にオベンキョウしたんだ。
だから……謝らねえ」
そして続けて理世に訊ねる。「キスしていいか」
彼女の目がうるむ。唇が声にならないまま、こう動いた。「いいよ」
理世が俺の前に膝をついた、俺は不器用な手つきのまま、その肩を抱く。
「お別れだ」
彼女はそっと目をつぶった。俺は顔を寄せ、その唇に……
いや、その頬にそっと、唇をよせた。
「ケンさん……」理世の声が震える。「どうして?」
「スナには、まだ早い。これで十分だ」俺の声も震えていただろう、でも。
コイツの身体を、これ以上好きにする権利は俺にはない。
「めっちゃ、愛してるから。今までありがとな」
理世の目じりから、ぽろりと夜露のような玉が零れる。涙はあとからあとから、そのすべらかな頬を伝って落ちてゆく。
「ヤスケンさん」一歩進み出たササラの目も濡れていた。
「もう、サヨナラなの?」
「ああ、ベッピンさんらと分れるのは辛いけどな」
「ベッピンって何?」涙をこぼしながらも真面目にそう聞いてきたので
「あとで辞書でひけ。とにかく、お別れだ」
そう言って、そっとその手を握る。
「いいか? ササラ、デビューしてからが本当の勝負だからな」
「うん」
「こんなモンじゃねえぞ、辛いかんな」
「分かった」
「いつも支えてくれる仲間を、忘れんなよ」
「忘れないよ」ササラは涙目のまま、今開いたばかりの花のように笑った。
「どんな修羅場でもだいじょうぶ、だって、オカルト演歌だもん。ここで歌えたんだもん。ホント凄い世界なんだから」うなずくオウラの目も笑っていた。
「あのなあ」
「それに、責任取ります委員会のメンバーも応援してくれるし」
ならば安心だ。
俺は脇に漂っていたスナの魂に呼びかける。
「ありがとう、もういいよ、帰ってくれて」
そして
俺はまた死んだ。
会社でも独り、住んでいたのも独りだった。
そんな俺にも婚約者ができた、バツいちでもいいよ、と優しく笑ってくれた。
でも、実際は俺を殺そうとした。
俺の人生も五百円貯金も何もかも全て、かっさらって他の男の元に去っていった。
今さら何も恨むまい。
それがなければアイツらとは出会えなかったんだしな。
理世ともそれなりに愉しく過ごしたしな。
他愛ない会話と美味いジンライム。お互い遊び半分で絡みあい、ある晩ひょんな偶然で、彼女の揺れ動く心を知った。
でも深くは心を通わせることができなかった。
互いに嫌いではなかったはずなのに、俺も婚約者に遠慮もあったし、彼女も姉には気を遣っていたし。
それに、本当に彼女が俺を愛しているのか、単なる寂しさゆえの迷いで寄り添ってきただけなのか、まるで自信がなかったから。
冷たい外見と、ぶっきらぼうな言葉遣いの裏に隠された温かい光に気づかないままだった、生きているうちには。
ああ、俺はいつもいつも気づくのが遅い。
それでも、ホームの下で感じたあの感覚。色とりどりの光に囲まれ、俺は何かの舞台に立っている、注目され、期待され、必要とされている、ってあの感じ。
過去の話ではなかった、俺はあの時、未来を見ていたんだ。
長いようで短い41年の人生、最後の最後にね。
今だったらあの光の意味が分かる。あれは、そう……
仲間たちが発する、絆の輝き。
虹色は溶け合って一つになり、やがて銀白色の光の束になり俺を導く。ほら、あの輝く樹の方へと。
こんな俺に、ありがとう、チャンスを与えてくれて。
そして愛を教えてくれて。




