1-1 怒りのササハラ・サラサ
俺がまず最初に気づいたのは……
でっかい目ん玉。
まつ毛が長くて瞳の中には星まで見えるようで、だけどかなり険悪な感じのオーラばりばり。
ササハラ・サラサが見おろしている。
「聞いてます?」
丁寧語。だが、丁寧な気持ちなんてこれっぽちもねえ。
「ねえ、嶋尻くん、」
こちらがすぐに答えないので、更に一語一語区切るように
「し、ま、じ、り、す、な、お、く、んっ」
と、俺に投げつけてきた、弾むようなアルトで。
一語いち語がちょびっとずつ裏返って俺の鼓膜を甘く震わせる。
どうしてコイツが笹原更紗だと判ったか?
えっと、何でだ? コイツとは、会ってるから、毎日……
そして、嶋尻直、第二中学2年3組8番。それが……俺?
なんで俺、こんなところにいる?
ゆっくりと見回してみる。
俺が座っているのが、多分自分の、いや、シマジリの席だ。
教室の廊下側一列目、後ろから二番目。
ホームルームも終わって、下校の時間らしい。クラスの半分近くはすでに部活や家に向かったらしく、あとの連中も三々五々、どこかそれぞれの場所に去ろうとしている。
そして俺はなぜかカバンを机の上に乗せたまま、席に座っている。
目の前、そのカバンを挟むようにまっ白くてすべすべの腕、上に伸びてつながっているのが、ササハラの華奢な肩。
彼女はやや亜麻色がかったツヤのある長髪をはらりと自然に落とし、これも自然に二つに分かれた前髪の間から、でかい目を更に大きく見開いて、視線による穴開け攻撃をこちらに試みている。
「聞いてるんですけど」
白磁のような頬はわずかに赤みがさしている。ぷるんと可愛い唇も、今は引き締めがちにきゅっ、と一文字。
怒った顔がまた、可愛いのなんの。
どうしてそうやたらと目を見開くんだろう。
一歩間違えれば誘惑とも取られるぞ、ササハラ。しかもどうして無防備なんだムスメ。
そうやってこっちに顔を落とし加減にすると、セーラー服の間から、まだあどけないその何だ、オッサン大喜びな部分が丸見えだど。白い控えめなレースまでも。ふはふは。
しかしジブンは少年シマジリとして、ここで何か答えなればいけないらしい。
後ろのドアから出て行こうとする二、三人の男子が、
「なんだよササラ、スナに惚れてんだぁ」
「おふたりさん、いいぢゃん」
ひゅうひゅう、と冷やかすのを、これまたササハラじろりと睨みつける。
冷やかしたヤツラは特にかまってもいないように
「今日は六時開始ねー」「おお」
何かのネトゲだろうか、こっちには興味も何にもない話で盛り上がるフリをしながら、それでもちらっと俺ら、特に俺のほうに毒のある視線を向けて、わいわいと去って行った。
静けさが戻ると、ササハラが俺に向かって詰問を再開した。
「昨日休んだのは仕方ないとして、どうして今朝、当番の交代に来なかったのよ」
トウバン? 記憶を遡ろうとする。頭の中がワヤワヤしているけどな。
素直に白状してみようか。
「ごめんササハラさん、オレさ、シマジリ・スナオってヤツに見えるかも知んねえけど、実際、オヤジなんだ。ヤスカワ・ケンイチロウ、次男なのにケンイチロウ、今年の秋に42になるリーマンなんだよ、自社製コンピュータシステム会社の一応、主任にはなったんだが色々とね……ずいぶん前に結婚したけど今はワケあって離婚、十条の築20年木造二階建てアパートの102に独り暮らし、給料は手取りで26万前後、家賃は6万5千円、趣味はドライブ、って言っても今は車は売っ払っちまった。後は呑みに行くくらいかな……アッチのほうはよ、モテねえつうワケでもねえが何つうか、一応つき合ってるのもいるにはいるっけ? 今はあんま思い出せないんだけどよ、多分遊び? っつうかまあ、……なんてよ、そんな話は聞きたかないよな。中学二年だろ? って、オレもか。ごめんよ。もちろんね、見た目はシマジリくんて子らしいけど何でだろうな? オレはこんな小僧全然知らねえ、親戚でも知り合いでもねえ。でもどうしてかコイツのことも幾分かは知ってんだ、何となくね、動画か何かみたいに切れ切れに見えるんだ、自宅らしいのとか、親御さんとか、このガッコウの様子とかね、だからアンタのことも判った、ササハラサラサ、あだ名が『ササラ』で数学と英語が得意でけっこう優秀なんだな、テニス部? 書道初段? しかしね、悪いけど何故だか今、急に話していて少しずつ霧が晴れるように気づいてきた、みたいな。つうか、休んだの? 昨日、オレ」
代わりに出たのが、こんな返事。
「え……あの、ボク」
何だよ、この可愛い声。コイツ、声変わりもまだしてないのか?
言葉を探しながら気になって自分の身体確認。
白いワイシャツ、黒い学生ズボン、そして白い靴下にきたねえ上靴。黄色いラインなのかウンコの染みなのか分かんねえ。
思ったより、ずいぶん小柄だ、オレサマ。
「あの、ボク、きのう」
駄目だ、何故だか気のきいた言葉がひとつも出やしねえ。
頭ん中には色んな中年ボキャブラリーが渦巻いてんのに、この可愛らしい舌が発声を拒否してやがる。
「いっつもそうだよね」
ササハラさんは吐いた息とともにそうつぶやく。完全に呆れてるようだな。
「なぜ? って聞いてもちゃんと説明してくんないし、とにかく、ごめん、って一言いえばいいのに黙っちゃうしさ。どう思ってんの? 実際は」
「えっと……」
言葉を継ごうとしながらもつい、腕を組む感じで自分の肩口から二の腕をさぐる。
ちっせえ。腹に手をやる、何と健康的な。今までのややぽっこりとは大違い。
少しは鍛えて筋肉をつけたつもりだったが、腹はなかなか凹まなかったから、コイツのこの腹まわりは、俺ら中年が忘れかけていた究極の理想かも。
そして余分な事がひとつ気になった。……生えてんのか? 果たして。
「ちょっとぉっ!」
視界の端に白い腕が躍る、ばん、と俺のカバンを上からたたきやがった。
はずみで横の掲示版から給食の献立表が外れて、画鋲がぴょん、とふたりの間に落ちた。
「何、自分の体まさぐってんのよ、だからワケ分かんねえ、とか言われるんだよ! しっかりしなよっ」
そうなのか? 俺、けっこう評判悪い?
「とにかくさ」
彼女は急に、他人目が気になったのか、あたりを見回してもう誰も教室には残っていないのに気づき、あやふやな咳払いをひとつ。そして、献立表と目の前の画鋲を拾い上げ、壁に乱暴に刺した。
「来週火曜日の当番、やってもらうからね。月曜火曜と続けてやるんだからね。委員長には自分でそう言ってよね、今日はアタシが代わりにやらされたんだから。わかった?」
何の当番かまだ、分かんなかったが俺はうんうんとただ黙ってうなずいた。
この勢いでは、例えブタ飼い当番でも暗殺当番でも何でも、喜んで引き受けねば今度はこっちが画鋲で壁に留められちまうだろう。
足音高く、彼女は教室を後にした。
はあ、俺は大きく息をついて、カバンを取り上げる。
どうしてこんな場所、こんな所で目覚めたのか、まだ頭がグラグラしてよく呑み込めていない。
確かに俺は、ヤスカワ・ケンイチロウだったのに。
そして、死んだはずだったのに。電車に撥ねられて。