期末試験
試験まで残すところあと2週間。吉之は必死に授業のノートを読み返した。優花の話では期末試験は知識と応用力の両方が求められるとのことなので、まずは知識に抜け漏れがないようにしようという作戦だ。しかし、ここでも吉之は1つ躓くことになる。この学校は普通の高校の授業スピードより遥かに進むのが速い。そのため半年の間に積み上げられた試験範囲は膨大であり、知識の総復習をするだけでも時間が足りなかった。
部室では文芸コンクールへの提出が終わった真奈美と、落第回避に向けて余裕がない吉之と楓、学校推薦のために試験では良い点数を取っておきたい優花の4人が、いつもののんびりとした雰囲気を捨てて真剣に勉強に励んでいた。一方で同じく文芸コンクールへの提出を終えた麗奈は、1人読書に熱中していた。
「うわー、苦しいよー」
最初に音を上げたのは案の定楓であった。
「楓ちゃん、留年したくないんでしょ、頑張ろう」
真奈美がそう優しく励ます。しかし楓は
「もう無理!勉強したくない!」
と駄々をこねた。吉之が優花に尋ねた。
「俺たちは同じ1年なので集まって勉強してますけど、なんで優花先輩は自分の部屋で勉強せずにこんなうるさい部室に来てるんですか?」
「そりゃ、麗奈の顔を見て癒されるためだよ。誰かさんが私のルームメイトを取り上げたせいで、今は一人部屋で寂しいんだから」
「す、すみません」
「きみ、試験勉強しながら麗奈の部屋の片付けとかちゃんとできてるの。無理だったら私と部屋替わってもいいんだよ」
優花がそう吉之を挑発するのを聞いて、麗奈がピクッと反応した。そんな麗奈の様子に吉之は気づかず、優花に対して答えた。
「片付けはちゃんとできてますし夕食もしっかり用意してますよ」
「ふーん」
そのやり取りを聞いて麗奈は再び読書に戻っていった。
「こんなたくさんの内容、覚えられないよ!」
そう文句を言い続けている楓に対して優花は
「普段からコツコツ勉強してれば、直前に慌てて詰め込む必要もないんだよ」
と身も蓋もないことを言った。
「うぅ……」
優花の火の玉ストレートの指摘を受けた楓は今にも泣きそうな表情になってしまった。その様子を見ていた吉之は、ふと浮かんだ疑問を楓にぶつけてみた。
「そういえば、楓は今回の試験科目の中なら何が得意なんだ?」
「え?そうだなあ。やっぱり現代文かな!覚えることが少ないからね!あとは数学と物理も覚えることが少ないからなんとかなりそう」
「なるほど……。たしかに他はまず覚えることが多いもんな。普段からやってないととても間に合う量じゃない。楓は本当にこの半年間何も勉強してこなかったのか?」
「うん、何もしてないよ」
「即答かよ」
「だって事実だもん」
これに対して吉之は他人の心配などしている場合ではないと思いつつも楓のことが心配になっていた。2人の会話を聞いていた真奈美が、今度は吉之に訊いてきた。
「吉之くんは普段どのくらい勉強してたの?先輩のお世話もしてたら、なかなか勉強時間を作るのも大変そうだけど」
「俺は一応毎日2時間授業の復習をしてたよ。まあ、俺の頭じゃうちの学校のペースについていくには全然足りないって感じだけど。部屋の片づけに食事の準備とやってたらそのくらいしか勉強時間作れなかったのは事実だ」
「それだけやってたらすごいよ。吉之くんは知識に関してはあまり問題なさそうだもんね」
「改めて復習してみるとすごい量だなとは思うけど、なんとなく覚えてるものが多いのはたしかだな。心配なのは試験問題でどういう訊かれ方をするのかってことだ。応用力に関しては正直ダメそうだから」
「大学の入学試験なんかだと、単純な知識問題も出題されたりするものだけどね。この学校の期末試験はどうなんだろう?」
吉之と真奈美がそう疑問を口にしていると、優花が答えた。
「単純な知識問題はほとんど出ないよ。みんな知識なんて身についてるのが当たり前だから、そこを訊いても仕方ないって去年の担任が言ってた」
「いやいや、当たり前に身についてるかどうかを確かめるのも試験の役割なんじゃないのかよ」
吉之はそう言いながら焦りを感じた。吉之はこれまでの授業の復習をした感触として、単純な知識問題や計算問題が出されれば範囲は膨大とは言え解ける可能性が高いと思っていた。しかし知識をどう使うかということを問われた時にどう解いていけばいいのかについては全く見当がついていなかった。というのも、この学校の生徒は知識の応用を基本的に難しいことだとは思っておらず、息をするように問題を解いてしまうからだ。そのためどういう勉強をすれば解けるようになるのかなどを訊いても答えられないのだ。吉之も過去に真奈美や優花に問題をどう解いているのか訊いたことがあるが、2人とも明確な答えを出せず吉之の疑問は晴れないままだった。
「そういえば、この学校の期末試験って何点以下だと落第なんですか?」
吉之は続けて疑問を口にした。これに対しても優花が答えた。
「60点以上が合格だから、59点以下は落第だね」
「合格点高くないですか!?」
「仕方ないよ、うちの学校は頭のいい人が集まってるんだから」
「俺、やっぱり留年かもしれないなあ……」
吉之が天を見上げてそう呟いていると
「吉之くんは大丈夫だよ!勉強もちゃんとしてたんだし!」
と真奈美が力強く慰めた。
2週間はあっという間に過ぎ、吉之は期末試験当日の朝を迎えた。初日の試験科目は世界史、英語、現代文、古文の4科目だ。
吉之が自分の席につくと、隣の席の皆川が話しかけてきた。
「勉強した?」
勉強せずに受けるヤツなんているのか?と吉之は疑問に感じつつ「ああ」と答えた。そして「お前はやったのか?」と吉之が尋ねると、皆川はよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに自信満々で答えた。
「完璧さ。余裕で満点取れると思う」
「マジかよ。お前すげえヤツだったんだな」
普段の言動からは想像がつかないが、皆川もまたこの学校の試験を突破した優秀な学生なのだ。吉之がそう驚いていると皆川が世界史のノートを手渡してきた。
「適当に問題出してみてくれ、即答だから」
皆川がそう言うので吉之はノートを開いてみた。
「あれ、このノート試験範囲と違うぞ」
「は?そんなわけないだろ」
「いや本当だって。文化史とイスラームは今回の試験で出さないって先生言ってたじゃん」
「いやいや、文化史とイスラームが試験範囲って部活のヤツから聞いたぞ」
「お前さては先生の話をちゃんと聞いてなかったな。試験範囲がそんな狭いわけないだろ?文化史とイスラーム以外の全部が試験範囲だって」
「……。……ヤバいヤバいヤバい」
皆川は急に焦りだすと机の上に積まれた本の山から世界史の教科書を取り出し、山が崩れて本が床に散乱するのも気に留めず教科書を読み始めた。
「い、今からだと教科書より授業のノートで復習した方がいいんじゃ……」
吉之がそうアドバイスを送ると
「ノートなんてあるわけないだろ、世界史の授業なんて毎回寝てたんだから。そのノートは友達から借りたんだよ」
と吉之が手にしているノートを指さして皆川が答えた。コイツ、少なくとも世界史は終わったなと吉之は思った。
試験が始まり問題を見た吉之は愕然とした。問題はたったの1問、600字の論述問題でテーマに沿って世界史の横のつながりを書かせるというものだった。しかもキーワードが指定されており、指定されたキーワードを文中に入れなければならない。応用力が求められるとはこういうことかと吉之は嘆息した。吉之は自分の頭の中の知識を総動員してどうにか600字を埋めたが、全く自信がなかった。そんな吉之の心配をよそに、試験が終わったあと皆川が「細かいこと訊かれなくてよかったぜ」と言ってきた。吉之は「やっぱお前すげえよ」と言うしかなかった。
その後、英語、現代文、古文と試験は続いたが、吉之を困らせたのはどの科目も出題される文章が教科書でやったものとは違うということだ。問題を解くのに必要な語彙や文法の知識は授業の範囲から逸脱はしていないが、あくまでその知識を未知の文章に応用することが求められているというわけだ。英語は60分の試験時間で1000語以上ある長文の問題を解かせる形で、和訳の問題と要約の問題があった。こんな長い文章を2行以内で要約せよなんて無茶ぶりだろと吉之は思った。現代文と古文もそれぞれ試験時間60分で大問1つという構成で、全問記述式というなかなかの重たい内容であった。
最初の世界史も含めて基本的に問題の数は少なく、1問に時間をかけてしっかり考えさせる傾向にあると吉之は感じたが、分からない問題はいくら時間をかけても分からないのでこれは落第のリスクも大きいのではという不安も拭えなかった。1日目の試験が終わり放課後になると真奈美が吉之に声をかけた。
「吉之くん、試験1日目お疲れ様。どう?手ごたえは」
「全然だ。これが期末試験なのはさすがに鬼畜すぎるだろ」
「たしかに、けっこう骨のある問題が多かったよね。楓ちゃんは大丈夫かな……」
「どうだろうな。意外と語彙のレベルはそこまで要求されなかったもんな。世界史も指定されたキーワード自体は基礎的なものだったし。あいつの付け焼刃の勉強でもなんとかなってそうだけど」
「そうだといいけど」
「俺は考える力が足りなかったわ。今日の科目でこれだと、明日の理系科目はどうなっちゃうんだろう……」
「吉之くんならきっと大丈夫だよ!」
「そうかなあ……」
吉之と真奈美は試験の感想について話したあと、明日も試験があるため部室には行かずに解散し、まっすぐ寮の部屋へと戻った。
吉之が部屋に戻ると、麗奈は既に戻っており部屋も散らかり始めていた。
「吉之、おかえり」
部屋のソファに腰掛けた麗奈がそう吉之に声をかけると吉之は部屋を見回しながらため息をついた。
「俺がちょっと話し込んでる間にもうこんなに散らかして。姉さんは試験が始まっても相変わらずだな」
「今日は帰りが遅いと思ったら、誰かと話してたのか?てっきり試験期間なのに部室に行ったのかと思ったぞ」
「真奈美とちょっと試験の感想を喋ったりしてたんだ。真奈美も試験は簡単じゃなかったって言ってたし、この学校の試験はどうかしてるよ」
「そうか?試験問題なんてただ解くだけじゃないか」
「改めて姉さんとは頭の出来が違うんだと思い知らされたよ」
「そんなに変わらないと思うけどな、私たちは姉弟なんだし」
「そう思ってるのは姉さんだけだよ。父さんと母さんだって、俺と姉さんじゃ出来が違うって気づいてるはずだ。やっぱり西高に行っとくべきだったんだろうか」
「それだと私が困るじゃないか!この半年吉之のことを見ていて思ったが、やっぱり吉之は私の目が届くところにいるべきだ」
「どちらかというと逆だけどな。姉さんこそ俺の目が届くところにいないとまともな生活も送れないじゃないか」
麗奈は時々変なことを言うと吉之は思いつつ、それでも麗奈のおかげで楽しい学生生活を送れていることを感謝した。
「まあ、この学校に来れてなければ出来なかった経験もいっぱいあるし、そこはありがたく思ってるよ」
麗奈はそれを聞くと「うむ」と一言残して頷いた。
次の日、期末試験の2日目が始まった。試験科目は物理、化学、数学の3科目だ。吉之の中では1日目の科目よりこの2日目の科目の方が自信はなかった。
最初に始まった物理は試験時間60分で大問2つ、力学と波の問題がそれぞれ1つずつというシンプルな形式であった。しかし2つとも全問論述問題で構成されており吉之は全く歯が立たないまま試験時間があっという間に過ぎていった。次に始まった化学は試験時間60分で大問3つ、各大問の最初の1問は無機化学の知識が問われ、あとは理論化学の論述問題という構成であった。初めて基礎的な知識が問われる問題を目にした吉之は謎の安心感を抱いたが、この問題が解けただけではとても合格点には達しないだろうと思うと気が重かった。最後に始まった数学はまたしても試験時間60分で大問2つという並びであった。1問は関数の問題で吉之は途中で計算が合わなくなり詰まってしまった。もう1問は不等式の証明問題で、こちらは最初から何をすればいいのか分からず解答用紙の白一面を眺めることしかできなかった。少なくとも数学は落第点だなと吉之は覚悟を決めた。
この日は試験が午前中で終わるため、お昼前に放課後が訪れた。吉之が最後の数学に絶望感を抱いて天を見つめていると、昨日と同じように真奈美が声をかけてきた。
「吉之くん、お疲れ様。よかったらこのあと部室寄ってみない?楓ちゃんも試験終わって部室行くって言ってるよ」
この真奈美の声に我に返った吉之は
「あ、ああ。そうだな、行くか」
と返事をし、荷物を鞄に詰めて立ち上がった。
吉之と真奈美が部室を訪れると、麗奈がいつもの窓際の席に座って小説を読んでいた。
「なんだ、お前たちも来たのか。今日は午前で終わりなのにご苦労なことだ」
そう言う麗奈は少し嬉しそうな様子であった。
「先輩、お疲れ様です。お昼は部室で食べてから帰ろうと思いまして」
「そうか。吉之も何か買ってきたのか?」
吉之は部室に来る途中の購買で買ったパンを鞄から取り出すと「まあな」と一言麗奈に対して返事をした。吉之と真奈美が席について昼食を食べようとしていると部室の扉が開き「お疲れ様―」という元気な声が響き渡った。声の主は楓であった。楓は吉之と真奈美の姿を見つけるとニコニコしながら2人の近くの席に座った。
「いやー、試験も終わってこれで自由の身だね。なんて心地がいいんだろう」
「その様子だと、試験自体は上手くいったのか?」
吉之がそう楓に尋ねると、楓は親指を立てて答えた。
「ばっちりだよ!」
「すげえな。俺は少なくとも数学は終わったと思う。半分も解けなかった」
吉之がそう告げると、真奈美が反応した。
「そうなの?」
「ああ。不等式の証明の方がマジでどう解いたらいいのか分からなくて結局白紙だ。関数の問題も途中で計算が合わなくなって答えまで出せなかったし」
「そっか……。それはたしかに厳しそうだけど。でも数学だけなら追試まで時間もあるしなんとかなるんじゃないかな?私が聞いた話だと、1科目や2科目なら落第点とる人毎年何人もいるらしいよ」
「数学だけならそうだけど、俺の場合どの教科も自信はないからなあ」
すると今度は楓が吉之に訊いてきた。
「そうなの?世界史とか、吉之くんなら余裕で解けそうな問題だったけど」
「俺には楓ほどの思考力はないからな。知識は問題なくても、それで文章を書くとなると話は別なんだよ」
「そうなんだ……」
「まあ、俺のことは忘れてくれ。せっかく試験が終わって晴れ晴れとした気分のところに、これ以上水を差したくないからな」
「うん……」
そう言いながらも真奈美と楓は吉之を心配していた。そんな3人のやり取りを、小説を読みながらこっそり聞いていた麗奈は、吉之のことをどうにかしてやれないかとこの時初めて思っていた。