雨で濡れた靴下
雨で濡れた靴下。
下駄箱の独特の匂い。
女の子は可愛くなくちゃいけない。
ずるい。
男の子たちがグラウンドを駆けるときの汗は輝いているのに。泥で汚した制服の裾だって青春だ。
スマートフォンを鏡代わりに画面を覗き込む。
早起きして時間をかけて整えたはずの前髪。雨の湿気と汗で額にへばりついてみっともない。
私は毎朝、誰よりも早く登校する。
背伸びをして入った進学校だ。予習も復習も、人並み以上の時間を注ぎ込まなければあっという間に置いていかれる。
女の子らしい前髪も、余裕のある笑顔も、すべてはたゆまぬ努力の上に築き上げた「私」という完璧な作品だった。
けれど、今朝はもう限界だった。
誰もいない教室。カバンを床に放り出し、湿りきって足裏にまとわりつく靴下を脱ぎ捨てる。それを教室の隅へ向けて、やけくそに投げつけた。
靴下は虚しい音を立てて床に転がった。
その直後、教室のドアがカラカラと音を立てて開いた。
「……あ」
そこに立っていたのは、同級生のサッカー部のエースだった。
悪天候で朝練が中止になったことを知らず、そのまま教室に来てしまったらしい。濡れた髪から雫を滴らせた彼と、素足のまま呆然として立ち尽くす私の視線が交差する。
(最悪……私のこれまで築いてきた”優等生”の立場が……)
手元には足元を隠せるものもない。私は力なく椅子に崩れ落ちた。
頭の中が真っ白に染まる。
中学の頃からずっと憧れていた人だった。
彼と同じ高校に通うため、血の滲むような勉強をして、新入生代表の座を勝ち取った。
努力を知らぬ天才。塾に通わずとも常に学年トップを維持し、高校から始めたサッカーでも瞬く間にレギュラーを奪ってみせた男。周囲からの嫉妬や羨望、あるいは、彼と自らを比較して諦念を抱くものばかりの中で、彼に唯一食らいつき、二位の座を守り続けてきたのが私だった。
彼は驚いたように目を丸くした後、ゆっくりと歩み寄り、床に落ちていた私の靴下を拾い上げた。
「お前って……意外とそんな感じだったんだな」
「……女の子なんて、みんなそんなもんだよ」
開き直るようにそっぽを向く私に、彼は拾った靴下を手渡しながら、拍子抜けするほど静かな声で言った。
「そうやって可愛くあろうとして努力してる姿、俺はすごくかっこいいと思ってたけど」
「……でも。今、私の本性見たじゃん」
私が呟くと、彼はそのまま私の前に歩み寄って腰を落とし、ポンと頭の上に乾いたタオルを投げ乗せてきた。
「練習中止になったから使ってないやつ」
「ありがと」
「まあ、黙っといてやるよ。なんかお前と秘密ができたみたいで悪くない気分だし」
「……っ。 だいたい女の子にかっこいいって褒め言葉じゃないから」
布越しに輪郭を撫でられたような錯覚に、心臓が跳ね上がる。
顔に集まる熱を散らすために、タオルで強く顔を拭った。からかわれていると分かっているのに、胸の奥が不規則に騒ぎ出す。
そんな私のアラを探すみたいに、彼は首をゆっくりと傾けた。
「じゃあ、なんて言ってほしい? 」
「そ、それは――」
詰まった私の返答を待つことなく、彼の右手が伸びてきた。
少しだけ縮まった距離。息を飲む隙すら与えられず、まだ乾いていない指先が私の額に触れる。
肌を滑る体温。丁寧に、慈しむような手つきで前髪を軽く掬い上げられた。
——なんだろう。この手慣れた動作。
至近距離で合わさる瞳と、あまりに自然でスマートな振る舞い。その些細な態度に無性に苛立った。
胸の奥で渦巻いた不快感に逆らえず、彼の手を払い除けて視線を逸らした。
「いいよね、君は。予習も復習もしなくたって、できちゃうんでしょ?」
思わず口をついて出たトゲのある言葉。
彼の眉が、ほんの一瞬だけ不機嫌そうに跳ね上がった。けれど、それは幻だったかと思うほどすぐに消え去り、彼は何事もなかったかのようにあっけらかんとして言った。
「じゃあなにか? わざと出来ないフリしたら満足か?」
「別にそんなこと言ってない。サッカーだって高校から始めたのに、夏の大会からずっとレギュラーだもんね」
「…………」
彼は所在なさげに空を掴んでいた右手で、隣の席の椅子を引いて腰掛けた。
「どうせなら、プロでも目指して本気で練習してみたら?」
「やだよ。体動かすのは好きだけど、仕事にしたいとか思ってねーし。」
「だったら、先輩達にポジション譲ってあげなよ」
我ながら惨めで支離滅裂な言い分だと分かっていた。それでも吐き出さずにはいられなかった私に対し、彼は呆れる素振りも見せず、私を見つめ返してくる。
「なんで俺がそんな気を使わなきゃならないんだよ。たまたま得意だったってだけで、どうして俺が遠慮して生きなきゃならねーの?」
真っ直ぐに返された言葉が、濡れた制服の隙間から入り込む冷気のように、じわじわと肌を刺した。
雨の湿気を吸って肌に張り付く生地の冷たさと混ざり合い、熱を持っていた胸の奥が急速に冷え込んでいく。
女の子だからと理不尽な期待や押し付けに不満を抱いていたはずなのに、私は自分の及ばなさを棚に上げ、彼に理不尽を押し付けていた。
自分が最も嫌悪していた理不尽な身勝手さを、そっくりそのまま彼に向けていたのだと思い知らされる。
「……お前も、嫌なら猫被るのやめたらいいだろ」
「私は――」
言い返そうと口を開きかけたものの、声は途中で詰まった。
私は何のために頑張っていたのだろう。
彼は私の戸惑いに気づいていないのか、あるいは、先程とは打って変わって緊張しているのか。
こちらの反応を確かめることもせず、視線をどこか泳がせながら呟く。
「ただ……俺は、お前の髪型可愛いと思ってたから。全部やめちまうのは、少し残念だけどな」
意図をうまく咀嚼できない。しばらくの間、湿気は鬱陶しいのにお風呂は気持ちがいいのって不思議だな、なんて脈絡のない考えが頭をよぎっていた。
そして、静寂を切り裂くようにチャイムが鳴り響いた。
「……まだこんな時間か。暇だし、近くのコンビニで替えの靴下買ってきてやるよ。それまでこれでも膝に掛けて隠しとけ」
彼はバッグの中からジャージを取り出すと、乱暴に私の膝の上へ放り投げた。
振り返りもせず、背を向けて教室を去っていく。首筋が、ほんのりと赤く染まっているのを私は見逃さなかった。
一人残された教室で、膝の上から漂う柔軟剤のお日様の匂いを感じながら、私は再びスマートフォンを手に取った。
画面を鏡代わりに立ち上げ、崩れた前髪に指を通す。
私は可愛くなりたい。可愛く在りたい。
誰に強制されるのでもない。私が、私自身の意思で望むのだ。
乱れた前髪を丁寧に整え直した。
fin.
おまけ
十数分後、ほかの生徒が登校してくるより早く、彼はビニール袋を片手に教室へと戻ってきた。
「ほらよ」
息切れを隠しきれずにわずかに肩を上下させる彼の姿を見た瞬間、私は反射的に立ち上がり、深く腰を折っていた。
「さっきはごめん。めちゃくちゃなこと言って傷つけて……」
彼に誠心誠意の謝罪をする。
しかし、彼は責めることなく、私の肩に手を置いて顔を上げさせた。
「俺の今の目標知ってるか? 次の期末試験も一位を取ることなんだ」
ライバル視しているのは私だけだと、ずっと思っていた。
彼は頭をかきながら続けた。
「親がさ、成績落ちたら小遣い減らすんだとよ。ちょうど無駄遣いしちまったとこだしな。今回も一位は俺に譲ってくれるんだろ?」
やっぱり私の一方的な片思いだったらしい。
けれど、それは高校生にとって切実な死活問題だ。理由が理由だけに申し訳なさもあるけれど。
受け取ったビニール袋には、靴下だけでなく折りたたみ傘と熱い缶コーヒーが入っていた。私は新品のふわりとした生地に足を通してから、彼を見つめ返した。
「やだ。絶対負けないから」
「そうこなくっちゃな」
ずるい。
泥に汚れた制服の裾が、今は少しだけ愛おしい。




