菜々美の涙
何をする気にも慣れなくて家に引きこもって数ヶ月、私はどんどん家から一人で出られなくなっていた。誰か付き添ってくれる家族がいたら、そんなに抵抗なく出かけられるのに一人だと凄く息が苦しくなる。こんなことではいけないと思っているけど自分でもどうしようも無くなっていた。
旦那が出張で今夜は帰らないこともあって娘の美花が引きこもってる私を心配してくれたのか、自分が良く行くええお店があるからと半ば強引に『オカンの店』という飲み屋に美花に私は連れて来られた。
店の戸を開けて入ると「おかえり~」と私よりもひと回り位歳上の店主が迎えてくれた。
「オカンただいま~! 今日はな! 私のオカンを連れて来てん」
美花は店主を『オカン』と呼んで私を紹介してから空いている座敷に座った。
美花は十八の時に産んだ子なので最近では私の事を『菜々美ちゃん』と呼んでいる。
キチンとした場所では『お母さん』と呼んで使い分けてくれてるので特に私も抵抗は無かった。
「もうすぐ宗ちゃんも帰って来るから会ってやってな!」
美花は最近付き合い始めた彼と私を対面させる事も目的だったらしくて少しそわそわしている。
二十六歳になるまで特に付き合ってる人を紹介された事も無かったから色恋には興味が無いのかと諦めていたんやけど最近お付き合いしてる人が居ると美花から聞かされて少し私も旦那もホッとしていた。
「菜々美ちゃんも夜定食食べるやんな! 今日の夜定食はブリの照り焼きと豚汁や! オカンの夜定食は美味しいねんで!」
美花はそう言ってオカンに夜定食を二人分頼んでいた。
ふと隣の座敷のテーブルの下を見ると座布団の上でクルンっと丸まって子猫が気持ち良さそうに眠っている。
私が子猫を指差して美花に聞いてみた。
「可愛いな~、あの子猫が……がんもちゃん?」
「そうやで! あれががんもや! 可愛いやろ?」
寝ている子猫を起こさんように美花は小声で答えていた。
「ええお店やね。美花が夜、なかなか帰ってこん訳やわ」
私が店を見渡して少し笑うと夜定食を運んで来た来たオカンもニコニコと私を見て笑っていた。
「ほんま美花ちゃんにはいつもお世話になってます~!」
オカンはそう言うと私の手を握って頭を下げた。私も慌ててこちらこそと言って頭を下げていた。
夜定食を食べながら美花は私の顔を少し覗き込んでニィっと笑うと思っている事を話し出した。
「菜々美ちゃん最近元気無かったから少し心配でな……。私もついつい帰りが遅くなってばっかりで話もろくに出来んかったから悪いなぁ~とは思ってたんやで」
もう一度美花は少し苦笑いしながら私の顔を見た。
「今の私は心配されてもされなくても自分でもどうしようもないから美花は美花でしっかりやってくれたらええんよ」
「だから心配なんよ! 菜々美ちゃん、なんか抜け殻みたいやねんもん」
私が投げやりな返事をしたので余計に美花は心配して少し強い口調で答えていた。
それでもどうして私がこうなったか今は上手く考えられへんし考えたくもなかった。
別に家族に不満があるわけでもないんやけど兎に角、外に一人で出るのが怖いというか息苦しい。酷い時は吐き気がしてめまいもする。まだまだ働き盛りやというのにこんな事では仕事にも出れなくて余計に塞ぎ込んでしまうのに同仕様もなかった。
しばらくすると、店の戸が勢い良く開いて男性客が二人で入って来た。
「ただいま~! がんもに猫缶買って来たで~!」
もしかしてどっちかが美花の相手かな?と美花の顔を見ると美花は私を見てうんうんと頷いて手を降って彼を座敷へ呼んでいた。
「こうちゃんもこっちにおいで! 宗ちゃんが一人やと緊張するから!」
「え?! ほんまに一緒に座ってええんか?」
「菜々美ちゃんもええやんな! こうちゃん面白いし、話しやすいねんで!」
美花は彼氏の連れも座敷に呼んで嬉しそうにニコニコ笑って二人を並んで座らせていた。
なんか昔を思い出すわ……。やんちゃしてた頃のこと。
高校を中退して、勝手に働き出して家に帰りたくなかったから、寮生活を始めて、私も美花みたいに仕事が終わったらこんな飲み屋でご飯を食べながら、友人たちとわいわい楽しく過ごしてた。懐かしいなぁ~あの頃は寝る間も惜しんで仕事が終わったら遊んでた。
それが今では引きこもりなんやから人間ってほんまわからんよね。
私が美花達を眺めて物思いにふけっていると、彼氏が畏まって私に深々と頭を下げると挨拶を始めた。
「初めまして、一ノ瀬宗次郎と言います。美花さんとは結婚を前提にお付き合いさせてもろてます。ご挨拶が遅れてしまってすみませんでした」
美花の彼氏は私を真っ直ぐに見てしっかりとした挨拶をしてくれた。
さすが美花が好きになっただけのことはあるよなと感心してると美花が照れ臭そうに彼氏の背中を叩いていた。
「もう! 宗ちゃん硬すぎるわ! 菜々美ちゃんが困ってるやん」
「そんなこと無いよ! しっかりした挨拶してもらって安心して美花を任せられるなぁ~って感心してたんやで!」
私は美花の頭を少し軽く小突きながら私も宗ちゃんに向かって深々と頭を下げてよろしくお願いしますと挨拶をした。
座敷の隣のテーブルの下で寝ていたがんもがいつの間にか起き上がって私のすぐ側まで来ていた。
「ミャーンミャーン……」
私が手を差し出してもがんもが逃げなかったからそのまま膝へ抱っこしてやった。
「おとなしい子やなぁ~ほんま賢い子やわ~」
私ががんもを撫でながら感心してるとオカンが嬉しそうにこっちを見て笑って手招きをしていた。
「良かったら若いもんは若いもんで放っておいてこっちで一緒に飲まへんかな?
今日はお客さん少なめやから私も手持ち無沙汰やねん」
オカンがカウンターの方へ来るように誘ってくれたから私はそうすることにした。
美花達は楽しそうにがんもを肴にして賑やかに騒ぎ出した。ほんまみんな仲がええねんなぁ~って私が笑ったらカウンターに居たお客さんもニッコリと頷いていた。
そして隣に座っていた初老の男性が笑いながらいつでもまたここへ帰って来たくなるんやでと言って笑った。
確かにここなら一人でも来たくなりそうな気がする。こんな気持ちは久し振りでもしかしたら少しは私も頑張れそうな気がしてきた。
「菜々美ちゃんは引きこもりやからって美花ちゃんが凄く心配してたから私も心配しててんけどな! ここやったら大丈夫なんちゃう?」
そう言いながらオカンは私がお酒を飲めないのをわかっていたのか?ローズヒップティーを出してくれた。
ローズヒップティーは私の好きなリラックス効果のある紅茶で美花から話を聞いてきっと事前にオカンは用意しておいてくれたんだ。
「今日は美花が一緒やったからここまで来れただけで一人やと玄関先で気分が悪くなってしまって外へ出れないんです。……ほんま情けないですよね」
なんかほんまに自分が情けなくてため息混じりに私が答えるとオカンはにっこり笑って熱いおしぼりを私に渡した。
「無理する必要ないわ!そういう事もあるんちゃう? 機械じゃないんやし、焦らんと少しずつ自分の心と身体に付き合ってやればええんちゃうかな?無理せんようにね!」
こんな風に言ってくれた人は初めてだったので私は我慢してたものが全部込み上げてくる感じで目から自然と涙がこぼれ落ちていた。
「菜々美は18で子供産んでがむしゃらに頑張ってきたもんやからぴーんと貼った糸が緩んでしまったんやろなぁ~」
後ろから知った声がして、振り向くと幼馴染の健ちゃんがいた。
健ちゃんはこの店の古くからの常連やったらしくて美花から私の話を聞いて心配になってここへ連れてくるように言ってくれて会社の帰りにわざわざ寄ってくれたらしい。
「お父ちゃんではどうにもならんこともあると思ったしな!」
美花は笑いながら私と健ちゃんにVサインをしていた。
そうやね……。確かに旦那ではこれはどうしようもないんよね。連れ添った相手に弱音はなかなか吐かれへんからね。
美花も大人になって好きな人が出来てなんとなく私の気持ちを少しわかってくれたんかもと思うとまた泣けて来た。
自分で言うのも何やけどええ子に育ってくれてほんまありがとうって言いたい。女の子産んでおいてほんま良かった。
「健ちゃんありがとう……。また少し頑張れそうな気がして来た」
「無理したらアカンで! ゆっくりでええんやで? 頑張りすぎたらアカンで!」
健ちゃんはそう言って昔みたいに私の頭を優しく撫でてくれていた。
久し振りに涙を流したらもやもやしていた頭がスッキリしていた。なかなか家では泣けないしね。
スマホのメールの着信音が鳴って、確認すると旦那からだった。
[美花のお陰で少しは気分転換出来たか? 無理せんでええからな! あんまり考え込むなよ]
メールの内容は珍しく甘い内容だった。
美花がきっと旦那に断りを入れてからここへ連れて来てくれたんやね。
「ほんま親の性格を良く理解してる娘やわ!」
「ほんま羨ましいわ! 私も美花ちゃんみたいな娘がもう一人欲しかったわ~」
私が涙を拭きながら呟くとオカンも少ししんみりしていた。
「何言うてんねん! オカンにはこんなにようさん娘も息子もおるやん!」
するとしんみりしてるオカンに向かってこうちゃんが両手を振って叫んでいた。
「そしたら私は妹にしてもらおうかな?」
「それは嬉しいわ~! 私も妹が欲しかったからな!」
冗談半分で私がオカンに言うとオカンは嬉しそうにケラケラ笑っていた。
いつの間にか私も暗い気持ちはどこかに消えて少し心の中が明るくなっていた。
今すぐには無理かもしれへんけど多分近いうちに私は一人でも『オカンの店』まで帰れるようになりそうな気がしていた。
閉店時間になって私がお礼を言って店を出るとオカンはにっこり笑って
「おやすみ~! 良い夢見るんやで! いつでも帰っておいでよ~」と私のことを店の前で見えなくなるまで手を振って見送ってくれていた。
もちろんその夜、私は久し振りに本当に良い夢を見てグッスリと眠れた。