第04話 リンクの上の別人
行けたら、と言ったくせに――結局俺は、土曜の昼すぎには電車に乗っていた。
秋元から送られてきたメッセージは、必要最低限そのものだった。
会場名と時間、それから最後に一言だけ。
『無理しないでください』
来てほしいと言っておいて、その付け足しはずるいと思う。
断ってもよかったのに、と思いながらスマホの画面を消す。
揺れる車内で窓の外を見ていると、見慣れない景色が流れていく。
駅前の商店街を抜けて、住宅街が続いて、その先に少し大きなスポーツ施設が見えてくる。
フィギュアスケートの試合なんて、生で見るのは初めてだった。
テレビで流れていれば眺めることはある。
でもルールもよく分からないし、ジャンプの種類なんて言われても区別はつかない。
綺麗だな、とか、転んだら痛そうだな、とか、その程度の感想しか持ったことがない。
だから本当は、俺なんかが見に行ってもいいのかとも思った。
有名な選手の試合を。
秋元雄哉の滑りを。
会場に入った瞬間、空気がひやりと変わる。
思わず肩をすくめてしまった。
ロビーのざわめきとは違う静けさが、扉の向こうに広がっておr、リンク独特の冷気と、少し乾いたような匂い、白く磨かれた床――遠くから聞こえてくる音楽とアナウンスの反響。
それだけで、学校とはまるで別の場所に来た気がした。
受付の近くでパンフレットをもらって、中を開く。
選手一覧のところに、秋元雄哉の名前は当然みたいに載っていた。
写真つきで、所属クラブ名まで書かれている。
学校の昇降口で靴紐がほどけていた後輩と、パンフレットの中の選手名がどうしても結びつかない。
観客席に座ってしばらくすると、リンクの上ではすでに次の組のウォーミングアップが始まっている。
細いブレードが氷を削る音が、思ったよりはっきり聞こえる。思っていたより近くて、思っていたより静かで、思っていたより緊張する場所だった。
秋元はすぐには見つからなかった。
似たような衣装を着た選手が何人も滑っていて、どれが誰なのか分からない。
ただ、みんな細くて軽くて、氷の上を滑るたびに普通の床を歩くのとは違う生き物みたいに見えた。
――やっぱり、俺とは関係ない世界だと思う。
そんなことを考えていた時、不意に観客席の少し前で、隣の席に座った女性の二人が小さく声を上げた。
「あ、秋元くんだ!」
「今日も仕上がってるね~」
二人のやり取りの声を聞いて、急いで視線を向ける。
その視線の先を追って、ようやく分かった。
リンクサイドに立っている一人の男。
黒っぽい練習着の上からジャケットを羽織って、コーチらしい大人と短く言葉を交わしている。
間違いなく、秋元だった。
学校で見る制服姿よりずっと細く見える。
けれど頼りない感じはなくて、むしろ無駄なものを削ぎ落としたみたいな鋭さがあった。
髪を軽く整えて表情を消したままリンクを見つめている横顔は、同じ人間なのに少し遠い。
昇降口で靴紐を見下ろしていたときとは、立っているだけで別人みたいだった。
ふっと喉が渇いてしまう。
緊張してるのは俺の方だ、と思った。
やがてアナウンスが流れて、選手が一人ずつ名前を呼ばれる。
秋元雄哉の名が会場に響いた時、客席のあちこちから小さな拍手が起きた。
知っている人は知っている、そういう選手なんだろう。
秋元はリンクの中央へ出ると、ほんの一瞬だけ周囲を見た。
その視線が客席をなぞる。
多分俺のところなんて見えていない――そう思ったのに、なぜか勝手に息が止まった。
――音楽が始まる。
その瞬間、本当に別人になった。
いや、別人というより、学校で見ていた姿のほうが何かを閉じていたんだと、そう思った。
秋元の身体が氷を蹴る。
一歩目で、空気が変わるのが分かった。
まずは速い、と思った。
テレビ越しでは分からなかった速さが、目の前でははっきり恐ろしいくらいの勢いを持っている。
白いリンクを切り裂くみたいに滑っていき、なのに動きは少しも雑じゃない。
伸びた腕の先まで神経が通っていて、全てが綺麗だった。
綺麗、なんて簡単な言葉で片づけていいのか分からないくらい。
跳んだ、と思った時にはもう空中にいて、降りた瞬間にまた流れるように次へつながる。
音楽に合わせて、でも音楽に使われているわけじゃない。
自分の方が音を引っ張っているみたいに見える。
学校での秋元は、いつも少し眠そうで、どこにも焦点が合っていないみたいだった。
なのに今は違う。
氷の上のあいつは、何もかもを見ている顔をしていた。
強くて、冷たくて、息を呑むほど綺麗で、でも同時に少しだけ怖い。
感情を隠しているんじゃない。
むしろ逆だ。
さらけ出しすぎていて、目を逸らしたくなるくらいだった。
なんでそんな風に滑れるんだろう?
なんで学校では、あんな顔をしてるんだろう?
分からないまま見つめているうちに、あっという間に演技は終盤へ差しかかっていた。
素人の俺にも、ミスらしいミスがないことくらいは分かる。
観客席の空気が少しずつ高まっていく。
最後のポーズで音が止んだ瞬間、会場に拍手が広がった。
俺も遅れて手を打つ。
手のひらに響く音がやけに現実的なのに、頭の中だけが追いつかなかった。
「……すご」
小さく漏れた声は、自分でも驚くほどかすれていた。
言葉がそれしか出てこない。
すごい、とか、綺麗、とか、そんなありふれたものしか。
けれど本当はもっと別の何かだ。
息が詰まる感じ。胸の奥がざわざわして、目が離せなくて、それなのに見ているのが少し怖い。
あんな風に何か一つに全部を懸ける人間を、俺は多分今まで近くで見た事がなかった。
兄貴は目立つし、何をしてもそつなくこなす。
でも秋元のそれは、器用とか華やかとか、そういうものと少し違う。
もっと切実で、もっと危うくて、だからこそ綺麗だった。
拍手の中で、秋元は一礼してリンクサイドへ戻る。
そこでコーチらしい男性と言葉を交わしていた。
表情はもう落ち着いていて、さっきまでの熱が嘘みたいに消えている。
その切り替わりにさえ、少しだけゾっとする。
同じ人間の中に、こんなにも差があるものなんだろうか。
演技後の点数が表示されると、客席がまた少しざわついた。
いい点なんだろう。周りの人たちが頷いたり、パンフレットに何かを書き込んだりしている。
俺には詳しいことは分からない。
分からないくせに、見てしまった、と思った。
学校でぼんやりしている後輩の奥に、こんなモノがあるなんて。
何組かあとの選手まで見ていたけれど、正直あまり頭に入ってこなかった。
さっきの演技が残りすぎて、うまく切り替えられない。
秋元の滑りだけが妙に鮮やかで、他の音も景色も少し遠かった。
休憩に入って客席を立ち、飲み物でも買おうかと思ってロビーへ出たところで、不意に後ろから名前を呼ばれた。
「――作倉先輩」
振り返ると、そこに秋元がいた。
ジャケットを羽織ったまま、汗も引ききっていない顔で立っている。
髪が少しだけ乱れていて、それがリンクの上の鋭さをまだ少し残していた。
「……え」
「来てくれたんですね?」
その声は、学校で聞くのと同じ低さだった。
同じなのに、ついさっきまでの演技を見てしまったせいでうまく結びつかない。
「いや、まあ……行けたらって言ったし」
「はい」
秋元は短くうなずく。
それから、ほんの少しだけ視線を細めた。
「どうでしたか?」
「え、どうって……」
素直に言えばいいのに、言葉がうまく出てこない。
すごかった。
綺麗だった。
別人みたいだった。
怖いくらいだった。
頭に浮かぶものはたくさんあるのに、どれもそのまま口にするのが気恥ずかしい。
なんだか簡単に言ってしまいたくないような気持ちもあった。
結局、俺は少し迷ってから言った。
「……思ってたより、ずっとすごかった」
「思ってたより」
「いや、悪い意味じゃなくて」
「分かってます」
秋元はそこで、ほんの僅かに口元をゆるめた。
学校で見たことがないくらい自然な、でもすぐ消えるような薄い笑みだった。
「先輩、ちゃんと見てくれた顔してます」
「何それ」
「分かるので」
またそういう事を当然みたいに言う。
けれど今は、昨日までほど軽く聞き流せなかった。
氷の上であんな顔をしていたやつに見つめられると、視線ひとつにも妙な重みがある。
「……秋元、お前」
「はい」
「学校と全然違うんだな」
ぽろっとこぼすと、秋元は少しだけ黙った。
ああ、変なこと言ったかもしれないと思った時、秋元は静かに答えた。
「……そうかもしれません」
「そうなのか?」
「ええ、氷の上のほうが、楽です」
「楽?」
「考えなくていいので」
その言い方は平坦で――でも、どこか引っかかる。
考えなくていい、というのがどういう意味なのか、すぐには分からない。
学校生活のことか、人付き合いのことか、それとももっと別の何かか。
俺が返せずにいると、少し離れたところから「雄哉」と呼ぶ声がした。
振り向くと、さっきリンクサイドにいたコーチらしい男性がこちらを見ていた。
三十代後半くらいだろうか?
厳しそうな目つきで、けれど秋元を急かしているというよりは確認している感じだった。
「……行けよ」
「はい」
秋元は一度そちらを見てから、また俺に向き直る。
「来てくれて、よかったです」
「……そっか」
「先輩がいたので」
その言葉に、心臓が少しだけ変な音を立てた。
深い意味なんてないはずだ。
ただ、見に来てほしいと言われて、本当に来た――それだけのことだ。
なのに、秋元の声は妙にまっすぐだった。
俺だけが勝手に気にしているみたいで、少し困る。
「じゃあな。次もあるんだろ?」
「はい、あとで帰ります」
「それ報告する必要ある?」
「ええ、あります」
「なんで」
「……なんとなく」
少しだけ間を置いてそう言うところがずるい。
はい、ともう一度だけうなずいて、秋元はコーチのほうへ戻っていった。
その背中を見送ってから、俺はロビーの自販機でスポーツドリンクを買う。
冷たいはずなのに、飲んでもあまり落ち着かなかった。
観客席へ戻る途中、通路のところで誰かに声をかけられた。
「――秋元の知り合い?」
突然声をかけられたので振り向くと、高校生くらいの背の高い男子が立っていた。
ジャージ姿で、どこかリンクの空気に馴染んでいる。
顔立ちは派手ではないけれど、目がよく笑う人だった。
「え、まあ……学校の先輩です」
「ああ、やっぱり。見たことない顔だったから」
その人は面白そうに笑って、少しだけリンクのほうへ視線をやった。
「珍しいな、雄哉が学校の人呼ぶの」
「そうなんですか?」
「うん。ていうか、そもそもあいつ、学校の話ほとんどしないし」
俺は少し戸惑ったまま、「そうなんですね」と返す。
初対面の相手に対して、向こうはずいぶん気さくだった。
「俺、榊原。クラブの先輩」
「あ、作倉です」
「作倉、ね」
その呼び方に少しだけくすぐったさを覚える。
榊原さんは軽く肩をすくめた。
「雄哉、今日わりと機嫌いいんだよね」
「……そうなんですか?」
「うん。分かりにくいけど」
分かりにくいのは、その通りだと思う。
「もともと実力はあるし、滑りも安定してる。でも今日はいつもより張ってないっていうか」
「張ってない」
「力みすぎてない、って感じかな。まあ、俺はコーチじゃないから適当だけど」
言いながら、榊原さんはちらっと俺を見た。
「お前が来てるからじゃない?」
冗談めかした口調だった。
でも俺は、うまく笑えなかった。
「そんなこと、ないと思います」
「どうかな」
それ以上は言わずに、榊原さんは「じゃ、またどっかで」と手を振って去っていく。
多分、次の出番か何かがあるんだろう。
一人残されて、俺はもう一度リンクを見た。
白い氷の上に、さっきの残像がまだ残っている気がする。
先輩来てるからじゃない。
そんなわけがない、と思う。
この前までほとんど他人だった相手だ。
少し世話を焼いて、少し話して、その延長で今日ここにいるだけ。
そんな存在が、あんな選手の演技に影響するなんて、あるはずがない。
なのに――さっき秋元が言った「先輩がいたので」という言葉だけは、なかなか頭から消えなかった。
試合がすべて終わって会場を出るころには、外はもう夕方の色に変わっていた。
空気は少しぬるくて、リンクの冷たさがまだ服の内側に残っているみたい。
駅へ向かう道すがら、スマホが震える。
秋元からだった。
『帰れましたか?』
それを見て、思わず笑ってしまう。
帰れましたか、じゃないだろ。
こっちは一人で電車にも乗れるし、靴紐だって結べる。
そう思うのに、画面を見ていると少しだけ気が緩む。
『今から帰る』
と打って、少し迷ってから、もう一文足した。
『今日はすごかった』
送信すると、すぐに既読がついた。返事も早かった。
『ありがとうございます』
『先輩に見てもらえてよかったです』
たったそれだけの文字なのに、また胸の奥が落ち着かなくなる。
電車がホームに入ってくる音がして、俺はスマホをポケットにしまった。
――秋元雄哉は、有名な選手だった。
氷の上では、息を呑むほど綺麗で、触れたら切れそうなくらい鋭かった。
学校で見ていた後輩の姿は、その一部でしかなかったんだと今日知った。
そして多分知ってしまった以上、もう昨日までみたいには見られない。
ただの変な後輩――そう思っていた輪郭が、もう崩れ始めている。
電車の窓に映った自分の顔は、どこかぼんやりしていた。
怖いほど綺麗だ、と思った。
あんな風に感じたのは初めてで、その理由を考えるのが少しだけ怖かった。
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