3-28 彼女からの手紙
講習初日。
午前中いっぱいかけて、数学の講習が今ようやく終わった。
講習期間中は午前授業の日程とはいえ、本来は夏休み真っただ中。何か損した気分になる。
「そういや、夏生は英語どんくらい進められた?」
配られた解説と回答のプリントをしまっていたら、諌矢に声を掛けられる。
「は? 今日英語なんてあったか?」
諌矢は問題用紙には手を付けず、違う教科の課題を内職していたらしい。ルーズリーフをパラパラと見せつけるようにめくる。
見ると、偉く達筆な草書体で書かれた英文に、端正な字でしたたまれた訳文が添えられていた
「お前、数学の講習なのに英語の課題やってたのか?」
「古賀の出す課題、英訳の量が多すぎなんだって。それに俺数学分かるし。だったら今の時間にこなした方が効率良いじゃん?」
諌矢はそう言って、得意げな顔で俺を見る。
「数学で良い点取れる奴は余裕だな。俺なんて講習中はまともに問題に手が付かなかったってのに」
昼前のせいか、最後の時間なんて空腹感との戦いだった。意識の殆どは腹が鳴らないように傾けられ、問題の解説は殆ど頭に入っていない。
「何だよ。もしかしてまた腹痛か?」
見透かしたように諌矢が言う。
「仕方ないだろ。講習とは言え学校だぞ。静かな教室内だと腹が鳴りそうになって集中できないんだよ」
「それならさあ、他の連中みたいに休んじゃえばよかったのに」
そう言って人差し指をくるくるさせながら、諌矢の視線は今日一日空席だった机の方に向けられる。その中には桜川さんの席もあった。
「諌矢。午後って暇~?」
そこに、丁度西崎と竹浪さんがやってきた。どうやらこれから帰るらしい。
「甲野達と昼ごはん食べに行かない? って話してたんだけど」
金髪を揺らし、くいと傾げた先には教室後方で帰り支度を終えて待ち構えているリア充達の姿。須山にバスケ部の甲野、あとは工藤と数人の女子。まあいつも一緒にツルんでいる顔ぶれだ。
「そうだな……」
ちらっと俺を見るけど、あの中に紛れ込むのは嫌だ。知らんぷりして立ち上がる。
「じゃあ、行くか! ちょっと待ってもらえっか?」
「早くしろし」
俺の意図を汲んだ諌矢は帰り支度をゆっくり始めた。
一方の俺は鉢合わせにならないよう、彼らがいない教室前側のドアから帰った。
校舎脇の駐輪場には心地良い風が通り抜けていた。日陰になっているので夏真っ盛りのこの時期でも驚くほどに涼しい。
トタンの庇の下に停まっている自転車の数はまばらだ。その中から自分の自転車を取り出して帰ろうとしたら、ちょうどこちらへと歩いてくる女子生徒がいた。
「一之瀬君。ちょっといいですか?」
そのまますれ違うかと思いきや、俺の目の前で足を止める女子生徒。
「渡瀬さん。何かあったの?」
狭い駐輪場の合間で俺を呼び留めたのは、同じクラスの女子生徒、渡瀬奏音だった。
肩先でゆるく内にカーブを描く、色素の薄い栗色の髪。同世代の俺にも丁寧な敬語口調。渡瀬さんは赤坂とは同じ中学に通っていた時期もあり、俺にとっても因縁のある相手だ。
「どうしたの?」
自転車のサイドスタンドを上げながら問うと、渡瀬さんは恥ずかしそうに視線を横に逸らす。目の前で見ると赤坂や西崎よりも小柄で、ガラス細工みたいに繊細で華奢な身体つき。
「あの……」
すっかり見とれていたら、不意にこちらに向き直る渡瀬さん。
駐輪場の屋根の下、大きく広がった黒い虹彩に飲み込まれそうになる。
「風晴君とは今も仲良いですよね?」
「そ、そうだけど。なに、諌矢に用でもある?」
以前、渡瀬さんは俺を呼び出した事がある。当時の俺はてっきり告白かと狂喜したものだが、結局は諌矢との橋渡し役を頼まれただけだった。
その後、特に進展も無く、今に至る。
渡瀬さんが俺に接触を試みたのもそれ以来の事なので、寝耳に水の状態だ。
「あのっ! これ渡してほしいんです。その……風晴君に」
そう言って両手がぱっと動く。白い蝶みたいな形で俺の胸元に突き付けられたのは彼女の手のひら。その上には薄桃色の小さな封筒がちょんと乗っていた。
花のような石鹸のような、仄かな薫風が鼻腔を掠める。
「これって……」
そのままの流れで受け取った俺はその表裏を恐る恐る見返す。
裏面は白のレースの刺繍を模った三角形のシールで封がされ、表は『風晴諌矢くんへ』とだけ記されていた。
丸みを帯びたタッチはいかにも女子らしい。見ているだけで可愛らしい字体。
「中には手紙が入ってるんです。わかりますよね? 一之瀬君なら」
そう言って、俯く渡瀬さん。ぽうっと仄かに顔が紅潮している。
「もしかして、諌矢宛てのラブレター?」
「もうっ! ちゃんと言わなくていいのに!」
無意識に口走ると、過敏に渡瀬さんが反応する。
シーッと口元に人差し指を添えて辺りを見渡すが、この駐輪場には幸いにも俺達以外の生徒は見えない。
渡瀬さんは気を取り直したようにぐっと俺に詰め寄る。
「とにかく、これを風晴君に渡してほしいんです」
俺に渡してくれと頼むだけでも相当の勇気を出していたのだろうか。心なしか瞳は潤んでいて、見ているだけで胸が締め付けられそうになる。
彼女を助けなければという義務感が湧いてくる。
「わ、分かった。任せてよ」
「ありがとう。一之瀬君にしか頼める人いなくって」
ちらりと俺を見る可愛らしい双眸。睫毛が瞬き、
「……それに優しいし」
その奥の薄桃色に見える瞳孔に魅了されそうになる。
「他の人にはバレないようタイミング見て渡しとくよ」
調子良い事を言ってしまう俺。
女子の言う優しいだなんてお世辞に決まってるのに、真に受けちゃうのが俺の悪い癖だ。
「……あいつの周りっていつも他の人いるし、こういう手紙って渡しにくいよね」
「そうなんですよ!」
気まずいので余計に舌を回すと、渡瀬さんが食いついてくる。
「本当、風晴君の周りって、いっつも人いるじゃないですか。西崎さんとか野宮さんとか!」
そこまでまくし立てた後で、自分でもそのテンションの上がりっぷりに気づいたのだろうか。渡瀬さんはコホンと咳払い一つ。
「ていうか……もしかして、風晴君ってあのメンバーの中で付き合ってる人いたりします?」
俺を一瞥しながら、真意を問いただそうとするような目を向けてくる。
「それは無いと思うよ」
瞬間、渡瀬さんの黒い瞳が更に大きくなった。
「西崎とは付き合ってないし、野宮達とも何も無い筈……だと思う」
「……良かったぁ!」
俺には西崎から聞いた確かなソースがある。それを伝えると、渡瀬さんはオーバー気味のリアクションで胸を撫で下ろした。
「西崎さんとか特に最近仲いいし。もしかしたら、付き合ってるんじゃないかって不安だったんですよね」
そう言って、俺はにかむように笑った。
「期待していますよ。一之瀬君」
「お、おう」
どもりながら返事をする。返事も聞かぬ勢いで渡瀬さんはくるっと回って駆け出した。
「じゃ、お願いしますって事で!」
小さめのリュックを揺らし、短いスカートをひらひらさせながら、渡瀬さんは向こうの駐輪スペースへと走っていった。
俺は、まだ手に握られたままの諌矢宛ての便箋を見下ろす。
渡瀬さんは曲がりなりにも一度、俺に対して告白紛いの呼び出しをしている。
結局、俺の勘違いだったにせよ、そういう過去があるとそれなりに女子として意識はしてしまう。
でも、渡瀬さんの本命は諌矢なのだ。
「ほんと、噛ませ役もいいとこだな」
渡瀬さんの頼みを断り切れなかった自分の性格に、うんざりしながらサドルに跨った。




