第01話 ほどけた靴紐
青春BLをこちらで出させていただきました。
フィギュアスケート選手×平凡一般人の高校生のお話です。
四月の雨は、春のくせに少し冷たい。
朝から降りつづいていたそれは、放課後になっても弱まる気配がなくて、昇降口のたたきには濡れた傘の雫が細く線を引いていた。
部活に行くやつ、友達を待つやつ、早足で帰っていくやつ。
ざわざわした音のなかで、俺は自分の靴を履き替えながら、鞄の底に突っ込んだままだった折りたたみ傘の存在を思い出していた。
朝、家を出る時は降っていなかった。
兄貴は駅まで母さんに送ってもらっていた。
真帆は「コンビニでビニ傘買うし」と笑っていた。
柊は俺に「お兄ちゃん、傘持った?」と聞いたくせに、自分はしっかり持っていた。
俺だけが、なんとなく大丈夫だろうと思って手ぶらで来て、結局こうして帰り際に少しだけ面倒な気分になっている。
そういうところも、なんだかいかにも自分らしいと思った。
特別ついているわけでもないし、かといってものすごく不運でもない。
ただ、ちょっとだけ間が悪い。そういう普通。
靴箱の扉を閉めたとき、すぐ近くで小さく舌打ちみたいな音がした。
反射的に顔を上げると、一人の男が立っていた。
一年のネクタイをしており、顔は見覚えはない。
けど、見た瞬間に、ああ目立つだろうなと思う顔をしていた。
背はまだそこまで高くないのに、やけにすらっと見える。
雨の日の薄暗い昇降口でも、白い肌と整った横顔だけ妙にくっきりしていた。
そのクセ、酷く感じが悪そうだった。
眉を寄せて、足元を見ている。
視線の先をたどると、右の靴紐がほどけたままだった。
……それだけかよ、と思った。
いや、確かに濡れた床で踏んだら危ないけど、それにしたって、そんな世界の終わりみたいな顔をしなくてもいいだろう。
しかもそいつ、靴紐だけじゃなくて、傘も持っていなかった。
靴箱の中を開けたままぼんやり見つめていて、どう見ても途方に暮れている。
綺麗な顔をしているのに、生活の気配がまるでないかのように見えてしまった
なんとなく放っておけなくて、俺は声をかけた。
「……結べないのか?」
自分でも、初対面にずいぶん雑だと思う聞き方だった。
でもそいつは気を悪くした様子もなく、ゆっくりこっちを見た。
すごく、黒に近い目だった。
綺麗というより、冷たい色だと思った。
「……結べます」
「じゃあ結びなよ」
「……今、やる気がないです」
言い切られて、思わず黙る。
なんだこいつ?
雨のせいでじめっとした空気の中、そいつは本当に微動だにしなかった。
靴紐を前にして立ち尽くす姿が妙に本気で、冗談で言っているようにも見えない。
俺は少しだけ呆れて、それから小さく息を吐いた。
「踏んで転ぶぞ」
「そうですね」
「傘もないのか?」
「忘れました……」
「家、遠い?」
「電車です」
「じゃあなおさら困るだろ?」
「やばいぐらいに困ってます」
会話が全部、妙に平坦だった。
けれどふざけている感じもしない。
ただ、目の前の事実をそのまま口にしているだけみたいな声だ。
困っているなら何とかしろよ、と思うのに、その気力すら切れているように見える。
俺は思わずはぁ、と言いながらしゃがみこんだ。
「え」
さすがに驚いたらしく、そいつの声がほんの少し揺れる。
「えっと……先輩?」
「じっとしてろよ。すぐだから」
ネクタイで俺が二年だとわかったのだろう。
今更どうでもいいが、俺は息を吐いた後に濡れた床に膝がつくのも構わず、ほどけた紐を拾う。
指先に触れた靴は冷たかった。
なんで俺が初対面の後輩の靴紐を結んでるんだろうと思いながら、手は勝手に動く。
多分、こういうのが癖なんだと思う。
家でも学校でも、手のかかる誰かがいると、ついそっちを優先してしまう。
必要とされると断れない。
いや、必要とされる以前に、困っているのを見つけると見過ごせない。
昔からそうだ。
兄貴みたいに目立つものを持ってるわけでもないし、真帆みたいに器用でもないし、柊みたいに愛嬌があるわけでもない。
だからせめて、こういうところで役に立てたらと思うのかもしれない。
「はい、終わり」
「……ありがとうございます」
見上げると、そいつはさっきより少しだけ目を見開いていた。
表情の変化はそれだけなのに、不思議と、ちゃんと驚いているんだと分かった。
俺は立ち上がって、膝についた埃を払った。
「傘、どうすんの?」
「買います」
「金ある?」
「たぶん」
「たぶんってなんだよ」
つい笑いそうになる。
けど、相手はまったく笑わない。
その無表情が、なんとなく腹立たしかった。
助けてもらっておいて愛想のひとつもない、っていうのもある。
でもそれ以上に、この後輩はきっと、自分がどれだけ人を気にさせるか分かってない。
整った顔で、無気力そうに立っているだけで、周りが勝手に放っておけなくなる。
そういう種類の人間っている。
――俺とは違う、別次元の人間だ。
「一年?」
「はい」
「クラスは?」
「一組」
「ふうん」
それ以上、特に話すこともなかった。
俺は折りたたみ傘を開いて、昇降口の外を見る。
雨脚は少し強くなっていた。
振り返ると、後輩はまだそこにいた。
「……行かないのか?」
そう聞くと、そいつは一拍置いてから言った。
「先輩、傘ありますよね?」
「あるけど」
「……駅まで一緒に行けませんか?」
ずいぶん図々しいことを、ものすごく静かな声で言う。
普通なら断るところだ。初対面だし、こっちは善意で靴紐まで結んでやったんだし、その上相合傘みたいなことまで面倒見ろっていうのはさすがに調子がいい。
でも、そいつの顔には甘えとか媚びとか、そういうものが一切なかった。
本当に、必要だから口にしただけみたいな言い方だった。
「…………狭いぞ」
「平気です」
「俺は平気じゃないかも」
「じゃあ、少し寄ります」
そう言って、そいつはほんの少しだけ俺から距離を取った。
今のやり取りでそこを調整するのかよ、と変なところで感心してしまう。
断るタイミングを逃して、結局俺たちは同じ傘に入って校門を出た。
肩が触れないぎりぎりの距離。
だけど傘は小さいから、ときどきそいつの制服の袖が俺の腕にかすった。
雨音が近くて、会話はほとんどなかった。
横顔だけはよく見えた。
睫毛が長い、とか。肌が綺麗だ、とか。
そんなことをわざわざ考えてしまうくらいには、目を引く後輩だった。
「――名前」
沈黙に耐えかねて口を開くと、そいつは前を向いたまま答えた。
「あきもと秋元雄哉です」
「俺は作倉」
「知ってます」
「え?」
思わずそっちを見る。
秋元は、そこで初めて少しだけ俺のほうを見た。
「二年の作倉先輩」
「なんで」
「昨日、先生が呼んでたの聞きました」
それだけ言って、また前を向く。
なんだ、それだけか。
いや、それだけなんだけど、妙に引っかかる言い方だった。
まるでずっと前から知っていたみたいな自然さで名前を呼ばれて、一瞬だけ変な感じがした。
もやもやした気持ちになりつつも、いつの間にか駅前のコンビニが見えてくる。
「ここで傘買えば」
「そうします」
「じゃ」
足を止めかけた、その時だった。
「――先輩」
呼び止められて振り向く。
雨の向こうで、雄哉はさっきと変わらない顔をしていた。
けれど目だけが、少しだけ俺を捉えている気がした。
「ありがとうございました」
「……うん」
それから、少し間を置いて。
「先輩は、やさしいですね」
唐突にそう言われて、俺は曖昧に眉を寄せた。
「別に。困ってそうだったから」
「そう言うの、やさしいって言うんじゃないですか」
その言い方も、やっぱり平坦だ。
褒めているようにも、からかっているようにも聞こえない。
ただ事実を確認しているだけみたいな声。
なのに、なぜか返事に困る。
やさしい、なんて言われ慣れていないわけじゃない。
むしろよく言われるほうだ。
世話焼きだとか、気が利くとか、そういうのはだいたい俺の担当だ。
でも、それをこんなふうに真正面から言われることはあまりなかった。
「……秋元、お前さ」
「はい」
「初対面の先輩に、もうちょっと愛想よくしたほうがいいと思う」
「すみません」
「全然悪いと思ってないだろ」
「悪いとは思ってます」
「じゃあ顔に出して」
「難しいです」
少しも困っていないような口調でそう言うから、今度こそ俺は吹き出した。
秋元は笑わなかったけど、目だけがほんの少しだけ和らいだ、気がした。
「じゃあな。風邪ひくなよ」
「はい、先輩も」
それだけ言って、秋元はコンビニのほうへ歩いていった。
俺はしばらくその背中を見てから、改札へ向かった。
――多分、ただの変な後輩だ。
綺麗な顔をしていて、感じが悪くて、生活能力がなさそうで、妙に人の記憶に残るやつ。
それだけ。
それだけのはずなのに。
電車に乗って窓に打ちつける雨を見ながら、ふと、ほどけた靴紐の先を思い出していた。
(あいつ、明日ちゃんと傘持ってくるか?)
そんなことを考えてしまった時点で、たぶんもう少しだけ面倒な始まりだったのかもしれない。
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