2-7 何でも願いを一つだけ
30分を少し回った頃、言われた通りに店に戻るとルモイはすでに姿を消していた。
涼しい顔して珈琲のお代わりを飲んでいたリンに俺は詰め寄った。
「あ、あの、ルモ……タカヤマさんはどこに?」
「帰ったけど、ついさっき」
しごくあっさり、リンが答える。
「帰ったって? 話は?」ササラが怖い顔で一歩前へ。私は若さでは負けない、そう思ったんだろうか。
その様子にリンはうっすらと笑ってこう答えた。
「ああ、話はついたさ」
拍子抜けしたように、ササラがぽかんと口を開けたまま立ち尽くす。そこにハナが
「あ、あの、それでやるって言ってましたか」
肝心なことを聞いてくれた、ありがとう。
そしてリンの返事は見事なもんだった。
「あたぼうよ」
三人は、今度は明るい顔を見合わせた。
「よかったー」
「ただし」リンの声で俺らの動きが止まる。
「明日日曜日と、次の土日、それから短縮日課の一学期最終週三日は通いで強化合宿だからね」
「それは……」俺の声ははずんでいる。
「タカヤマさんさえよければ」
「いんや」リンが空になったカップで俺を指した。
「アンタら、全員だよ。だってなんちゃら委員会なんだろ? 彼女を変身さす係なんだろ?」しーん。
「だからとにかく、明日朝八時にオレの店の前に来るんだね」
店の場所はその小僧さんが知ってるんだろ? 時間厳守だからね。運動できる格好と、スポーツタオル、体育館シューズ、飲む物もちゃんと持ってくること、解散は夜八時だから、いいか?
いいも何も。でもリンは何をするつもりだ?
いぶかしげに眉を寄せた俺に彼女、今度はまっすぐ目線をくれた。
「それと……小僧さんにも話がある。あとの二人は帰っていいから」
また、しっしっと手で追い払われ、ササラはかなりむっとしたように、ハナはそれでもおずおずと「ありがとございましたー」と頭を下げ、店を出ていった。
彼女らが見えなくなってから、リンはじろりと俺を一にらみ。
座るように手で指示している。
俺は目を合わせないように彼女の前に座った。両手の先をなんとなく腿の下に敷いてしまう。
「名前、何だっけ?」
彼女が聞いたので、「し」ちょっと咳込んでから
「シマジリ・スナオです」
ようやく小さな声で答える。すでに顔が真っ赤。だめだな~俺。
ちら、と目をあげると相変わらず厳しい目をしてこちらを睨んでいる。
「あの……」ようやく声が出た。「何なんでしょうか」
「あのメール」俺を見据えたまま彼女が訊ねた。
「オマエさんが出したんだよね?」
「は……いえ違います」鼻の下に汗かいてきた。俺はあわててぬぐう。
「メール、って何でしょうか」
「オマエさん、どーゆー関係なんだ?」
「カンケイ? えと、何の?」
リンはイラついた手で丸めたおしぼりを握る。投球フォームにはいるのか? 的は俺?
「とぼけんじゃねえ。あの……ヤスカワとどういう関係なんだって聞いてんだよ」
クーラーが程良く効いているはずなのに、俺の背中を汗が伝う。やはりそこだよな。
「あの」
彼女に回りくどいことを言っても逆効果だろう。いつかはちゃんと決着つける部分だ。
俺はごくりとつばを飲んでから、勇気をもって顔をあげた。
「ヤスカワ・ケンイチロウ本人なんです……中身は」
時が止まった、地球の自転ごと。
ようやく地球ががたぴしと動き出した頃、リンは目線を外さず訊ねてきた。
「隠し子ってことか?」
そうきたか。年齢的にはね、あり得ねえこっちゃねえ。
でも今から俺がしたいのは、『あり得ねえ』方の話。
俺は考えをまとめながら話し出す。
「ええと、僕、実は列車にはねられたらしいんですが記憶があったりなかったりで、気がついたら……」
どうしても中年トークができねえ。
何故なのか知らないが、自分でしゃべる声を聞いていると、頭ん中とのギャップが激しすぎて余計に舌がもつれてくる。
それでも俺は、手のひらを額に当てて考えをまとめながら真剣に話し続ける。
「……と言う訳なんです。ルモイ、いや高山さんをプロデュースしなくちゃ、という時にふとオマ、いえリンさんを思い出してそんでついでに僕の元々の体がどこに行っちゃってるかも聞きたくてできれば元に」
今まで、静かに聞いていたリンが
「おい」
急に遮った。俺はぴたりと口を閉ざす。
「オマエさん、実は別人なんだろ? シマジリくん、というんだよな?」
「はあ」
彼女は真剣な目のままこちらを凝視している。
「いつからヤスカワだと思ってんだ? 自分のこと」
「ええと……はっと気づいたのは六月のはじめ、四日かな、五日かな、とにかく火曜日でした。でも何となく日曜の夜に何かあった気がしてて、多分、電車にちょっと接触しちゃったかな~、みたいな」
明るく笑ったつもりだが、頬がひきつっている。どう収めりゃいいんだ、この話。
リンは尚もじっと俺を見ている。仕方なく、俺もドギマギしながら目を合わせた。
「オレが信じると思ってんのか」
彼女の口調は冷徹。しかし何だろう、黒い瞳の中に沈む光、そしてこのオーラの色合い。
意識を集中して、その姿をみる。
オレヲホントウニ……愛していたのか?
とたんに彼女の周りからふわっと純白の光が現れた。俺はつばを飲む。
「リヨ……」二人きりのときにしか呼ばなかった、その名前。
「あの、これが願い事なん……です、助けて下さい」
かつてアロアナをこっそり放流した時に運悪く見つかって、彼女に池に落とされた、溺れそうになった俺にマジやばいと思ったのか、彼女は池に飛び込んで俺を助けた。
二人、ぬれ鼠になって彼女のアパートに帰り、そして、
彼女が俺の胸に飛び込んできて、そして言った。
どうしよう、と。
その時のリンは震えていた。
自分が何なのか分からないんだ、どうしても女として感じることはできない、心の中で、自分はずっと男なのだと思っていた。でもケンさんを見ると、心が揺らぐ。いつもそうだ。女たらしのスケベえ野郎、調子ばっかりよくて飲みに来ても他愛のない話ばかり。でも……
どうしてなのか分からないけど、一夜だけでいい、一緒に居たい。
男として、とか女だから、じゃあない。何故かとても、胸が苦しくなるんだ。
代わりにこちらも一つだけ、何でも言う事を聞くから。
俺はその条件をのんだ。俺にとっては夢のような出来事だったから。
「分かったんだよ、すぐに」
リン、いや理世はそう呟いて目を伏せた。
見た目では小僧の俺にはそんな表情は見せたくなかったのか。
「目線とか手のしぐさ、そうして額を押さえる所とか……だから親子かと思ったけど最初は」
「本人だし……多分」
俺の声は相変わらず頼りないけどな。
「本当だったらあの時、たった一つだけ、って言われて俺……僕……俺こういうつもりだった。
『またこうして会ってほしい』って」
お互い忙しくて、その機会はなかなか訪れなかった。その時すぐに言えば良かったんだ。
「なぜ、すぐに言えなかったんだろう」
つぶやいた俺をもう、リンは見ようともしなかった。
彼女は表情を変えず、目だけを窓の外に移してさっと伝票を取り上げ、席を立つ。
そして何もことばを発することなく、そのまま行ってしまった。
だからその時、彼女が何を考えていたのか俺にはしばらく、全然見当もつかなかった。