第一章(3) 名もなき風 -村の風と、はじまりの名前-
風の祠をあとにし、ふたりは村の中心へと向かって歩いた。
村は、穏やかだった。
道端には、色とりどりの布が干され、子どもたちの笑い声がどこかから響いてくる。
遠くで誰かが木を削る音がした。
アムの歩き方は、いつも風と歩幅が合っているようだった。
不思議とその足取りについていくのは難しくなかった。
「もうすぐ、風宿舎に着くよ」
「風宿舎?」
「風を宿す人たちが、しばらく滞在する場所。名前が決まるまで、そこで過ごすの」
宿とは少し違う響きがした。
けれど、“宿る”という言葉が、妙にしっくりきた。
そこは、緩やかな坂を上った先にある、丸い屋根の建物だった。
まるで、風を受ける帆のようなかたちをしている。
中に入ると、やさしい木の香りがした。
小さな窓がいくつもあって、どこからでも風が通るように作られている。
「この部屋を、しばらく使っていいよ」
案内された部屋には、畳のような草編みの床と、白い布の寝具が整えられていた。
壁には、小さな風車が吊られている。
アムは、部屋の端にしゃがんで、細い木の箱を差し出した。
「これ、風名帳。名前の音が届いたら、ここに書いておくといいよ」
箱の中には、風を模した模様が入った紙と、細い筆が入っていた。
「まだ届かなくても大丈夫。風はね、焦らないの」
アムの言葉に、ぼくは小さくうなずいた。
その夜。
風宿舎の灯りは静かに揺れていた。
寝具に横たわると、天井の風車がゆっくりと回っているのが見えた。
(名前がなくても、ここにいていい)
そう思えたのは、たぶん、アムと風のおかげだ。
目を閉じると、今日出会った風たちの気配が、静かに頭の中に浮かんできた。
アムの声。
風の祠の空気。
白い石。
リリエという名前。
そして、あのときの風のささやき――《カザミ》。
耳に残っていた音が、もう一度、風に乗って響いた気がした。
まるで、それが“僕の風名”であるかのように。
でも、それをすぐに受け入れていいのか、わからない。
それでも――
ふと、紙と筆を手に取り、《カザミ》という音を書いてみた。
筆先が紙をなぞる音が、小さな風音のように響いた。
風が、窓を少しだけ揺らした。
まるで、その音に、応えてくれたように。