3-5 放課後勉強会
その翌日。昼休みが終わり、席に戻ろうとした所で桜川さんに呼び止められた。
「あの、一之瀬君。ちょっといいかな?」
話しかけられたら思わず振り向かずにはいられない嫋やかな声音。
黒髪からは名前の通り桜みたいな花の香りがする。本当どんなシャンプー使ってんだろうね。
「どうしたの?」
「一之瀬君って成績悪いって本当?」
いきなり出てきた不穏な台詞に、浮かれきった俺の表情筋が秒で死んだ。
「赤坂さんから聞いたんだけど……」
桜川さんは言いづらそうに俺をもう一度上目で見る。
「あいつめ……余計な真似をしやがって」
教卓前の赤坂は勝ち誇った顔で俺を一瞥すると、さっさと教室を出ていく。
俺達の事を観察する素振りも見せない。
「一之瀬君?」
その間も桜川さんはじっと俺を見ていた。小首を傾げて少しだけ不安そう。
「な、何でもないよ。それで?」
「一之瀬君って古文が苦手だって赤坂さんから聞いたんだけど。その……良かったら私が教えてあげようか?」
「桜川さんが?」
俺は周囲の視線を気にしながら聞き返す。
次の時間は化学。既に化学室に向かったのか、いつも周囲で騒々しく集まっている西崎グループの女子はいない。
他の連中だってそれは同じだ。何を一人で勝手に気にしていると言うのか。
「期末試験まで少ししかないし!」
と、桜川さんの声が俺の意識を引き戻す。
「一之瀬君。私はね、一年生の今だからこそ、早めに対策しておいた方がいいと思うの。分からない箇所をそのままにしてたら、この後もずるずる行っちゃうから」
いつのまにか距離を詰められ、彼女の虹彩が桜の花弁みたいな形で輝いていた。
「そ、それはそうだけど……」
確かに、この高校は授業の進行が異様に早い。正直ついていくだけで精いっぱいだ。
「だから、もし、良かったら勉強会しない? 私、古文得意なんだよ?」
「でも、今更勉強会なんて。それに、何か恥ずかしいし……」
このまま有耶無耶にならないものかと、俺は曖昧に答える。
「だよねえ」
すると、桜川さんも合わせるように頬を掻く。よし、このままの流れで退散しよう。
「じゃあ、桜川さん。俺そろそろ化学室行くから――」
「それなら、あまり人がいない図書室ならどう?」
「へ? 図書室?」
俺の小さな声はこの至近距離でも聞こえなかったらしい。
桜川さんは新たな提案をすると共に一歩近づいてくる。
「うん。だめかな? 放課後なら人もいないし」
ここの図書室には滅多に足を運んだ事が無い。桜川さんの話だとこの図書館は放課後はそんなに人がいないそうで、それなら勉強もしやすいだろうという事だった。
「じゃあ、放課後に待ってるから」
もう決まったも同然みたいな流れだ。桜川さんは教科書を抱いて急ぎ駆け出す。
「あのさ……桜川さん」
「大丈夫、大丈夫。私がちゃんと分かる所まで教えてあげるし」
そう可愛らしく微笑むんだけど、違うんだよな。
勉強会をするのは確かにありがたいし、クラスはおろか学年屈指の才女の手ほどきを受けるのは、間違いなく俺の学力アップに繋がると思う。
でも、女子と二人っきりなんて恥ずかしいだろ!
「桜川さん。俺やっぱり――」
しかし、手を伸ばしても桜川さんはもうとっくに行ってしまった後だった。
大声を上げて呼び止める訳にも行かず、俺は一人教室に取り残された。
放課後のチャイムが鳴る。
約束をバックレる訳にもいかず、とりあえず図書室に向かう事にした。
旧校舎とは逆方向に聳える新校舎は日当たりも良い。更に、放課後にも関わらず人とよくすれ違う。文化部の部室が多く集まっているからなのかもしれない。
音楽室の前を通ると、丁度練習を始めたのか吹奏楽の勇壮な合奏が始まる。吹き鳴らされる金管楽器の音から逃れるように階段を上った。
図書室の引き戸を開けると、テーブルと椅子が並べられた広い空間が広がっていた。
ちらりと目を配ると、本を読む生徒の姿は殆どおらず。カウンターの図書委員らしき女子も暇そうだ。
文庫を読みながら欠伸をする図書委員を無言で横ぎる。
歩けば香る古い書物の匂い。
書架が林立するスペースを越え、窓側に出ると見慣れた姿がテーブルに座っていた。
「げ、赤坂。何でいんの?」
「は、一之瀬?」
赤坂環季は教科書とノートを開き、勉強をしている真っ最中。
話が違う。俺は対面に腰かけた女子生徒――ここに呼びつけた張本人の桜川さんに抗議の目を向ける。
「こっちこっち」
しかし、目が合った桜川さんは気さくそうな笑顔で俺を呼び寄せる。
用意していた文句は喉奥で消え果て、後に残るのはほのかに甘い香り。俺の闘争心をデバフする効果でもついてそうなフレグランスだ。女子力が高すぎる。
「遅れてごめん」
俺程度の男が桜川さんの隣に座るなんて恐れ多い。仕方なく赤坂の隣に座った。
「一之瀬が来るなんて聞いてなかったんだけど」
用意してきた教科書を揃える桜川さんに赤坂が続く。何か不機嫌そう。
「まあまあ、赤坂さん。図書室では静かにね」
そう言って人差し指を立てる桜川さん。正論を言われ、赤坂はこらえるように椅子に座り直す。
「赤坂さんも古文は苦手って聞いていたから、声かけたの」
「そっか……俺の他にもいて助かったよ」
あまり話した事のない桜川さんと二人きりなんて緊張で勉強どころじゃなくなりそうだし、赤坂がこの場にいるのはある意味心強いのかもしれない。いや、そう思う事にしよう。
「じゃ、始めよっか。生徒会の先輩からもらった過去問があるの。参考になると思うんだけど……」
ニコリと小首を傾げた桜川さんは俺達にプリントした過去問を渡す。
俺達は並んでシャーペンを取り出し、問題に目を通す。
「「……!」」
そして、二人揃って絶句した。
「一之瀬君、お腹でも痛いのかな? すごい顔」
しょっぱなから分からない問題が現れたせいで、すごい顔をしていたらしい。
別に本当にお腹が痛かったわけでは無い。これでも最近は徐々に俺の体調もマシになってきているのだ。
「ああ、ごめん。わかんなくって」
気を取り直してプリントを桜川さんの方にも見せつける。
「大丈夫。三段活用のとこだよね? ここは……」
桜川さんは早速ポイントをかみ砕いて説明し始めた。
「なるほど、だからこうなるのね……」
隣で同じ問題を解いている赤坂も珍しく素直に話を聞いていた。理系特化に古文は鬼門なのか、詰まりながらも桜川さんの説明に頷き続ける。
桜川さんはの物腰穏やかな話し方はすっと頭の中に入り込んでくるし、元々優しそうな性格なので、分かりにくい事も気兼ねなく聞ける。
特に、俺みたいな奴は授業で分からない所があっても教科担に直接聞きに行かない。
だから、今みたいに授業内容をもう一度噛み砕いて教えてくれるのは本当に助かる。
「こんなところかな。活用のとこだけは、二人とももう大丈夫そうだね」
そんなやり取りを三十分程続けたところで、一休みしようかという事になった。
「ところで赤坂さん。ちょっと数学で分からない所もあるんだけど……いい?」
「え、どこどこ?」
今度は桜川さんが赤坂に質問する。この際だし聞いておこうという事らしい。
「ここなんだけど……」
そう言って桜川さんが鞄から取り出したのは先日行われた数学の小テストの問題だった。
顎に手をやりながら、赤坂が数式に目を通す。
「ああ……問3のとこでしょ? これ、ちょっと意地悪な問題なんだよね」
桜川さんが解けなかった問題らしいが、赤坂は分かっているようだ。
「ちょっと、教えにくいから隣行ってもいい?」
「え、うん」
桜川さんの横に赤坂が移動する。そして、ノートに解法を記しながら説明を始めた。さっきとは逆に赤坂が桜川さんに勉強を教えている。
「なるほど、こんな方法を使うんだ……」
桜川さんは納得しているようだけど、俺には高度過ぎて二人が何を話しているのか分からないよ。ていうか、何が分からないのかが分からない。
問題を理解した所で、赤坂が密着していた桜川さんの肩先から離れた。
「ありがとう赤坂さん。これからも数学で分からない所あったら聞いていい?」
「もちろん。私も古文は苦手だし、助かったわ」
吐息が聞こえそうな距離で二人がにっこりと微笑み合う。
何でか、鼓動がドキドキしてくるんだけど……
「でも、意外ね。桜川さんって全教科万能なイメージがあったけど」
手持無沙汰になったペンを回しながら赤坂が言う。
「二人にはそう見えるの?」
桜川さんはきょとんとした顔を赤坂、そして俺へと相次いで向けた。
「確かに。いっつも満点取ってるイメージしかないや」
「そうそう、数学で分かんないとこあるなんて意外っ」
俺が答えると、赤坂が珍しく賛同する。本当にレアなケース。
それくらい桜川さんの頭脳明晰っぷりを皆認めてるって事なんだろうけど。
「そんな事ないって」
しかし、桜川さんは俺の言葉に首を振って答える。
本当に恥ずかしいのか雪みたいな白皙の美貌が真っ赤だ。
「謙遜し過ぎじゃない?」
赤坂は冗談めかして桜川さんのペンを持つ手を指でつっつく。ひゃんとか可愛らしい声を上げて恥ずかしがる桜川さん。
俺に対しては指先で遠慮なく突っついてくるのにどこか優しくじゃれるような感じ。本当に何なの、この空気。
「そういう事じゃなくって。私より勉強できる人はいっぱいいるし」
桜川さんは謙遜する言い方だけど、実際彼女は学年でも名の知れた才女だ。様々な授業でいつも教科担に名指しで褒められているのを見てきた。
それでも、桜川さんはあくまでも自分が一番だとは認めていないようで、真っ赤な顔を俯かせる。
「ほら。うちのクラスだと北見さんや成田君はどの科目でも満遍なく良い点数でしょう? 私なんかより全然すごい。それに赤坂さんや風晴君も凄いと思うんだ」
「諌矢?」
桜川さんが挙げたクラスの秀才たち。その中にいた意外な人物の名を思わず聞き返す。
「うん。二人とも勉強だけじゃなく何でもできちゃうでしょ? そういう人って憧れちゃうんだ」
俺達の視線から逃げるように、窓辺へと顔を向ける。桜川さんのどこか照れたような表情が、夕陽に照らされ白じむ。
「勉強だけできたって……ねえ? 一之瀬君もそう思わない?」
再び俺達を見る桜川さんは困ったような笑顔を浮かべていた。
「俺?」
隣の赤坂は怪訝そうに窺っている。言葉の真意を確かめようとしているようだ。
「うん。一之瀬君は赤坂さんと風晴君と仲良いし、分かるかなあって」
そう言って、同意を求めるように桜川さんが黒髪を揺らす。
「ああ、そういう事か」
意外にも、桜川さんは俺の交友関係を見ていたらしい。
ついでに言えば、諌矢はクラスの副委員長という肩書まで持っている。同じクラス委員として近くで仕事をしているからこそ、桜川さんもあいつの凄さが分かっているらしい。
「確かに、諌矢は文武両道ってタイプだからなあ。文系理系問わずテストでも良い点とるし」
「うんうん」
そのまんま口に出すと、桜川さんは小さく頷いて相槌を打つ。
「あいつから聞いた話だと、近いから志望校下げて冬青に来たとかも言ってたし。有り得るか? そんな事が。だとしたら、テストで良い点取れるのは当たり前だけど、それにしたってバスケも野球もエース級とかは無いよな。どこのチート野郎だよ」
「ストップ、一之瀬。なんかきもいよ?」
そこまで言った所で赤坂が待ったを掛ける。
「何でだよ、桜川さんの発言に賛同しただけじゃないか」
「風晴君の事詳しすぎて、いくら何でも引く」
「違うし。俺はあいつに負けたくないんだ。だから、弱点探してるうちに詳しくなったんだよ。不可抗力だ」
言い返した所で、遠くの図書委員がこちらを気にしているのに気づいた。
うっかり声を出し過ぎた。俺は小さく頭を下げ、立ち上がりかけた椅子に座り直す。
「一之瀬君って、本当に風晴君が好きなんだね」
俺を見る桜川さんの目は何故か悪戯っぽく輝いていた。彼女が何故、こんなにも目をキラキラさせるか意味が分からない。
じっと見ていたら、思わず目を逸らされる。
「じゃあ、今日はもう少しだけやって、おしまいにしましょうか」
すっかりいつもの調子を取り戻した桜川さん。再び勉強会が再開された。
その後は英語を復習し、ようやく勉強会は終わりを迎えた。
図書室内にいた他の生徒も今は殆どいない。時刻はもう五時前。
「あー終わった。ありがとうね、桜川さん」
背もたれを使って大きく伸びをしながら、赤坂が声を上げる。
しかし、桜川さんは一人深刻な表情で考え込んでいる。
「赤坂さんは大丈夫だと思うけど、一之瀬君って結構英語苦手なんだね」
ぽつりと漏れる一言は重く低い声。
「え?」
「壊滅的っていうか……もっと、みっちり教えないと期末は赤点かも」
赤坂と違って桜川さんは冗談を言わない性格だ。
それはつまり、本気で俺の英語は危険域にあるという事。
「一之瀬君」
「あ、はいっ!」
思わず背筋を正して返事をする。
「その内、また放課後に見てあげようか? 英語の一教科だけ集中して詰めていこうと思うんだけど」
「ええ……」
提案された新たなプランに絶句する。
今日だけこなせば終わりだと期待していたのに。俺は嫌いな科目のテスト勉強はしない主義だ。
特に、英語なんかは一夜漬け以外で見たくもない。家の中で参考書を開くのさえ苦痛だ。
「良かったじゃん、一之瀬。二人っきりで勉強だなんて」
火に油を注ぐような一言を赤坂が添えたのは、既に鞄に荷物をしまい終えてこれから帰ろうかという所だった。
「は? 赤坂だって古文苦手じゃないか。赤点怖くないの?」
しかし、赤坂は途端に不機嫌そうに表情を崩す。
「私はあんたほど壊滅的じゃないし。苦手だとしても、そもそも赤点取るような成績じゃないし」
そう言って桜川さんの方に身を乗り出す。
「ね、桜川さん。私も古文でまだ分かんないとこあるからさ。また聞いてもいい? 昼休みにでも」
わざわざ俺と被らない時間帯で相談する辺りが隙が無い。
でも、ちょっと待ってほしい。誰が好き好んで自分の昼休みを潰して他人に勉強教えるというのか。
「赤坂……もう少し桜川さんの都合考えろよ」
「勿論大丈夫だよ。赤坂さんは遠い所から通ってるし、その方が良いよね」
前言撤回。昼休みが潰れようが桜川さんは教える気満々だ。
赤坂の提案を快諾したクラス委員長。きょとんと俺を見て小首を傾げる。
鎖骨にさらさらと垂れ込む黒髪に思わず魅入られそうになる。何だよこの子、聖女か。
「一之瀬」
呆けていたら隣の赤坂が今度は俺に話しかけてきた。
「桜川さんに放課後マンツーマンで教えてもらえるなんて最高じゃない? これで期末は首位浮上だね」
そう言って皮肉たっぷりの顔で笑った。
でも、こいつは俺が女子に苦手意識もってるコミュ障なの知ってるから、多分ざまあって事なんだろうな。
短編の方も投稿してみました。
少し毛色が違うラブコメなのですが、完結作品ですので宜しくお願いします。




