第02話 先輩、また会いました
翌朝、教室に入って一時間目の準備をしている時、鞄の中から英語のワークが見つからなくて少し焦った。
昨日のうちにやったはずなのに、机の上に出した記憶がない。
家に置いてきたかと思ってもう一度鞄をひっくり返して、やっと教科書の間から見つけた時には、始業のチャイムが鳴る直前だった。
「朝からなにしてんだよ」
隣の席であるクラスメイトで友人の三沢陸が笑う。
「ワークなくしたかと思って……」
「お前、そういうとこたまに雑だよなぁ」
「たまにじゃなくて、けっこう、だろ」
「おい、自分で言うなよ」
軽口を返しながら椅子に座る。
窓の外は、昨日の雨が嘘みたいに晴れていた。春の朝の光は明るすぎて教室の白い壁まで少し眩しく見える。
昨日の後輩の事を思い出したのは、その時だった。
――秋元雄哉。
一年一組。傘を忘れて、靴紐も結ばず、やる気がないとか平然と言う、感じの悪い綺麗な後輩。
多分、もう関わることはないだろうと思っていた。
学校なんて狭いようで広い。
学年が違えば接点なんてほとんどないし、名前を知ったくらいで何かが始まるわけでもない。
そう思っていたのに。
昼休み、購買でパンを買って戻ろうとした時に渡り廊下の窓際に見覚えのある横顔があった。
無表情で立っているだけなのに、妙に目立つ。
――秋元だった。
一年の制服のまま、ぼんやり外を見ている。手ぶらだった。
昼休みの購買前はいつも混んでいて、パンや焼きそばを抱えたやつらがひっきりなしに行き交っている。
その流れの中で、秋元だけが取り残されたみたいに静かだった。
思わず足を止める。
「……何してんの?」
声をかけると、秋元はゆっくりこっちを向いた。
やっぱり昨日と同じ、熱の低い顔だった。
「……先輩」
「いや、そうだけど。昼飯は?」
「……買えませんでした」
「は?」
聞けば、購買の列に並んだはいいけれど、前のやつらの勢いに押されているうちに、何を頼むつもりだったか分からなくなって結局そのまま列を離れたらしい。
「そんなことある?」
「ありました」
「いや、あるのかもしれないけど……」
思わずパンの袋を持ったまま固まる。
秋元は本気で困っているようにも見えないのに、本当に昼飯を逃したらしかった。
「弁当は?」
「ないです」
「朝、食べた?」
「食べてません」
「……なんで?」
「時間がなくて」
「傘忘れるやつが時間管理まで壊滅的なのかよ……」
声に出してから、さすがに言いすぎたかと思ってしまった。
けれど秋元は気にした様子もなく、ただ俺の手元を見た。
正確には、購買袋の中身を見ていた。
クリームパンと卵サンドと、ついでに買った紙パックのミルクティー。
視線があまりにまっすぐだったから、少しだけ居心地が悪い。
「……食いたいのか?」
「……ちょっと」
「ちょっとって顔じゃないだろ」
「すごく」
抑揚のない声で言い切られて、俺は額を押さえたくなった。
どうして昨日会っただけの後輩に、こんなに当然の顔で見つめられなきゃいけないんだろう。
でも不思議と、何故なのかわからないが放っておけない。
というか、ここでそのまま見なかった事にしたら、多分この後輩は昼休みを空腹のまま終える。
見た目だけならいくらでも人に構われそうなのに、実際にはこんな風に一人でぽつんとしているのが妙にちぐはぐだった。
俺は小さくため息をついた。
「クリームパンでいい?」
「いいです」
「ほら」
そのままクリームパンを差し出すと、秋元は少しだけ目を瞬いた後に両手で受け取った。
「……もらっていいんですか」
「今さらそこ聞く?」
「ダメなら返します」
「いや、やるよ。もう見ちゃったし」
袋を開ける動作が、意外なくらい不器用だった。
指先が綺麗なのに、包みを破るのに手間取っている。
昨日の時点でだいぶ変なやつだと思っていたけど、今日でその認識は深まった。
「……先輩」
「なに」
「ありがとうございます」
「うん」
秋元はそのまま一口食べて、ほんの少しだけ目を伏せた。
大げさに喜ぶわけでもない。
けど、ちゃんと食べてるだけで少し安心する自分がいて、なんだそれと思う。
「……先輩は食べないんですか?」
「俺はこっちがある」
「足ります?」
「足りるよ」
卵サンドを軽く持ち上げて見せると、秋元はじっとそれを見る。
まさかそれも欲しいのかと警戒したら、さすがに違ったらしい。
「昨日も思ったんですけど」
「何?」
「先輩、面倒見いいですね」
「別に好きで見てるわけじゃないぞ?」
「じゃあ、嫌々ですか」
「……半分くらいは」
本当は、半分どころかもっと気になっているくせに、ついそう言った。
秋元は「そうですか」とだけ答えた。
相変わらず、感情が読み取りにくい。
けれど、不快そうには見えなかった。
そのまま俺たちは渡り廊下の窓際で立ったまま昼を済ませた。
と言うより秋元がクリームパンを食べ終わるのを、なぜか俺が見届ける形になった。
教室に戻る途中、ふと気づく。
「そういえば……お前、なんで二年の校舎にいんの?」
「先輩を見かけたので」
「……は?」
「さっき、下から階段上がっていくの見えました」
あまりにあっさり言うから、理解が一拍遅れる。
「それで来たの?」
「はい」
「何しに?」
「話しかけようかなと……」
「購買行けよ」
思わず即答すると、秋元は少しだけ首をかしげた。
「行きました」
「結果があれだろ?」
「そうですね」
淡々と肯定されて、言葉に詰まる。
この後輩、どこまで天然で、どこまで確信犯なんだろう。
人懐こいわけじゃない。むしろかなり無愛想だ。
それなのに、距離の詰め方だけ妙におかしい。
昨日、少し親切にしただけだ。
それだけで、今日もう俺を見つけて話しかけに来るものなのか。
階段の踊り場で別れようとした時、秋元がふと思い出したみたいに口を開いた。
「……先輩」
「今度は何」
「次の現代文って、教科書いりますか?」
「……は?」
「教室に置いてきました」
「取りに戻れよ」
「もう移動が始まってるので」
「知るか!」
突き放したはずなのに、秋元は少しも怯まなかった。
「貸してもらえますか?」
「……なんでそんな当然みたいに言うの?」
「先輩、たぶん貸してくれるので」
「その自信どっから来るんだよ……っていうか、俺二年、お前一年だろ。教科書違うから貸しても意味ないぞ」
そう言うと、秋元は一度だけ瞬きをした。
「……違うんですか?」
「違うよ。学年上がれば内容も変わるし」
「じゃあ、見ても分からない」
「当たり前だろ!」
自分でも呆れるくらい簡単に、俺は続けていた。
「分かんないとこあるなら、先生に聞くか、同じ一年のやつに見せてもらえよ。一緒に確認するくらいなら付き合うけど」
秋元は少しだけ黙ってから、「ありがとうございます」と言った。
その時、ほんの少しだけ口元がゆるんだ。
多分、笑ったんだと思う。
ほとんど分からないくらいの変化なのに、それだけで顔の印象が変わる。
冷たく整っていたものが一瞬だけやわらかくなって、やっぱり目を引くやつだなと思ったまま、昼休みが終わった。
▽
放課後、次の授業の準備をしている時も、秋元はまた現れた。
二年の廊下の端に当たり前みたいに立っていたので、最初は見間違いかと思ったくらいだ。
「…………今度は何?」
「数学のノート、どこまでやればいいのか分かりません」
「だから、それは同じ一年のやつに聞けって。俺、二年だし、クラスも違うから分かるわけないだろ」
「聞ける人がいません」
「昼休みも思ったけど、お前、学校でどうやって生きてるの」
「静かに」
「生き延びる方向の答えだったな……」
俺が額を押さえると、ちょうど通りかかった三沢が足を止めた。
「え、なに、お前。誰?」
三沢の視線が秋元に向く。
秋元はそちらを一瞬見ただけで、すぐまた俺に視線を戻した。
それがあんまり露骨で、三沢が片眉を上げる。
「え、無視?」
「無視じゃないです」
「じゃあなんか言えよ」
「秋元雄哉です」
「お、おう」
三沢が珍しく押されている。
俺は苦笑しながら間に入った。
「一年の後輩。ちょっと困ってるらしくて」
「ちょっとどころじゃなさそうだけど」
「俺もそう思う」
秋元は俺たちのやり取りを黙って聞いていたが、やがてぽつりと言った。
「先輩、今忙しいですか?」
「見て分かるだろ。ていうか、さっきも言ったけど、俺は二年だから一年の課題の細かいとこまでは分からない」
「じゃあ、短く聞きます」
「何を」
「どこをやればいいか、一緒に確認してください」
「……それならまあ、先生が黒板に書いてたとこ思い出せるかもしれないけど」
「お願いします」
「頼み方に迷いがなさすぎるんだよ」
俺と秋元のやり取りを見て、三沢が吹き出した。
「伸二、お前、完全にロックオンされてんじゃん」
「言い方やめろ」
「いやでも、こいつ明らかにお前しか見てなくない?」
「そういう言い方ほんとやめろ」
否定しながらも、少しだけ胸のあたりが落ち着かなかった。
――お前しか見てない。
もちろんそんな大げさな意味じゃない。
ただ、秋元が俺にばかり用事を持ってくるのは事実だった。
昨日の靴紐の件でたまたま関わっただけの相手にしては、妙にまっすぐで、妙に遠慮がない。
「一年の数学だろ。たぶん、最初の範囲だけじゃないか。次の提出って基礎問題のとこまでだったはずだし」
「基礎問題」
「だから、教科書の後ろのまとめじゃなくて、その前……分かるか?」
「たぶん」
「またその、多分やめろ」
「じゃあ、だいたい」
「もっと不安になる」
三沢が横で肩を震わせて笑っている。
秋元は真剣な顔で俺の言葉を聞いていた。
さっきまでの無気力さが嘘みたいに集中している。
睫毛の影が頬に落ちて、その横顔だけなら本当に絵みたいだった。
「……分かりました」
「ほんとに?」
「確認します」
「それが一番いい」
そう言って顔を上げた秋元は、ふと俺の首元を見た。
「先輩」
「ん?」
「ネクタイ、曲がってます」
「え」
反射的に触れてみると確かに少しずれていた。
朝慌てて締めたせいかもしれない。
「……言われるまで気づかなかった」
「直しましょうか」
「は?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
秋元は本気らしく、俺の返事も待たずに一歩近づく。
その距離の詰め方に心臓が跳ねて、俺は慌てて半歩下がった。
「いやいい、自分でやる」
「そうですか」
「お前、距離近いんだよ」
「……近いですか」
「近い」
即答すると、秋元は少しだけ考えるような顔をした。
「でも、先輩は昨日俺の靴紐を結びました」
「それとこれとは話が違うだろ?」
「そうなんですね」
「そうなんだよ」
何を納得したのかよく分からないまま、秋元は引き下がった。
その素直さも変だし、引き下がったのに目だけはまだこっちを見ているのも変だった。
三沢が俺の耳元で小さく言う。
「なあ、こいつ相当変わってんな」
「知ってる」
「しかもお前にだけ懐いてね?」
「懐いてるっていうか……たぶん便利なんだろ、俺が」
「それで嬉しそうな顔すんなよ」
「してない」
「してるって」
否定しようとして、少しだけ詰まった。
嬉しい、のかどうかは分からない。
ただ、必要そうにされると無視できない。
俺のそういう所を三沢は昔から見抜く。
秋元は俺たちのひそひそ話なんて気にも留めず、静かに口を開いた。
「先輩」
「何」
「明日の時間割、教えてください」
「それはさすがに自分で確認しろ」
「分かりました」
「……いや、そこで引くのもなんか調子狂うな」
「じゃあ教えてくれるんですか」
「なんでそうなるんだよ」
三沢がとうとう声を上げて笑った。
秋元は変わらず無表情なのに、会話の主導権だけ妙に握ってくる。
気づけばこっちが振り回されているのが悔しかった。
それでも結局、俺は一年の時間割表の貼り紙の場所を教えてやった。
秋元は「助かります」と言って、ようやく廊下の向こうへ歩いていく。
その背中を見送りながら、三沢がしみじみした声を出した。
「お前、完全に世話係じゃん」
「……やめろよ」
「いや本当に。昨日今日でそこまで使われることある?」
「使われてるって言うな」
そう言い返したものの、自分でも否定しきれなかった。
昨日、昇降口でたまたま会っただけの後輩。
それがもう今日には、昼飯の心配をして、教科書やノートの心配をして、ネクタイの曲がりまで指摘されている。
おかしいだろ、いろいろ。
なのに不思議と、嫌ではなかった。
面倒だとは思う。変なやつだとも思う。
多分、明日も何かしらやらかすんだろうな、という予感までしている。
でも、あの熱の低い目が当たり前みたいにこっちを向くたび、少しだけ放っておけなくなる。
「伸二」
「ん?」
「その顔、だいぶまずいぞ」
「は?」
「もう気にしてる顔」
三沢にそう言われて、俺は反射的に眉をひそめた。
「昨日会ったばっかの後輩だぞ?」
「そういうやつに限って、変に引っかかるんだって」
「お前、適当なこと言うな」
「適当じゃない。長い付き合いだから分かる」
からかうような口調のくせに、三沢の声は少しだけ本気だった。
俺はそれ以上返さず、窓の外を見る。
春の光のなか、グラウンドでは運動部のやつらがもう走り始めていた。
遠くで誰かが笑っていて、どこにでもある放課後の景色が広がっている。
その中に、一年の校舎へ戻っていく秋元の背中が小さく見えた。
綺麗で、無愛想で、手がかかる。
昨日の時点では、感じの悪い後輩だと思っていた。
今日の時点でも、たぶんその認識は大きくは変わっていない。
ただ一つ、変わったのは明日またあいつが俺の前に現れても、多分そんなに驚かないだろうな、と思ってしまった事だった。
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