黄色のない世界
はじめてレモンを見た時、朝倉ユイは泣きそうになった。
テレビの中だった。
海外の古い映画。
画質は悪く、 字幕もずれていて、 誰も真面目に見ていない深夜番組。
けれどその映像の中で、 テーブルの上に置かれていた果物だけは、 異様なくらい鮮明だった。
黄色かった。
眩しいくらい。
「……なに、これ」
ユイは思わず呟いた。
細長い。
表面が少しボコボコしている。
果物。
たぶん。
すると画面の中の男が、それをナイフで切った。
瞬間。
部屋の空気が変わった気がした。
酸っぱそうな顔。
炭酸水。
魚料理。
透明なグラス。
全部が妙に美味しそうに見える。
『レモンを絞ってくれ』
字幕が出た。
「レモン……」
聞いたことのない単語だった。
翌日。
ユイは学校で友達に聞いた。
「ねえ、レモンって知ってる?」
「なにそれ」
「ゲーム?」
「海外のバンド名とか?」
誰も知らなかった。
先生ですら。
家に帰ると、 ユイは父に聞いてみた。
「お父さん、レモンって知ってる?」
父は数秒黙ったあと、 静かに新聞を置いた。
「……どこでその言葉を聞いた」
「映画」
「もう言うな」
声が妙に低かった。
「え?」
「その言葉は忘れろ」
「なんで?」
「いいからだ」
父はそれ以上話さなかった。
おかしかった。
ネットで検索しても出てこない。
レモン。
檸檬。
れもん。
全部ゼロ件。
まるで最初から存在しないみたいに。
三日後。
ユイは図書館の閉架書庫で、 一冊の古い辞典を見つけた。
昭和五十八年発行。
ページは黄ばんでいた。
そして。
「れ」の欄。
そこだけが、 カッターで切り取られていた。
「……なにこれ」
不自然だった。
けれど。
切断面の奥に、 わずかに文字が残っていた。
『レモン――柑橘類』
その瞬間。
図書館の電気が落ちた。
真っ暗。
そして、 書庫の奥から音がした。
コツ。
コツ。
コツ。
誰かが歩いてくる。
「だ、誰?」
返事はない。
代わりに。
暗闇の中で、 小さな黄色だけが浮かんでいた。
月みたいに。
不自然に。
鮮やかに。
「やっと見つけた」
女の声だった。
「“レモン”を覚えている人」
次の瞬間。
非常灯が点滅する。
赤。
黒。
赤。
黒。
そのたびに、 黄色い果実だけが浮かび上がった。
そしてユイは見る。
その果実の表面に、 無数の文字が刻まれていることを。
『消去対象』
ユイは逃げた。
本能だった。
だが背後から女の声が追ってくる。
「知ってしまったんだね」
「この世界には、本当は――」
ガンッ!!
書庫の扉が閉まる。
ユイは転びながら廊下へ飛び出した。
心臓が痛いほど鳴っている。
意味がわからない。
レモンってなんなんだ。
どうしてみんな知らないんだ。
どうして。
どうして。
その夜。
冷蔵庫を開けたユイは凍りついた。
牛乳。
卵。
麦茶。
その奥。
見たことのない黄色い果物が一つだけ入っていた。
小さな紙が貼られている。
『もしもこの世にレモンがなかったら』
『あなたは幸せでしたか?』




