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#6

 午後も変わらず、入れ替わり立ち代わりお客がやってきた。

それでも、お客が来たら挨拶、注文を受ける、コーヒーやサンドイッチをつくって出す、それを淀みなく繰り返して、なんとか夜のシフトの人たちが来るまで、何事もなく作業をこなした。

 北村さんは勤務が終わると五分も立たないうちに帰って行った。準備にはそれなりに時間をかけているのに、どうして帰りはいつもこんなに早いのだろうか。

 僕は、シフトを交代してからも、スタッフルームに残った。

 日中に事務作業ができなかったのだ。三人体制では、スタッフルームに籠るような時間をつくれない。

「今日も残業?」

 橋本さんが更衣室から出てくると言った。

「事務作業が全然できなかったんですよ」

 僕は、パソコンに向かいながら返事をした。

「途中抜ければよかったのに」

「そんなの無理ですよ。三人じゃ、その場を回すのに精一杯ですよ」

「在庫チェックはやった?」

「まだです」

「じゃあ、私やってあげるよ」

「いいですよ。もう、着替えてるじゃないですか」

 僕は、そう言って橋本さんの方を振り返った。

 橋本さんは、紺色のワンピースの上から白いカーディガンを羽織っていた。首には銀色のネックレスをしている。柑橘系の香水の匂いがした。

「どこか出かけるんですか?」

 僕は言った。

「まあ……ちょっとね」

 橋本さんは、そう言って笑った。

「だったらなおさら、僕がやっておきますから」

「ほんとに……。じゃあ、甘えちゃおうかな」

「どうぞどうぞ」

「ありがとう。ごめんね」

 橋本さんは、そう言ってにっこり笑った。

 僕と橋本さんは七歳か八歳くらいの差があり、僕の方が年下のはずなのだが、猫のように目を細めて笑う橋本さんは、まるで少女のように見えた。

「西田君ってさ、彼女とかいるの?」

 橋本さんが言った。

「いませんね」

「意外ね」

「意外ですか?」

「うん。意外。彼女いそうだけど」

 僕は、最後に恋愛をしたのはいつかな、と考えた。

 思い返せば、ここに就職してからは、恋愛らしいことはなかったように思う。大学の頃には彼女がいた。しかし、お互い就職してからは、会う時間が次第に減って行き、どちらからも別れを言うでもなく、連絡を取らなくなった。自然消滅というやつだ。思い返せば、それから七年が経った。その間まったくの一人だったが、寂しいと思ったことはない。ただ、単に時間が過ぎた。そういう感覚に近かった。朝起きて、仕事をして、帰ったら寝て、また朝起きる。すべてがオートマチックに流れていたように思う。自分のことについて考える時間さえなかった。

「なかなかできませんよ」

 僕は言った。

「欲しくないの?」

「欲しくなくはないです」

「じゃあ、困ったら私に言って」

「紹介してくれるんですか?」

「私が彼女になってあげる」

 橋本さんは、ニッと歯を見せて笑った。

「いや、それは、ありがた迷惑ですね」

 僕も笑いながら言った。

「なによ、それ」

 橋本さんは、小さな女の子が怒った時みたいに、頬を膨らませた。

 僕は、思わず笑った。

 橋本さんと話をすると、明るい気分になった。きっと気をつかって冗談を言ってくれているのだろう。その心遣いはありがたかった。疲れ切った身体でも、最後まで仕事して帰ろうという気持ちになれた。

 それから、くだらない雑談を数分した後、橋本さんは帰っていった。

 橋本さんは、見た目も可愛いらしく、気が利く人だ。何事もなければ、きっと今頃、結婚でもして、子供もできているのではないかと想像ができた。自慢の奥さん、あるいは、お母さんになっていたことだろう。

 噂好きのパートのおばさんから聞いたことがあった。橋本さんと店長は、不倫をしているらしい。いつからそうだったのか、詳しいことは知らないが、どうやら、最近ではないみたいで、もう五年以上は関係が続いているという噂だ。

 そのことを聞いて、「ひどい」とか「最低だ」とか、そういうことは思わなかった。ただ、みんながそれぞれ、人には言えない何かを抱えているんだと思った。

 時計を見ると、七時半を過ぎていた。もうすぐ八時になる。

 僕は、パソコンに向かった。まだ、ほとんど仕事は片付いていない。業務日報の作成、在庫チェック、発注の確認、シフトの作成、などなど。時間を消費するにはもってこいのラインナップだ。家に着くころには九時を過ぎてしまうかもしれない、と思った。

 サクサクと終わらせて、できるだけ早く帰ろうと意気込んで作業を始めたが、橋本さんの姿がふと頭をよぎった。銀色のネックレスが首元で光っていた。紺色のワンピースも卸したてのように鮮やかな色だった。ただ家に帰るだけではないのだろう。一体誰と、どこに行くのだろう。思わずそんなこと考えてしまっていた。


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