第03話 有名人
秋元雄哉は、その日もいた。
もはや驚くのもどうかと思うくらい自然な顔で、二時間目と三時間目の間の休み時間、二年の廊下の端に立っていた。
窓から差し込む光の中で、ぼんやり外を見ている。周りのやつらがちらちら振り返るのも気にしていない。
あいつ、絶対目立つのに自覚ないんだろうなと思う。
「……何だよ?」
声をかけると、秋元はゆっくりこっちを見た。
「先輩……会えました」
「会いに来たの?」
「はい」
なんのためらいもなく言われて、言葉に詰まる。
昨日の三沢じゃないけど、そういうことをあまりに自然に言うから調子が狂う。
人懐こい笑顔で言われるならまだ分かる。
こいつの場合、相変わらず熱の低い顔のままだから、なおさら本気なのか冗談なのか判断がつかない。
「で、今日は何の用」
「世界史のプリント、なくしました」
「さすがにそれは担任かクラスのやつに言えよ」
「クラスの人、今いません」
「なんで」
「移動教室です」
「お前は?」
「ちょっと遅れました」
それで二年の廊下に来る流れがいまだに分からない。
俺がため息をつくと、秋元はそれを気にした様子もなく続けた。
「先輩なら、どうにかしてくれるかと」
「俺、便利屋じゃないんだけど」
「知ってます」
「知ってて来てるのが怖いんだよ」
そう言いながらも、結局俺は職員室前の予備プリント置き場を教えてしまう。
秋元は「ありがとうございます」とだけ言って、その場を動こうとしなかった。
「……行かないの?」
「場所、もう一回お願いします」
「聞いてなかったのかよ」
思わず声が少し大きくなる。
秋元は少しだけまばたきをしただけで、悪びれた様子はなかった。
「先輩の声、聞いてると安心して、たまに途中が抜けます」
「なんだよそれ」
「たぶん、そういう感じです」
「その、多分やめろって昨日言っただろ」
俺が眉を寄せると、秋元はほんの少しだけ首をかしげた。
その仕草に悪気はないんだろうけど、やっぱり変なやつだと思う。
場所をもう一度教えてやると、今度こそ秋元は「分かりました」と頷いた。
けれど去り際、ふと思い出したように言った。
「先輩」
「何」
「昼休み、いますか?」
「は?」
「購買、今日は最初から並びたいので……」
「俺を目印にするな」
即答すると、秋元は少しだけ考えてから、「でも先輩、見つけやすいです」と言った。
「別に目立たないけど」
「分かります」
何が分かるのか聞く前に、秋元は廊下を歩いていってしまった。
残された俺は、妙に落ち着かない気分のまま教室へ戻る。
席に着くなり、前の席のやつが振り返った。
「なあ、今の一年のやつ、誰?」
「後輩」
「いやそれは見りゃ分かるけど。すげえ顔いいな」
「……そうだな」
やっぱり目立つんだ、と今さら思う。
秋元自身は、周りに見られることなんてまるで気にしていないみたいだけど。
▽
四時間目が終わって昼休みになると、案の定というべきか、本当に秋元は購買前にいた。
昨日と違って、今日はちゃんと列の最後尾に並んでいる。
けれど周りの勢いに押されて、どう見ても流れについていけていなかった。
背中を小さく丸めて、視線だけが定まらない。
思わず笑いそうになる。
いや、笑ってる場合じゃないのかもしれないけど、あまりにそのまますぎた。
「秋元」
「先輩」
俺を見つけた瞬間、秋元の目が少しだけ動く。
表情は変わらないのに、それだけでさっきより生き返ったみたいに見えるから不思議だ。
「ちゃんと並んでるじゃん」
「はい」
「何買うか決めた?」
「まだです」
「だめだろ」
「多すぎて分かりません」
「パンだよ、大体」
「甘いのとしょっぱいの、どっちが昼向きですか」
「知らないよ、好みだろ?」
後ろにいた三沢がそれを聞いて吹き出した。
「なにこの後輩、マジでなんもできないじゃん」
「できない」
「お前が答えるのかよ」
三沢は呆れた顔で秋元を見る。
秋元も一応そっちを見たが、すぐ俺に視線を戻した。
そのあからさまに、三沢が「すげえな」と小声でつぶやく。
「伸二、もうお前が選んでやれよ」
「なんで俺が」
「だってこいつ無理そうだし」
「……秋元、惣菜パン食える?」
「食べられます」
「じゃあ焼きそばパンかカレーパン」
「先輩は」
「俺?」
「どっちが好きですか?」
「別に、どっちも普通……だけど」
「じゃあ先輩と同じにします」
「だからなんでそうなるんだよ!」
三沢の肩がまた揺れる。
結局、俺が焼きそばパンを取ると、秋元も同じものを取った。
会計を済ませたあと、当然みたいに俺の隣に並ぶ。
昨日と同じ、窓際の場所へ向かう流れになっていて、自分でももう止めるのを諦め始めているのが分かった。
「……お前、友達いないの」
「います」
「ほんとかよ」
「クラスに」
「今ここに来てる時点で説得力ないんだけど」
「先輩がいるので」
「答えになってない」
焼きそばパンの袋を開けながらそう言うと、秋元は少しだけ視線を落とした。
「……先輩の近く、静かでいいです」
唐突なその言葉に、俺の手が止まる。
周りでは昼休みのざわめきが続いている。
笑い声、足音、誰かが机を引く音。
確かに教室の中よりは静かだけど、特別落ち着くような場所でもない。
ただの渡り廊下の窓際だ。
なのに、秋元は本当にそう思っているみたいだった。
「……変なこと言うな」
「変ですか?」
「……ちょっと」
そう答えるのが精一杯だった。
パンを食べ終わる頃、三沢がふいに「あ」と声を上げた。
「そういえば名前聞いてから気になってたんだけど、もしかしてお前、【あの】秋元雄哉?」
「はい」
秋元は平然とうなずく。
俺はその反応の速さに少し驚いて、三沢のほうを見る。
「知ってんの?」
「知ってるっていうか、聞いたことある。フィギュアのやつじゃね?」
その一言で、頭の中にぼんやりしていた何かが少しだけつながる。
――フィギュア。
そう言われれば、名前に聞き覚えがある気もした。
テレビで見たことがあるのか、ニュースのスポーツ欄で流れていたのか、その程度の曖昧さだったけど。
「……有名なの?」
俺が聞くと、三沢は「いや、けっこう」と言ってスマホを取り出した。
昼休みで先生もいないのをいいことに、手早く検索する。
「ほら、これ」
画面を覗き込むと、ジュニア大会の記事が出てきた。
そこに写っているのは、見間違えようもなく秋元だった。
学校にいるときより少しだけ年下に見える写真なのに、印象はまるで違った。
氷の上で片腕を伸ばして、まっすぐ前を見ている。
今目の前にいる無気力そうな後輩とは別人みたいに、鋭くて綺麗だった。
「……うわ、本当だ」
思わず小さく声が出る。
優勝、表彰台、有望選手、強化候補。
並んだ文字を追ううちに、なんとなく距離が開いていく感じがした。
秋元は記事の写真を見られていても特に反応しなかった。
まるで気にしていないというより、慣れているみたいだった。
「すげえじゃん、お前」
「そうでもないです」
「いや、そうでもあるだろ。全国とか出てんじゃん」
「はい、出てます」
「そこは否定しないのかよ」
三沢が笑う。
だけど、俺は笑えなかった。
すごい、と思ったのは本当だ。
昨日から変な奴だとは思っていたけど、それがこうして形のある実績として目の前に出されると、急に現実味が増す。
同じ学校の後輩――だけど、多分俺とは関係ない世界の人間。
兄貴みたいに目立つやつを見るときと少し似ている感覚だった。
眩しいものを前にすると、近くにいるほど自分の平凡さがはっきりする。
俺は別に、自分が特別じゃないことに今さら傷ついたりはしない。
そういう立ち位置に慣れている。
誰かの隣で、目立たないほうにいること。
選ばれる側じゃなくて、見ている側にいること。それが普通だ。
「――先輩」
呼ばれて顔を上げると、秋元がこっちを見ていた。
「なんでそんな顔するんですか?」
「え」
「遠くなりましたね」
「何が……」
「先輩の顔」
秋元はそれだけ言って、視線を逸らさない。
どきりとしたのは、たぶん図星だったからだ。
自分ではそこまで露骨に態度を変えたつもりはなかった。
けれど、記事を見た瞬間に、どこかで線を引いたのかもしれない。
この後輩は、自分なんかが気安く世話を焼いていい相手じゃないんじゃないかと。
「別に……そんなつもりじゃ」
「――そうですか」
淡々と返されて、余計に落ち着かなくなる。
三沢がその空気を読んだみたいに、わざと明るく言った。
「いやーでも、すげえな。リンクの上じゃキラキラしてんだろ?」
「……たぶん、してるんじゃないですか」
「自分で言うのかよ」
少し遅れて、俺も笑った。
秋元は相変わらず真顔だったけど、さっきみたいな張りつめた感じは少しだけ薄れていた。
▽
昼休みが終わって、教室へ戻る途中だった。
三沢が俺の肩を軽くつつく。
「なあ」
「何」
「お前、分かりやす」
「は?」
「有名人って知った瞬間、ちょっと引いただろ」
「……別に」
「別に、じゃない顔してたって」
否定しかけて、やめた。
三沢は昔からこういう時、変に鋭い。
「だって」
「うん」
「なんか、世界違うじゃん」
口にしてから、自分でもひどくありきたりなことを言っていると思った。
でも、それが一番近かった。
教室のざわめきの中、三沢は少しだけ真面目な顔をした。
「まあ、違うんだろうけどさ」
「だろ」
「でもあいつ、昼飯買えないんだぞ?」
「……違う意味でな」
「だろ?」
思わず吹き出しそうになる。
「有名人とか天才とか知らんけど、お前の前だとただの手のかかる後輩じゃん」
「それはそうかもしれないけど」
「それで十分じゃね?」
三沢の言うことはいつも半分くらい適当で、たまに妙に核心をつく。
それで十分。
そうなのかもしれない。
けれど俺の中にはまだ、さっき見た写真の印象が残っていた。
氷の上でまっすぐ前を見る、別人みたいな秋元。学校でぼんやり立ち尽くしている姿とはまるで違う、手の届かない場所の顔。
ああいうものを持ってるやつは、やっぱり眩しい。
俺のいる場所とは、最初から違う。
そんなことを考えながら席に着いた時、教室の後ろのドアから誰かが顔を出した。
一年のネクタイ、見なくても分かる。
「――先輩」
教室の何人かが振り向く中で、秋元はまっすぐ俺を見ていた。
「放課後、少し時間ありますか?」
ざわ、と周りの空気が動くのが分かった。
二年の教室に一年の目立つ後輩が来て、よりにもよって俺を呼ぶ。
どう見ても人目を引く状況だ。
「……何の用?」
「言い忘れていたんですけど、俺、明日試合なので」
「試合?」
俺が聞き返すと、秋元は小さくうなずいた。
「近いところであるので、来られるなら……見に来てほしいです」
教室が妙に静かに感じた。
多分実際にはそんなことない。
周りでは普通に話し声もしているし、誰かが椅子を引く音もしている。
ただ、その一言だけがやけに真っ直ぐ耳に残った。
――見に来てほしい。
有名な選手が、この前会ったばかりのただの先輩に。
「なんで俺」
「先輩だから」
「理由になってないだろ?」
「俺は、先輩に見に来てほしいです。もし可能なら頭撫でてほしいです」
「何故!?」
何故俺が頭を撫でなければならないのか?
訳が分からないまま驚いてしまった。
俺は少し返事に困って、秋元の顔を見た。
いつもの無表情――けれどその目だけは、冗談でも社交辞令でもない目をしていた。
断ろうと思えば断れたはずだ。
部活があるとか、用事があるとか、いくらでも言い訳はできる。
なのに口をついて出たのは、そんな言葉じゃなかった。
「……場所、送れよ」
「来てくれますか?」
「行けたら」
「分かりました」
その返事がやけに早くて、もう断られない前提だったんじゃないかと思う。
秋元は「じゃあ、あとで」と言って引っ込んだ。教室のざわめきが戻ると同時に、何人かの視線が俺に集まる。
「作倉、お前何者?」
「知らねえよ……」
三沢がにやにやしながら机に肘をついた。
「ほらな。ロックオン」
「だから言い方」
「しかも試合のお誘いじゃん。お前、特別じゃね?」
「やめろって」
そう言いながらも、胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。
――特別、なんて言葉は似合わない。
俺はそんな側の人間じゃない。
だけど、あの後輩はどうしてか当然みたいに俺を選ぶ。
困ったときも、昼飯のときも、そして試合を見てほしい相手としても。
それが単なる気まぐれなのか、深い意味なんてないのか、今はまだ分からない。
ただひとつ確かなのは、明日もし本当にリンクへ行ったら、昨日までとは少し違うものを見てしまう気がするということだった。
教室の窓から差し込む春の日差しは明るいのに、胸の内側だけが妙にざわつくのだった。
読んでいただきまして、本当にありがとうございます。
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