隕石ばかりを探している
大学の研究棟の廊下は、いつも少しだけ寒い。空調のせいなのか、建物が古いせいなのかは分からない。ただ、そこを歩くとき、私は決まって六千六百万年前の地球を思い出す。
恐竜を滅ぼした隕石のことである。子どもの頃、図鑑で見た挿絵は、恐ろしいほどに劇的だった。真っ赤な空、立ち上る火柱、逃げ惑う巨大な影。世界は一瞬で終わるのだと私は信じていた。ノストラダムスの大予言なんかが当時あれば、私は間違いなく信じていただろう。
だが、大学で生物のあれこれを学ぶようになって、その物語はずいぶん地味になった。隕石は確かに落ちた。けれど、恐竜の多くはその場で焼け死んだわけではない。大気を覆った塵、長い寒冷化、枯れゆく植物、崩れていく食物連鎖。何年も、何十年も、あるいはそれ以上の時間が経って、ようやく彼らは消え去った。
つまり、彼らを追い詰めたのは爆発ではなかった。気づけもしない変化の積み重ねである。世界は、劇的な一撃よりも、静かな調整によって塗り替えられる。
私はこういう話が好きだった。
……そう信じたかったのかもしれないな。
四月、所属している研究室に新しい教授が来た。前任者が急に辞めたのだった。予算の不正だとか、派閥争いだとか、単なる定年だとか、噂は飛び交ったが、真相は分からない。私とて興味を持てるのは、自分の仕事内容に支障があるか否かだけだった。ビジネスライクの冷たい欠点である。
「今度こそ、この研究室は変わるかもな」
同期の三浦が、コンビニのコーヒーをすすりながら言った。大学のキャンパスに備え付けの、八時から十七時で終わるセブンイレブン製だ。
「大胆な改革をするって。テーマも全部見直すってさ」
まるで隕石だな、と私は思った。
人が一人入れ替わるだけで、全てが変わるという期待感が漂っていた。
新しい教授——神崎は、若かった。四十代前半の海外帰りで、メディアでもたまに見る。最初のミーティングで彼は言った。
「この研究室を、日本一にします」
その言葉はよく通る声で、少しだけ芝居がかっていた。
確かに、変化自体は起きた。研究内容は整理され、評価制度が導入され、週一の進捗報告は厳密になった。成果の出ないテーマは切り捨てられた。彼自らが各人と研究内容を詰めることも多く、前よりも室内の空気は頻繁に動くようになった。まあ、着いていけずに去った人もいるが。
それでも、一ヶ月、二ヶ月と経つうちに、私は気づいた。
研究室の空気は、劇的には変わっていない。
朝は相変わらず静かで、夜は蛍光灯が白く滲む。コーヒーの匂いと、プリンタの唸りだけに支配される。論文の締切前には誰かがため息をつく。その習慣は鳩時計のようで、決まった時期に決まったように続いていた。隕石が何かを変えたいというならば、その光景にこそ落ちるべきだと思った。神崎は確かに舵を切ったが、船体そのものは、簡単には向きを変えなかったのだ。
同じ頃、私は恋人と別れた。
理由は、はっきりしているようでしていない。大喧嘩があったわけでも、悲しい裏切りがあったわけでもない。ただ、少しずつ、会う回数が減っただけだ。メッセージの返信が遅れ、電話が短くなり、共有していたはずの将来設計が曖昧になった。
「なんか、前と違うよね」
彼女が言った夜、私は即座に否定できなかった。
隕石は落ちていなかったが、環境は変わっていた。私の研究は忙しくなり、彼女は就職活動に追われていた。価値観も、優先順位も、ほんの少しずつずれていった。昨日と今日を比べれば、大差はない。だが、一年前と今を比べれば、私たちは別の生き物のようだった。
「今までありがとうね」
別れを告げられた夜、彼女の声は震えていなかった。それが何よりも堪えた。
……これが自然淘汰か。
ある夜、こっそりと研究棟の屋上に上がった。前の教授に見つかれば叱られる行為も、神崎にとっては些細なことらしかった。京都の街はむず痒いくらいの明るさを放ち、星は少ない。それでも、遠くに一つ、強く瞬く光があった。
もし今、あそこから巨大な岩が落ちてきたら。
世界は変わるだろうか。
ニュースは騒ぎ、人々は祈り、政治家は声明を出すだろう。けれど落ちなければ、何も起きない。私たちは明日も同じように目覚め、同じように電車に乗り、同じように小さな選択を重ねる。
その小さな選択こそが環境を作るのだろう。神崎がどれほど理想を語っても、研究室を形づくるのは、毎日の議論であり、学生の姿勢であり、失敗と修正の反復だ。首相が誰になろうと、国を形づくるのは、法の運用であり、官僚の判断であり、私たちの投票と無関心だ。
隕石を待つ姿勢はどこか甘かった。何かが降ってきて、全てを変えてくれるという他力本願でしかない。だが、恐竜の後に地球を支配したのは、名もなき小さな生き物たちだった。彼らは叫ばなかった。ただ、生き延びただけだ。私は彼らの静かな強さを、どこかで軽んじていたのかもしれない。そうでなければ、彼女と別れることも、神崎に対して斜に構えることもなかったのに。
数ヶ月後、研究室で小さな成果が出た。派手な発見ではないが、査読付き雑誌の端の方に載る論文だ。それでもデータは確かで、仮説は一歩だけ前に進んだ。そのうち、新聞のずっと内側のページにも載るらしい。
「こういうのを積み重ねるしかないんだよ」
神崎は昼下がり、珍しく穏やかな声で言った。
その横顔を見ながら、私は思った。
彼もまた、隕石ではないらしい。
……私が望んでいただけだったのか。
その夜、別れた彼女から、久しぶりにメッセージが来た。内定が出たという報告だった。私は素直に祝福したが、もうやり直そうとは思わなかった。私たちは、それぞれ別の環境に適応し始めている。それでいいのだと思う。
屋上で見た星は、今日も同じ場所にある。だが、宇宙は止まっていない。私もまた、静かに変わり続けている。隕石が降ってくれない街で、私は小さな選択を重ねるしかないらしい。鈍感すぎず、敏感すぎず、変化を悲劇として受け取らず、かといって見逃しもしない。昨日と今日の差分に怯えず、百年単位の地層を想像する。
それが私にできる唯一の進化なのだと、ようやく認めることにした。




