第5話 図書館と厨房
マーケットは俺がギリギリついていくことのできるくらいのスピードで屋敷内を歩き回っている。
俺の部屋となる予定の部屋を出て左に歩くと、行き止まり。だが左手にドアが見えた。
「こちらのドアを開けると、図書館になっております」
マーケットは話しながらその扉を開いた。
俺の眼前には図書館の光景が繰り広げられた。
たくさんの本が並んでいるのは本のインクの匂いや書架の数などから容易に想像ついた。
図書館というにはやや煩雑で通路が狭い。だから、どちらかといえば大書庫と言うべきかもしれない。
実際に書架を眺めてみることにした。大小さまざまな大きさの本が数多く立ち並んでいる。
俺は本が好きだ。だから、本を読みたくなったが、じきにそれは無理だと言うことに気づいた。
たくさんの背表紙が書架に並んでいたが、そのいずれも楔形文字のような複雑な作りをした文字でタイトルや作者と思しき文言が記されていたからだ。この世界において一般的に使われている文字を、俺は理解できない。
一方で話し言葉は理解できたし、あちらも理解できるようであった。これはおそらく脳みそではなく耳と声帯がこの世界の言語に適応した、という感じなのではないか、という結論に至った。
文字としてこの世界の言語を理解するのには苦しめられることになるんだろう。
俺は少し体に力を入れた。
ーーいや、でも、もしかしたらいざ本の中を開いて内容を読んでみたら、少しは理解できる内容の文言が記されているかもしれない。
ふとそんな考えが浮かんだ。途端に体に入った力が抜けた。気楽な気分で、今すぐに目に入った書物を手に取った。
その書物は、タイトルと作者名は全く断定することができない。しかし表紙には、水晶玉を布の上に載せている老婆の姿が描かれていたことから、いくつかの内容を推測することができるかもしれない。
俺はその本を開こうとした。
開かない。
俺は開かない本に悪戦苦闘した。
その様子を見てか、マーケットが俺の方に駆け寄ってきて、俺の手から半ば強引にその本を抜き取り、書架に戻した。
「あー、『水晶夜に生まれる子』の伝説の物語ですね。王国やこのロザリア領に関する重大な伝説や秘密が記されている本ですから、軽々しく見られては困ってしまうようです。見たいのなら、やはりロザリア様と対話し、許可をいただいてください」
「許可かぁ…」
俺ははあ、とため息をついた。
俺はまだロザリア辺境伯と言う人物の顔を見たことがない。どのような人物かすらわからない。
ただヨーロッパを舞台にしたファンタジーでは、大概この手の人物は性格が少し難儀な最強キャラクターである、というのがお約束のようになっている。そのイメージを拭いきれてないからこそ、俺はより億劫になってしまっているのかもしれない。
「そんなに読みたかったんですか? ーーでしたら、冒頭の一部分だけでしたら音読いたします」
そんな俺の様子を見かねたようなマーケットの気遣い。俺はそれに思い切り甘えることにした。
「『ある夜、水晶のような流星群が地球に降り注ぐように流れた。その夜、とある国のとある王様のお妃が子供を産んだ』」
しばしの沈黙。しかし、マーケットの口元は動き続けていた。ところどころ、日本語ではありえない形の口をしていた。
日本語には母音が「あ、い、う、え、お」の五種類しかないがアメリカの英語には十五種類以上もの母音があると言う。そういう感じだと捉えることにするが、聞き取ることができないため、何を言っているかわからない。
マーケットの唇が動くのをやめたのを見た瞬間、俺は訊いた。
「あれ、これで終わりですか?」
「これで終わりです。この家に忠誠を誓うとした者だけに本の内容が提示されます」
「まじですか」
「正確にはあの後も口に出して読んだんですけれども、やはりその契約をしなかった者は聞き取れなかったようですね」
本が好きな俺は、もうなんとしてでも早くロザリア辺境伯に対面したくなってきた。
「早くロザリア辺境伯に合わせてください、お願いします!」
俄然わくわくする。
「いえ、そうもいきません。ロザリア様は今現在も含めた日中はこの領地での政治的公務でとても忙しくしておられます。ですのでバルトロメオ様が会いたいと言うのでしたら夕食時までお待ちください」
夕食まで、これらの本を読んでみるのはお預けか、とがっくりと肩を落とした。
「まあそう肩を落とすこともないですよ。ロザリア様はとても優しいお方です。バルトロメオ様の頼みなら、きっと聞いてくださると思います」
落ちた肩をマーケットに叩かれ、俺はだんだん元気が回復してくるのを感じた。
「本、お好きなんですね」
俺は大きく頷いて、図書館を後にした。
気分が変わった。いずれ読めるようになるらしい。
図書館に入り浸るのは、別にまた後でやると言うことで構わないだろう。
マーケットと俺は書架を背中に、ドアの外へと出た。
マーケットがドアを閉じると、すぐに次の目的地へと向かうような足取りで歩き出した。俺もそれに着いていく。
ドアを出てから、一度玄関の方向まで戻り、そこから降りて、右手奥に見えるドアに入室。すると、さらに次の廊下が現れた。さすがでかい家。
このドアで一旦終わりだと思っていた俺は瞬間立ち止まった。しかしマーケットは歩いていくので、慌ててそれに倣って歩き進める。
この廊下にも両サイドにいくつもの扉があった。壁には肖像画がいくつも飾られているが、誰も同じ人物を描いたような気がしてならない。
廊下の行き止まりの正面に扉があった。それも、かなり大きい。
「バルトロメオ様、こちらが厨房でございます」
マーケットはこの扉を指し示して話した。
「これが厨房なんですか、立派な扉ですね」
「うちには私のような使用人を含めますと十八人の者が生活してありますから」
「十八人!? そんなに??」
ボリューム調節をミスったな、と思った。
「それではこれにてとりあえずバルトロメオ様にお見せしたかったところはあらかた回り終えました。どこかまた見たいところなど、ありますか?」
唐突だった。
俺はじっくりと考えこんだ。
正直、訊きたいことは山ほどある。
でもなるべく端的に話し終えたい。
俺は訊くことを決めた。
「パルフィさん、って何者なんですか?」
「パルフィ様ですか、先程間違えて案内してしまった部屋の主人です。簡単に申し上げるとしたら、アマネお嬢様の一番の親友で、一番の理解者と言うような存在です」
求めてるのはそう言う答えじゃないんだよな…。
「そういう回答を求めてるわけじゃなかって…」
「わかっております。パルフィ様は、アマネお嬢様が好きすぎて、アマネお嬢様と同じ空間で生活していくためにロザリア卿の秘書になってみせた人物です」
え?
この返答、普通に家に忠誠を誓うタイプの使用人が口にしたら誤解を招きかねない表現方法じゃない? 発言の中に、尊敬とその影に「この人やべーな」感が思い切り漂っていたのを俺は感じ取った。
マーケットのことを俺は最初、使用人としては完璧で一流の人格者、いい意味で人間味のない人だと思っていた。
でも、今は違う。ちゃんと人間味があって、人のことを見てくれているタイプの優しい人だ。
「今、すごく失礼なことを考えましたね」
ジトっとしたけども可愛らしい目でマーケットが見つめてくる。
そういえば、彼女は心を読む能力を持っていたな。俺は今思い出した。