009 下の名前要求
「じゃあ森に行って帰ろうか。いい時間だしね」
「そ、そうだな」
美影さんにキツめのタメ口を使うことにすごく罪悪感を覚える。
だけど慣れよう。他でもない美影さん本人からのお願いなんだから。
森へ到着すると、今までの場所と空気が変わったのがわかった。
「すごい……神秘的」
「まさに自然って感じだ」
「そうだね。空気も美味しいし、鳥の鳴き声が心地いい」
デートスポットとしては大当たりだな。
問題は美影さんにデートとして認識されていないであろうということだ。
森の中心部に来たところで、俺はずっと抱えていたものを吐き出した。
「美影さん、俺はさっき美影さんのお願いを聞いただろ?」
「うん、そうだね」
「今度はこっちのお願いを聞いてほしいんだけど……」
「あー、いいよいいよ。なに?」
「その……原町って呼ぶのやめてもらっていいか?」
自分の中ではかなり攻めたお願いだった。
ただこの俺の中ではデートだったイベントで距離を詰めるにはこれしかない。そう思ったんだ。
「……いいよ。じゃあ拓人くんかな?」
「あぁ! それがいい!」
美影さんボイスで下の名前で呼ばれる……こんな幸せがあるか?
拓人くんと呼ばれた瞬間に幸せホルモン的なものが脳内で分泌されたのがわかる。こんな感覚、いつぶりだろうか。
「ふふ、拓人くーん」
「そう意味なく呼ばれると照れるんだけど」
「おっ、何で照れるのかな?」
「何でって……」
まさか俺からの好意に気がついてやっているのか? だとしたら策士だな。
「まぁ異性から名前で呼ばれたら照れるよ、普通」
「そ、そうなんだ……」
ちょっとだけ照れたような表情になった美影さん。ってことは素で聞いてきたのか。
「も、もう一つ私からお願い!」
「えー? いたちごっこになるぞ?」
「そこは拓人くんが折れてくれればいいの」
「無茶苦茶な……で、お願いって何だ?」
「私のことも美影さんじゃない呼び方でお願いします」
俺の体に電流が走った。
美影さん呼び以外ということは……まさか……
「ひ、日菜と呼べと!?」
「う、うん。まぁそうだね」
いいのか? 呼んでいいのならそう呼ばたいけど。なんか特別感あるし。
断る理由もない。むしろウェルカムだ。
「じゃあ……日菜」
「うん。拓人くん」
照れながら名前で呼び合う2人。
どう見ても初々しいカップルだったようで、通りかかったお婆ちゃんたちが「いいわねぇ」とか話しながら歩いて行った。その言葉がまた余計に体温を上昇させる。
「て、照れるねなんか」
「慣れるまでは仕方ないんじゃないか?」
お互い目を逸らして会話せざるを得なくなった。
よくやく落ち着いたところで森の散歩を再開する。
歩いても歩いても木がある景色。あの異世界でのいい思い出の一つ、助けた村娘との森デートを思い出す。
あの娘は元気だろうか。今思えば初恋だったな。
「拓人くん、なんかまた異世界のこと考えてる?」
「え? なんでそんなに透けるんだよ……」
「拓人くんってすぐに顔に出るからね。注意だよ」
「接客業的には良くないよな」
「うん。営業妨害」
「そこまで言う?」
「あははっ」
楽しくなった日菜は森を少し駆け出した。サイドテールが健康的に跳ね、彼女の心を表現しているようだった。
「それでー? 拓人くんは異世界のどんなことを考えていたのー?」
日菜はちょっと離れた位置からだったので大きな声で聞いてくる。目立つから少し恥ずかしいな。
「うーん、初恋の人かなぁ」
「え!? 何それ何それ!」
「うおっ!?」
あり得ないくらいの速さで距離を詰めてきた日菜。そんなに気になることだったのか?
「なんだよ拓人くーん。異世界でそんな関係の子はいないって言ってたじゃん」
「いやまぁ付き合っていたわけでもないから。数日しか一緒にいられなかったし」
「へー。そうなんだ」
「その子ともこうして森へ出たんだ。ゴブリンが出る森だったからみんな村の外に出ようとしなかったけど、彼女だけは俺の力を信じて一緒に来てくれた」
「……………………いい子だね。拓人くんのいい思い出なわけだ!」
「そうだな。めっちゃいい思い出だ。数えるほどしかない」
「ふふっ、結局ネガティブ」
「しまった、ついうっかり」
「嘘。狙ってやったでしょ」
「バレてたか」
まぁその子は過去の子だ。今から会うこともできないし、あの世界だと生きているかもわからない。
初恋のことは忘れて、今を生きよう。
なぜか少しだけ頬が赤い日菜はくるりと回って口を開いた。
「じゃあ帰ろっか。今日はありがとね、拓人くんのおかげですっごい楽しいデートだったよ」
「あぁ、すっごく楽しかっ……で、デート!?」
「うん。デート。あれ? 何かおかしかった?」
「いやいや、日菜は今日のお出かけをデートだと思ってたのか?」
「う、うん。男女で映画を観てランチして自然公園に行ったらそれはもうデートじゃない?」
俺は心の中でガッツポーズして、好きなアニメの勝利確定BGMが頭の中で流れた。
今日のことをデートと認識してくれていたのなら、まだ俺にも勝機はある。明日からのバイトがより楽しみになってきたぜ!
「変な拓人くん。じゃあ帰ろっか」
「おう!」
心を躍らせて帰宅した。
変なテンションだったらしく、凛音に色々と問い詰められたのは言うまでもない。




