4-38 諫矢との衝突
翌朝の教室。席に着いていた俺は意を決して立ち上がった。
「え」
「一之瀬、どうした?」
教室を俯瞰するように見渡すと後ろの男子二人、成田と福井がぎょっとしている。
だけど、俺には答える余裕なんてない。
俺がここで立ち上がったのは、今この教室の景色を改めて眺めておきたかったからだ。
「ねー委員長。ここ教えてくんない? 愛理も瑛璃奈も全然分かってなくてさあ。聞けるの委員長くらいなんだよね」
「うん。どこ?」
教室の中央では今日もクラスメートに勉強を教えている委員長の姿がある。
見る限り、桜川さんはすっかり復調したようだ。
「でさー」
西崎グループも相変わらずだ。
竹浪さんや山吹が勝手に話題を振って、それを余裕たっぷりの表情で西崎が聞いている。
傍らに控えているのは野宮か。須山や甲野と言った仲の良い男子数人も周りで相槌を打っていた。
だけど、その中に諫矢はいない。隅っこで黄昏るようにどこへともない視線を向けてぼうっとしている。
そんな諫矢を見て渡瀬さんが気にしているのも俺は見逃さなかった。
周りから見たら何でもない事なのかもしれない。
でも、困っている女子が数人いるのも事実。それを分かっていて何もしないなんて俺にはできなかった。
だいいち、諫矢は俺の友達なんだ。
教室内で微妙に起きた変化の風。でも、それが分かっているのは多分俺だけだし、それも俺一人が勝手に感じているだけなのかもしれない。
諌矢は自分の筋を通しただけの事。
それでも――
「なあ、諌矢。ちょっといいか?」
その日の放課後。皆が教室を出る中で俺は諌矢に声を掛けた。
そして、旧校舎裏へと連れ出したのだ。
「どうしたんだよ。急に」
呼び出された諌矢は開口一番、そう言った。
「しかもこんなとこまで」
見るからに億劫そうに髪をかき上げる。
半月に渡って取り組んできた壁画もようやく完成というところまでこぎ着けた。
いよいよ仕上がりを確認するのは今日か明日。そのタイミングで呼び出しを喰らったのだから無理もない。
「悪いな、日が暮れるってのに校舎裏まで呼び出して」
俺は諌矢と対峙したまま、影が伸び日陰になった校舎の壁を見上げた。
旧校舎裏、じめじめした空気感と薄暗さ。遠くから草と土の匂いを風が運んでくる。
「こんな場所まで連れて来た割に慣れてるって顔してるな、夏生」
「そうか?」
「ああ。人がいない場所を探すのは好きだって前に聞いたけどさ」
夕陽の名残を見上げている諫矢の横顔を見ながら俺はふと思った。
――校舎裏か。
いつか渡瀬さんに呼び出しを喰らったのもここだった。
ほんの半年ばかり前の事なのに懐かしさを覚える。
今思えばあれが全ての発端だった。この校舎裏から俺の高校生活は始まったんだ。
あの時の俺は渡瀬さんに呼びつけられたけど勘違いだった。彼女の要件は俺への告白じゃなくて諌矢に関する事柄だったのだ。
今ここに諫矢を呼び出したのはまるで、あの時の間違いを正すためのように思える。
「……」
俺が何をどう言っても諌矢の考えは変わらないだろう。
桜川さんに西崎、そして渡瀬さん。好意を向けられ、彼女達の好意を諫矢が自覚していたとしても、きっと。
優しいこいつはきっと誰も選ばない。
でも、西崎たちはその優しさのせいでずっと苦しんでいる。
だから俺は――その輪の外側にいる俺だからこそできる役割がある。
「なあ諫矢――諌矢って桜川さんの事好きなの?」
「なんだよ、またかよ」
上っ面の笑いを浮かべて諌矢は答える。
詰まりそうな言葉を喉から絞り出した俺と違い、よくここまで簡単に返せるものだ。こいつのこういう所が本当に羨ましい。
「どうした? もしかして夏生。清華が気になってるとか?」
直接質問には答えない。答えさえ言わなければ、俺は何も分からないままだと思っている。
けどな――
「桜川さんと諌矢は多分両想いだよ」
その笑顔が一瞬固まる。
「俺なりにこの半年間見てきて思った答えなんだけどな。違うか?」
答えは返ってこなかった。一方通行みたいな会話をしていると思う。
俺は自分の勘と憶測をそのまま諌矢にぶつけているだけ。
でも、諌矢が桜川さんを好きだと俺が思っているのは事実だ。
二人は幼なじみだし、諌矢は桜川さんを選べない。でも、好きなんだと――これまでの直感が俺にそう告げている。
頼りない直感はだけど、一瞬――本当に一瞬だけど諫矢の表情を硬直させた。
「だから、なんだって?」
悪い冗談だ。そう言いたげな諫矢。本当に爽やかに流すものだな。
諌矢を巡るややこしい問題が絡まった糸が少しでも解けるならと思ったけど、何も状況は変わらない。
「そっか……」
力なく俺は答えた。それしか言葉が出てこない。
自分がこれ以上出しゃばっていいものか、そんな葛藤があった。
はっきり口出しする事は、『友達だから嫌な事を言う』という行動。本当か?
三人の女子と諫矢の問題がそれで解決するとは思えない。そんな風に心の中でもう一人の俺があざ笑う。
お前は所詮部外者じゃないか――。
「でもな」
不意に心の中でブレていた残像が抑え込まれ、くっきりとしたものに変わる。
「誰も幸せにならない。皆がモヤモヤを我慢してる」
「ああ、分かってる」
諌矢は少しの間沈黙し、深いため息と共にそう答えた。
「分かってるよ」
すっかり日が落ちた仄暗い校舎裏。互いの表情はもうはっきりと見えない。
「ありがとな夏生」
抑揚のない声で諫矢が言った。
「全ては清華をそれなりに満足させるためだ」
暮れた夜の始まりを告げるように涼やかな風が吹く。それに乗せられた明朗とした声色。
「これでいいんだ」
さらりと言ってのける諫矢。
「まるで何でも簡単に解決してしまうように言うんだな」
俺は自然と棘のある言い方で返していた。
「勘の良い夏生の事だ。全部俺の思惑も分かってるんだろ? ならもういいんだ」
――違う。そうじゃない。
そんな風に心は俺は叫ぶ。
――本当にそれでいいのか?
今までの俺じゃない俺が心の中で急き立てる。
いろんなクラスメートと関わってきた。そんな俺がこの現状を見過ごしていいのか?
何も選ばない諫矢をこのまま放っておいていいのか?
「そんなの間違ってる」
俺は己のエゴを突き通す。
でも、小さすぎた声のせいか諫矢には聞こえなかったようだ。
「……帰ろうぜ」
くい、と手首を向けて道を促す。
「待てよ諫矢」
今度は大きく言うと、諫矢の背中がぴくりと固まった。
「一言だけ言わせてくれ」
いつもなら黙って言う事を聞いて引き下がるのかもしれない。けど、今日は特別だ。
喉からこみあげてくる今までずっと言いたかった言葉。
「桜川さんの事も、それから西崎の事も考えろよ」
「は?」
「あと――渡瀬さんの事も。はっきりと告白されたのに有耶無耶にしたんだろ? 酷くないか」
指摘すると、諌矢の顔が流石に強張る。
「いい加減そういう曖昧な躱し方は止めるべきなんじゃないのか?」
せめてはっきり断れば。渡瀬さんも次に行けるのに。
まだチャンスがあると彼女に淡い期待だけ残させて、でも諫矢本人はそれに答える気なんて毛頭ないのに。
それが我慢ならなかった。
「渡瀬さんの事を何でお前が」
諫矢は明らかに動揺していた。声の勢いがさっきまでとまるで違う。
「西崎から聞いた」
「あいつ……」
はっきりと答えると、諌矢は頭を抱えたように手をやる。
そして、大きな大きな溜息を空に向かって吐いて見せた。
「余計な事を」
じろりと俺を見ながら、諌矢が向き直る。
「で、俺にどうしろって?」
「なんとかするんだ。諫矢自身で」
「はあ? なんで――」
俺はぐっと詰め寄る。
「だって、諌矢だろ? お前ならこういうめんどくさい状況も何とか出来るだろ」
諌矢の顔から初めて微笑が消える。
「もう人の心を傷つけるような事はやめてくれ」
「……」
これまでになく怜悧な表情がこちらを向いていた。
この状況をどう切り抜けるか、俺と違って私情など微塵も感じさせない機械的な眼差し。
「俺なら上手くやれると?」
「そうだ」
「お前まで俺にそんな期待するのかよ」
うんざりしたような諫矢の顔。
これまでも何度も掛けられた言葉だったんだろう。そんな過去が垣間見えた。
「期待ね。そういうつもりで言ったんじゃないけどな」
「俺からしたら同じだよ」
俺は諌矢の意志を無視して口出ししているな。そう思った。
「夏生にしては変わった事言うんだな」
「俺がいつも、期待通りの当たり障りのない言葉を返すと思ったか?」
諫矢の顔から薄ら笑いが消えた。
「もうそういうのは辞めだ。俺は諫矢が考えるほどお人好しじゃない」
「まるで、普段はお人好しみたいな言い方だな」
案の定言いくるめられてる――くそ。
「違う、そうじゃなくて……」
自分で放った一言が恨めしかった。
いつもこうだ。
俺は別に諌矢を非難したくて対峙している訳じゃないのに、憎まれ口みたいな事を叩いている。
ここで適当に軽口で返せば元通り。諫矢ともお互いを察しながらもまた上手くやっていけるだろう。
――でも、ダメだ。
俺はさっきから止まらない拳の汗をズボンで拭った。そして、もう一度心に言い聞かせる。
言わなくちゃ。




