第1話 落下
眼前に広がるのは、ミニカーのような車たちと、豆粒のような人々、そして単なる直方体の集まりのようなビル群。
俺ーー葉月翔は思わず身震いした。
これで、これでようやく姉貴たちの相手をしなくて済む…。
そう思うと鼓動が鳴り止まない。
高鳴る鼓動を少しずつ落ち着かせて、冷静に勇気を取り戻していく。俺はじっくりと深呼吸する。
そして駅ビルの屋上から見下ろせるところにある小さなカラオケボックスに目をやった。あそこのせいで俺は姉貴と言う存在に出会ってしまった。苦い思い出のある地だ。
どう言うわけか、俺は追憶し始めた。
中学生だった時、友達と行ったカラオケ。
「あれ、君、歌上手いじゃん」
カラオケのドアを開けて、こう俺に話しかけた少女がいた。
両親が早いうちに亡くなってしまっていて一人暮らしを続けていた当時の俺は、思春期だったことも相まってその少女にときめいてしまった。そして、自分の身の程を話し始めてしまった。
少女は俺の境遇を聞くと、少し考え込んだようなそぶりを見せてから、
「んー、じゃあ、私の家行く?」
と俺に提案した。
当時の俺はおそらく親からその類の教育を受けたのが乏しいせいで警戒心が薄すぎた。
二つ返事で、
「じゃあ、行くよ」
と答えてしまったのを覚えている。定期的に思い出しては、深い後悔に苛まれている。
それからは、地獄のような日々が始まった。
少女は高校二年生で、彼女もまたアパートの一室に一人暮らししていた。
狭い部屋には、三国志の全集だったり、心理学の本がたくさん置いてある本棚が設置されていた。
俺はそのアパートで、少女にさまざまなことを強制されていた。
少女のことを、お姉さん、と呼ぶこと。
お姉さんの計画を邪魔しないこと。
お姉さんを愛し、お姉さんに愛されること。
思い出すだけで頭が痛んでくる。全てがトラウマのように俺の脳内にこびりついているのだが、特に「お姉さんを愛し、お姉さんに愛されること」がかなりキツかった。
お姉さんの言われるがままであれ、と言うことだった。お姉さんが指示したなら、性奴隷にしろ単なる奴隷にしろ、理不尽な扱いも受けなければならない。
俺はそれがトラウマだった。学校でも慢性的に発症してしまう女性恐怖症の症状をひた隠しにしながら生きる日々を過ごした。
悔しいことに、ーー自分で言うのもアレなんだがーー俺は容姿が端麗なようで、女子生徒からの好感度が高かった。
一番恋愛を楽しめる時期を、あのヤンデレのクソ姉貴に楽しめないようにさせられた。それは女性恐怖症だってそうだし、他の女の子と話したら姉貴から躾という名の拷問に近しいものが待ち受けていたからだ。
姉貴はヤンデレだったのだろう。無理はないと思っている。少なくとも家族が自分一人の状況下で病まないのは不可能だ。それについては同情する。
では、病んでいたらなんでもやっていいのか? 答えは否。病んでいる人が凶悪犯罪を起こす例がいくつもある。
俺はこの一歩間違えると凶悪犯罪者になりかねない存在から逃げるために、駅前のビルの屋上にやってきた。
改めてカラオケボックスを一瞥し、俺は下を見下ろした。
そして次の瞬間には、足や全身はもうビル上にはなかった。
俺の身体を大幅な浮遊感が包む。ふわり、という感覚。重みを感じない。宇宙飛行士もこんな気分なのだろうか。
自分でも驚くほどに冷静だった。これから一問ほど三角比の問いが解けるのではないかと言うくらい長い時間に感じられた。
でも、そうではなかったようだ。
ビルの上から飛び降りて二秒後、俺は路上に大胆に着地した。背中の方や頭のほうがぐっしょりと赤銅色の液体に濡れていくような感覚。鉄臭い。激痛が走る。
でもこの程度の痛み、今まで姉貴から虐げられてきたときの痛みと比べたら、屁でもないのではないか。
むしろこの程度の痛みを被る程度で今までの地獄のような生活から逃れることができる。これほどラッキーなことはないだろう。
俺はギリギリ耐えられるレベルの痛みに耐えながら、ゆっくりと死を待った。
サイレンの音が聞こえてくる中、俺の意識はどんどんフェードアウトしていった。
風を感じる。体の下に、草原というか、芝生のような地面が広がっているのを感じる。
ようやくあのクソ姉貴から解放されたか、よかった…。
…でも待てよ。
こうして語りができているということは、俺はまだ意識があると言うことである。
俺は死んだはずだ。あれほどの激痛が走っているのなら、あのあと近いうちに俺の心臓は終焉していたはずだ。
改めて冷静に考えてみることにした。
なぜ意識が絶えていないのか。
つまり命があるということだ。
俺はどうやら自殺に失敗してしまったらしい。体のありとあらゆるところに感覚がある。しかし、不思議なことに先ほどアスファルトに体を強打したことによる激痛は、治っていた。
さらには仰向けになっている状態から両手を地面について起き上がることができた。
俺は自分の手をまじまじと見つめ、拳を握っては開き、握っては開くーーを繰り返していた。アニメとかでは良く見る演出だが、本当にそれに近しい状況下に陥ると人間は本当にその行動をとってしまうようだ。
続いて背中を触る。濡れているような感触はないし、背中を触れた手のひらを見たが、赤い染みのようなものはなかった。
手のひらをまじまじと見つめているうちに、俺の下半身を覆う服がかなり高級そうなズボンであることに気づいた。死のうとした時に履いていた毎日のように履いていたズボンとは感覚が違う。通気性が良かった。
病院の服か? ーーしかし、俺のこの推理は上半身に目をやることで一気に可能性をゼロにした。
俺は上半身に、ピシッとした黒いスーツとライトブルーのジャケットを身につけていた。
あれ?
直観的に、中世ヨーロッパの王侯貴族のような衣装だと見た。
周りを見回してみると、すごく大きな屋敷が右側に聳え立っていた。各部屋からバルコニーがいくつもせり出ている、いかにもな豪邸だ。
俺は絶対有り得ないと薄々思いながらも、一つの仮説を立ててみた。
ーーここは俺が姉貴に縛られていた世界ではないけれど、俺は死んだわけではない。つまり、異世界転生してしまったということではないのだろうか。
いやいやいや、あり得ないでしょ。と自分で自分を嘲笑しつつも、この現象や感覚は異世界転移ーーひいては異世界召喚だ、としか論理的には説明できないと思っていた。しかし、さらにあり得ない出来事が俺の目の前で発生した。
ぼすっ
俺の目の前の葡萄の小木の茂みに、上から一人の少女が降ってきた。
足から突っ込んだように見えた少女は頭を茂みから出して周囲を大きく見回した。奇妙なその様子を見張っていた俺の目とその彼女の目がピッタリと合った。
俺は言い知れぬ気まずさに襲われた。
「あれ、なんか第二王子が落下してる」
そう呟いた少女は俺と目を合わせるなり口元にほのかな微笑みを浮かべた。
まるで、「計画通り」とでも言おうとしているようだった。