抑圧の泉
牧師が誓いの言葉を述べる。
「健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、死が二人を別つまで、共に生きることを誓いますか?」
「誓います」
「誓います」
熱い目頭で二人を見つめる両家の両親や親戚、そして多くの友人達が見守る中、新郎の康介と新婦の美香は、幸せに満ちた表情で誓いの言葉を宣言した。
そして結婚指輪の交換が終わると、すらりとした細身な身体によく似合う、純白のウエディングドレスに身を包んだ美香の潤んだ瞳が、康介を真っ直ぐに見つめる。
長身の康介もその意志の強い、しかし優しい眼差しで美香の目を見つめた。
誓いのキスをするために、康介は美香の顔にかかったヴェールをそっと上げる。
BGMのアメイジング・グレイスが一段と大きな音で流れ式場の雰囲気は最高潮に盛り上がる。
そして大勢の列席者が見守る中で二人は永遠を誓うキスをした。
優子は、うっとりとした眼差しで、高校時代からの同級生である康介と美香の口づけを見つめていた。
素敵なキスね、康介にも美香にも、本当に本当に幸せになって欲しい。
私達三人はいつも仲良しだったよね。美香と初めて出会ってからもう六年目かぁ、私も二十三歳なったし、そのうちいつか素敵な男性と巡り逢って二人みたいに幸せな結婚ができたらいいな。
優子は心の中で、そう呟いた。
式は順調に進み、食事の時間へと進んだ。
でもなぁ、私的には康介は結婚相手としては考えられないわね、確かに甘いマスクをしてるし、優しい性格だし、背も高くって、それに一流商社に勤めているわ、だけどねー私にはなんだか合わないタイプなのよね。
どうしてなのかは理由は分らないけど、絶対に私の結婚相手には康介みたいなタイプは合わないって感じるもの。でもでも、美香と康介の二人はとてもお似合いのカップルね。
美香みたいな美人で気立ての良い女性と結婚できて、きっと康介も幸せだろうな。
優子は柔らかに微笑みながら、心から二人の幸せを願った。
ふふ、でもいいもん、だって私には大好きなレオがいるもの。
優子は自宅で飼っている愛犬のヨークシャー・テリア 、レオの事を思い出した。
そして突然、家を出る時にレオのドッグフードを用意しなかった事を思い出すと、少し可哀想になった。
お腹空いてるなぁきっと・・よーし、帰ったらレオに美味しい物いっぱい食べさせてあげようっと。
優子は名前の通りの根っからの優しい心の女性ではあるが、男性とは今までに交際した経験が一度もなかった。
優子は今までに美香から何度か、知り合いの男を紹介してもらった事があり、男から告白された事も何度かある。
その中には容姿端麗な男性もいて、男の方から、優子の事を好きだから付き合って欲しいと告白された事もあるのだが、しかし毎回、優子は申し訳なさそうにそうした告白を断るのであった。
そして優子自身、なぜ、男性との交際に踏み切れないのか自分でも解らないでいた。
優子は男性と付き合っている自分を想像すると、なぜか精神的に拒絶反応が起きるのだった。
でもまぁいっか、恋愛よりも私は今は仕事を頑張らなくちゃね。
優子は都内の短大を卒業した後、全国展開をする某雑貨店に就職をして店長候補という形で入社し、現在は副店長として日々働いていた。
優子はその穏やかな性格から人当たりこそ良いものの、実際に働いてみて自分は接客業の仕事というのは向いていないのではないか、と考えるようになっていた。
不機嫌な時でも常にお客様に対して笑顔でいるのって本当に大変よね、それにしても、この結婚式場で働いてるスタッフの人達ってなんだか素敵だなぁ、だってみんな飛びっきりの笑顔だもん。私も見習わなくちゃね。
優子は常々、何事も我慢強く耐える事が美徳だと考える女性であった。
幼い頃に欲しい物を両親から滅多に買ってもらえなかったという事も我慢して抑えてきたし、中学生の時にお菓子を食べすぎて太ってしまった時も、持ち前の我慢強さを発揮して食欲を抑え、計画的なダイエットに励んで見事に減量する事に成功したのだった。
そうよ、我慢強い私なら接客業の仕事でもきっと、店長として上手くやっていけるはずだわ。
そう心の中で呟くと、優子は目の前に用意されている結婚式の料理を眺めた。
お腹が空いてきちゃったな、レオ君には悪いけど、今日はこの美味しそうなフィレ肉のステーキを食べちゃうんだからね、だって二人にご祝儀3万円も出してるんだもん、それぐらいいじゃない。
優子は食事の乗ったテーブルが幾つも並ぶ最前列から、康介と美香に再び視線を向けた。
その時、ウエディングドレスに身を包み満面の笑みを浮かべる幸せに満ちた表情の美香と優子の目が合った。
その瞬間である。
ドクンッ!
全身の毛が逆立つような感覚と共に、優子の心に得体の知れない戦慄が走った。
バクバクと心臓が早鐘を打ち奇妙な感覚が襲う。
呼吸が急激に荒くなり、そして優子の心の中に強烈な「何か」が沸々と込み上げてきた。
何!?何なのこれ!!?
動悸と吐き気が襲い優子の身体は小刻みにわなわなと震えた。
そして、頭に電流が走るかのような強烈な衝撃に襲われた。
次の瞬間、気が付くと優子の目の前には真っ白な世界が広がっていた。
見渡すり限りの白い空間。
何も無い真っ白な空間である。
「何!?一体何が起きたの!?ここはどこ!?」
優子は予期せぬ事態に困惑した。
さっきまで過ごしていた結婚式場とは違う場所。康介も美香も式の参加者も誰一人としていなかった。
そしてBGMのアメイジング・グレイスも流れておらず、自分の呼吸する息遣い以外、何の音も聞えないのである。
優子は不安に駆られて精一杯の大きな声を出してみた。
「誰かいますかー!」
その大きな声は、やまびこのように少しの間こだますると、やがて沈黙だけが支配する無音の空間に戻った。
困惑しながらも、優子はその真っ白な空間を歩いた。
でもここは一体どこなの!?
優子はこのわけの分らない不測の事態を理解しようと懸命に思考を働かせた。
そうだ、きっと私は夢を見ているに違いないわ、だってこんな事普通じゃ絶対ありえないもの。
そう思いながらしばらく歩いていると、いつの間にか、さっきまで激しく打っていた心臓の鼓動は静まり、穏やかな呼吸を自分がしている事に気が付いた。
「わけが分からないけどなんだか落ち着くな、この場所」
優子はなんだか懐かしい気持ちになりながらそう呟いた。
そして行く当ても無く奇妙な空間の中を歩いていると、目の前に水溜まりのようなものを見つけた。
それは5m四方程の広さの赤紫色の泉であった。
この泉は何かしら?それにしても綺麗な色ね。
泉の中央からは静かに水が湧き出していた。
その美しい、ワインレッドの色をした泉をしばらく眺めている内に、優子は好奇心に駆られて指先で水面に触れてみた。
赤紫色の綺麗な泉が静かに水面を揺らした。
ふと、前屈みになり水面に映る自分の姿を見た瞬間、優子は驚いた。
そこには高校時代の制服を着ている自分の姿が映っていたのであった。
「嘘でしょ!?一体どうして高校の頃の制服姿が映っているの!?しかも今よりも少し若い頃の顔が映ってる?!」
びっくりしながらも、夢の中なんだと自分を納得させて、赤紫色の泉に映るまだ幼さを残した高校時代の自分の顔を眺めた。
ふふ、高校生の頃を思い出すなぁあの頃は私と美香と康介でよく一緒に遊んだっけ。
優子は好奇心から、目の前の泉の水を手のひらで掬うと、水を口に含み飲んでみた。
その瞬間、急にバクバクと心臓が早鐘を打ち全身から冷や汗が噴き出すと、また式場で起きた不快な感覚に襲われた。
呼吸が荒くなり優子の頭の中で高校時代の忘れていた出来事の記憶の数々が走馬灯のように駆け巡った。
康介の優しい瞳に魅了されている自分。
公園のベンチに座り、自分に甘い声で囁く康介。
康介の逞しい肩に寄り添う自分。
思い出したのだ。
実は自分と康介の間にはお互いに両想いの時期があったという事。
そして二年生の時に、美香が自分達の入っていたテニス部に入部し、突然私達の前に現れると、美しい容姿をした美香は徐々に康介と親しくなり、そして交際直前まで進展していた康介を美香に奪われてしまったという事。
自分の心がひどく傷付きそれ以上深く苦しまないように、そして決して思い出さないように、固く蓋をして抑圧していた過去のドロドロとした憎悪と嫉妬に満ちた記憶と感情が、溢れ出る様に一斉に噴き出したのだ。
優子は大声で絶叫した。
「あぁあああああ憎い憎い憎い憎い美香が憎い!!」
その瞬間、意識が遠のいて気が付くと優子は康介と美香のいる結婚式場に戻っていた。
優子はかっと目を見開くと血相を変え、テーブルの上に置いてあった食事用のナイフを素早く右手に握り締め、席の最前列から狂ったように叫び声を上げて飛び出した。
鬼の様な形相で美香のもとへと猛然と突き進み、唖然として慌てて制止しようとする康介より先に、ナイフの先端を美香の左胸目がけて容赦なく振り下ろした。
ぐさり
「ぎゃあああっ!!」
ナイフは美香の胸に深々と突き刺さると苦痛に顔を歪めながら美香は悲痛な叫び声をあげて前のめりに絨毯の上に倒れた。
純白のウエディングドレスの胸元が赤い鮮血の色に染まってゆく。
「ヒヒヒヒヒヒヒヒ」
優子は口元を歪め、不気味な奇声をけたたましく上げるとその場で気絶した。
その後、美香は死に、優子はその場で取り押さえられ殺人罪で懲役二十年が言い渡された。
優子は拘置所での精神鑑定の際にこう供述した。
「あの日、殺す直前に不思議な体験をしたんです、真っ白な空間の中に私はいて、赤紫色の泉がありました、あの白い空間はきっと私の無意識の世界で、赤紫色のあの泉は私の憎悪と嫉妬の象徴だったんだと思います、美香を殺した事は、後悔していません」
二十年後、康介は真っ白い世界の中に佇み、赤紫色の泉の前に立っていた。
そしてその泉の水を飲み──────
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