第一章 (1) 名もなき風 -目覚めと出会い-
――目覚めと出会い
「名前がなくても、ここにいていい」
【風の音が、最初に聞こえた。】
目を開けると、空が近かった。
雲がゆっくりと流れ、草の匂いがほんの少しだけ鼻をくすぐった。
少年は、地面に横たわっていた。
体は冷えていたが、風だけはどこまでもやさしかった。
なぜここにいるのかも、自分が誰なのかも、思い出せない。
記憶の底が、すっぽりと抜け落ちている。
ただ、風がいた。
何も言わないけれど、何かを知っている気配だけがあった。
「……起きた?」
その声は、風の音とほとんど区別がつかないほど自然だった。
声のする方を見ると、ひとりの少女と目が合った。
長い髪と耳飾りが、そよぐ風と一緒に揺れている。
「名前、ある?」
答えられなかった。
「……わからない」
少女はふっと笑った。
やさしいけれど、どこか遠くを見ているような微笑みだった。
「そっか。風もね、今日はまだ《名前》を決めかねてるみたいだよ」
意味が、よくわからなかった。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ、その言葉が、自分のどこかに風のようにすっと入り込んできた気がした。
「風が『ここに誰かいるよ』って、教えてくれたの」
「風が?」
「うん。わたしたちは、風からいろんなことを教わるの」
少女はそう言うと、ふっと目を細めた。
風を聴くように、静かに耳を澄ませる。
まるで、そこに言葉にならない声が、流れているかのように。
「君の名前は?」
「アム。風がそう呼んでくれたの。だから、今はそうしてる」
《今は》?
ということは、あとでまた、変わるのかもしれない。
名前って、そんなに簡単に変わるものなのか?
でも、まだ名前のない僕には、よくわからない。
アムは腰をかがめ、こちらに手を差し出した。
迷ったけれど、なんとなくその手を取った。手はあたたかかった。
「とりあえず、歩けそう? 村まで、少しだけ歩くの」
「うん……たぶん」
立ち上がった瞬間、足元に風が集まった気がした。
風が、背中を押してくれたような気がして、少しだけ歩き出す勇気が出た。
アムと並んで歩きながら、少しずつ、少しずつ、言葉を交わした。
でも、彼女は多くを語らない。沈黙の時間が多い。
それでも、不思議と落ち着くのは、風が常にそばにいるからだろうか。
ときおり、草が揺れる音や、どこか遠くで鳥が鳴く声に、ふたりで一緒に耳を澄ませた。
言葉がなくても、なにかが伝わってくる気がした。
ふと、アムがぽつりと言った。
「風って、ね。目に見えないけど、ちゃんと《そこにいる》んだよ」
「……うん」
「名前がなくても、言葉がなくても、《そこにいる》って、すごく大事なんだと思う」
立ち止まり、空を見上げた。
風が雲を動かしていた。名前を知らない雲。どこから来たかも、誰も知らない雲。
でも、空にいて、風に運ばれて、どこかへ向かっている。
「……僕も、そうなれるかな」
アムは、少し驚いた顔をして、それから笑った。
「風に聞いてみる?」
そのとき、風が耳元を通り抜けた。
何かをささやいたような、気がした。
今日の風は、まだ名前を知らない。
でもそれは、風がまだ“迷っている”ということ。
だから、あなたもきっと、大丈夫。