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名呼びの風(なよびのかぜ)  作者: 花音
第一章 名もなき風
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第一章 (2) 名もなき風 -風名(ふうな)の村-

草を踏む音が、耳に心地よいリズムを刻んでいた。


歩くたびに、背中を風が撫でていく。

さっきまで寝ていた身体はまだ少し重たかったけれど、アムの歩幅に合わせて歩くことで、少しずつ体温が戻ってくるようだった。


「……ねぇ」


アムがふいに口を開いた。


「村に、風の祠があるの。そこに行ってみない?」


「祠?」


「風の名前を、石に刻む場所」


何のことかはわからなかったけれど、否定する理由もなかった。

ぼくは、黙ってうなずいた。



小さな木橋を渡り、小道を抜けると、ひらけた丘が見えてきた。


丘の上には、ぽつんと木造の建物が建っていた。

簡素だけれど、どこか気品があった。


風がその建物の周りだけ、やさしく、特別に流れているような気がした。




「ここが、風の祠」


アムはそう言うと、手のひらを祠に向けて、静かに目を閉じた。



「……わたしたちの村ではね、《風名ふうな》っていうのがあるの」



「風名?」



「風が、人にささやいた名前。あるいは、誰かが誰かのために呼んだ名前。どちらも“風が伝えてくれたもの”として、大切にしてるの」



そう言って、祠の中を案内してくれた。



内部はひんやりとした空気に満ちていた。

白い砂利が一面に敷かれ、その上に丸く平たい石が、ひとつひとつ、等間隔で並べられていた。


どの石にも、一つ、あるいはいくつかの名前が、静かに刻まれている。

名前は、まるで風に触れるような手つきで、静かに重ねられていた。


アムはその中の一つの石の前で立ち止まり、少し迷ってからしゃがみ込んだ。



「これは、わたしの祖母の名前。《リリエ》って読むの」


小さく、やわらかい字体だった。

彫られた名前は、風にさらされて角が丸くなっていたけれど、それでも確かにそこに残っていた。


「ここに名前があると、風がその人を覚えていてくれるんだって。たとえ、もう声に出して呼ぶ人がいなくなっても」


ぼくは、そっとその石に手を触れてみた。


少しだけ、風が揺れた。

それが挨拶だったのか、歓迎だったのか、それともただの気まぐれだったのかはわからない。

でも、たしかに“ここにいること”を肯定されたような、そんな気がした。


「……ねぇ、君は、“名前”って、誰が決めるものだと思う?」


アムの問いは、まっすぐだった。


「えっと……親?」


「うん。そうだよね。でも、この村では、風が名前を運んでくることもあるの」


「風が?」


「うん。《その人にふさわしい音》を、そっとささやいてくれるの。

たとえば、ある日、何の前触れもなく《カザミ》っていう響きが聞こえることがある。

すると、村の人は、それを《誰かが選びなおすかもしれない音》として、そっと胸にしまっておくの」


「じゃあ……誰の名前か、わからないの?」


「うん。でも、それでいいの。“名前が誰のものか”よりも、“名前がこの世界に生まれたこと”が大事なんだって」


言葉の意味をすぐに理解するのは難しかった。

けれど、その在り方は、どこか心地よかった。


誰のものでもない名前。

呼ばれるのを待っている名前。

あるいは、選ばれるのを待っている名前。


ふいに、自分には名前がないという事実が、ずしりと胸に戻ってきた。

アムは名前を持っている。村人たちにも名前がある。石にも名前があった。


なのに、ぼくには、それがない。


風が、ぼくの名前を運んできてくれることはあるのだろうか。

それとも、風にすら、呼ばれる価値のない存在なんだろうか。


「……あの」


気づけば、声に出していた。


「名前って……ないと、だめかな」


アムは驚いた顔をして、少しだけ考えてから、ふっと笑った。


「なくても、ちゃんと《ここにいる》よ」


「……でも」


「名前はね、誰かに呼ばれるためにあるんじゃない」


彼女は立ち上がり、風に髪をなびかせながら、言った。


「自分が、自分を見失わないためにあるんだよ」


少しだけ間をあけて、アムは続けた。


「でも、たとえ名前がなくても――ちゃんと生きてる。

風は、それを知ってるよ」


その言葉は、静かに、でも確かに、ぼくの中に落ちていった。

風が、またそっと背中を押したような気がした。

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