1-2 シリに感謝せよ
ぼうっとしたまま立ち上がると、さっきまで彼女が悪鬼のごとく立ちはだかっていた床の上に、何か落ちていた。
手のひらサイズのメモ帳だった。ワイヤのリング綴じで、表紙は赤とピンクのストライプ、彼女のものなのだろうか。
特に興味も湧かず、俺はそのままそいつを拾い上げてカバンの小さなポケットに放り込む。
明日会ったら返せばいいや。
ようやく帰れる、でもどこに? そう思いながら出口に目をやると、
「待てよ」
いつの間にか、黒い影がひとつ、戸口いっぱいに進路をふさいで立っていた。
さっきの連中の一人だ。
粋だと思ったのか、カバンを片手で背中にひっかけもう片方の手をズボンのポケットに突っ込んでいる。
「スナ、今日は約束忘れてたよな」
えっ、ここでも契約不履行? こいつとはどんなオヤクソクをしていたんだろう? 昼休みに一緒に四つ葉のクローバー探しに行こうね、とか?
しかし、こいつはそんなメルヘンチックな目をしてねえ。にやついている、やな感じだ。
合わせるように、俺のこの身体が小刻みに震えだした。何だこりゃ? 条件反射ってヤツ?
「……何だっけ」
出した声も、か細く震えている。
「忘れちゃったの? 昨日はバックレ休みだったしぃ」
なのか? バックレたのか? スナ、俺がオマエに聞きたい。それでも勇気を出して(オレが出させた、偉いぞオレ)聞いてみる。
「ごめん、本当に忘れたから教えてくんない?」
オナマエ通り、素直な物言いに舌なめずりせんばかりにヤツが答えた。
「オレっちさあ……金曜に約束してたよな。週明けの給食時、終了5分前に立ち上がって、机に飛び乗ってズボン降ろして、シリとさ、チンチンみせて叫ぶ、って。
なんだったっけ……
『生えたどーーーーーっ!』だったよな確か」
はあ? 今どきチンプないじめだよな、そりゃ。
それでもオマエも気になったんだな、そうかそうか。いやいや、そんなコト感心している場合じゃないぞ。
ヤツはかなり、このイジメ仕分け作業に真剣に取り組んでいるようだ。
「いいじゃんどーせ、苗字にシリ、入ってんだぜ、自分のシリ見せんのくらい、ヘーキだろ? まあさ、下げるのがイヤなら、しょーがねえ。机の上でタップかブレイクダンスしてラスト、カッコつけてよ、カネザキしゃきっと指さして(指し方までやってみせてくれた)
『カネザキ、やっぱりズラだったんだ~~』でもいい。
でもサイテー、シリは出せよ、それで特別に許してやる」
俺は薄ぼんやりした記憶の中からどうにか、カネザキという人間の個人ファイルを探しあてた。キツイ目をしたちょっと暗い感じのクラス担任。42歳独身。うえ、同い年かい。ホームルームを思い出した。話がしつこかったなあ、しゃべりもハッキリしねえし、毛は確かに、ズラかもな。あの生え方は不自然だ。
「どっちにせよ、明日こそキョヒったら、いいか? こないだみたいにハズい目に合わすぞ。今度は便所の中だけじゃ済ませねえ、写メとって回すからな」
言い捨てて、ヤツはニヤけた笑いを貼りつかせたまま、その場を去っていった。
俺はすっかり呆れかえってその場に佇む。
苗字にシリ? 入っていて何だ? ムラムラと怒りが湧き上がってくる。
最高じゃねえか。オメエにだって、シリがあるからパンツが穿けてんだろ? 感謝しろ、シリに。
それから何だって……こないだみたいなハズい目に? チキショウ、そりゃ覚えてねえや。
それでも、震えはいつの間にか消えていた。覚えてねえもの、怖がる必要も無いしな。
それにしても……
何だか、危機的状況のようですねシマジリ・スナオくん。
とりあえず家に帰ろう。とぼしい記憶をたよりに。