穏やかなる日常
夕刻───────、
西陽が、丹波方面に連なる山々の向こう側へと沈みかかっている。
茜色に染まった空では、数羽のカラス達が気の抜けた鳴き声をあげながら、どこか遠くへと飛んでいっていた。
その下、緩やかな流れの川に面した河原にて、頭から爪先までぐっしょりと水で濡らした2人の少年が座り込んでいた。
1人は、左足を適当に投げ出し、立たせた右足の膝の上に片腕を載せ、それに身を委ねるように寄りかかった姿勢で、煌めく水面を意味もなく眺めている。
そしてもう1人は、あぐらをかいて両手を組み、その上に力なく垂れ下がった頭を載せた姿勢で、ただ静かに、両目を閉じて黙りこくっていた。
「…………やっぱりダメだっただろうが」
最初に口を開いたのは、源太だった。
うなだれていた頭を上げて、横目でちらりと隣の衛実に視線を送る。
話しかけられた当人は、何の反応も示すことなく、ずっと川面を眺めたままでいた……が、それも長くは続かなかった。数秒の間をおいて、突然頭をガリガリと掻き出し、悔しそうな表情をする。
「あぁクソッ! あと少しだったんだ! あと少しで、あの花を手に入れられたんだ!」
「んな事言ったってお前、結局のところ採れなかったんだろ? その挙げ句、こんな目に遭わされるなんて…………、もう全身ずぶ濡れじゃねえか」
「うっせえっ! 手は届いてたんだよ! 大体、お前があそこでヘマしなけりゃ、俺だって川ん中に落ちたりしなかったんだぞ!」
「何!? 俺のせいだって言うのか! それを言うなら、俺はお前に "危ないから引き返そう" って言い聞かせたはずだぞ! それを無視したお前のせいじゃないか!」
気づけば2人は、立ち上がって互いの元へと歩み寄り、額を突き合わせながら声を荒らげて言い争っていた。
そのまましばらくの間、幼稚なケンカが続くかと思われた。だが疲れていたのだろう、やがて大声を出す気力も萎えて、2人はまた先程と同じように、河原に力なく座り込んでしまった。
「…………それで? これからどうすんだよ」
再び源太が口を開き、衛実に問いかける。
問われた少年は、ぶすっとした顔をして、やや投げやり気味に答えた。
「どうするって、んなの決まってんだろ。 …………帰るしか」
「…………こんな格好で?」
「…………………仕方ねえだろ。とにかく、今はさっさと帰るしかねえ」
「そうだな……。もう日も暮れかかってる、なるべく急いだ方が良いな」
そんな発言とは裏腹に、源太の足取りはひどく重たく、そんな彼を咎めるはずの衛実もまた、心ここに在らずといった具合で、ダラダラと村への路を歩んでいった。
「おや、ようやく戻って来たね、ってどうしたの!? そんなずぶ濡れで……」
行きの倍以上の時間をかけて、ようやく村に帰還した2人を、たくさんの洗濯物が入った籠を抱えた衛実の母・日奈が出迎えた。
2人の悲惨な姿を目の当たりにして、愕然とする日奈だったが、すぐに察して、ため息をつく。
「さては、あんた達また何かやらかして来たのね? 全くもう……。
着替えなんかは用意しておくから、早く風呂に行きなさいな。父さんも直に帰ってくるからね、急ぐのよ」
気を利かせた日奈の言葉を素直に聞き入れて、2人の少年は風呂場へノロノロとした足取りで向かって行こうとする。
「おか〜さ〜ん? どうかしたの〜?」
と、そこへ、2人の背後から日奈を呼ぶ少女の声がかかってきた。無意識に声がした方へと顔を向けた衛実は、仰天して大きく目を見開く。
「な……、椛!?」
「あ、お兄ちゃんだ! お帰り〜! またやんちゃしてたんだね。源兄さんを困らせたらダメじゃない」
夏の向日葵のような笑みを浮かべて、手を振りながら歩み寄ってくる椛。
本来であれば嬉しくて笑顔で迎えたくなるはずであるのに、衛実は今日の出来事もあってか、バツが悪そうな顔をして、仰け反りながら後ずさった。
「べ、別に困らしてなんかいねえよ。大体、こいつは勝手に付いて来ただけだ。適当言ってんじゃねえ!」
「え〜、本当に? どうせまたいつもみたいに、仕方なく付いていってあげてるんでしょ? お兄ちゃん、1人だと危ないもんね〜」
手を後ろに回して、上目遣いで覗き込んで来る妹。彼女に心の中を見透かされる訳にはいかない、と兄は必死に目を逸らしてその視線から逃れようとしていた。
「うっせえ! んなことねえよ。つーか源太お前、なに頷いてんだ、引っぱたくぞ」
「いや〜、椛、お前さんは本当よく出来た妹だよ。このやんちゃ野郎にもっと言ってやってくれ」
「てめえ!」
まるで自分の自慢の妹だとでもいうような顔で、とぼけた事を言う源太に衛実が掴みかかろうとしたその瞬間、彼ら2人には絶対に聞こえてはいけない声が割って入って来た。
「おーい、何してんだ?」
「「あっ…………、」」
「おとーさん! お帰り〜!」
務めから戻って来た衛実の父・衛成は、凍りついたクソガキ2人を相手にせず、久々に顔を合わせた愛娘の髪をありったけの愛情を注ぐように、くしゃくしゃと掻き撫でた。
「おー! 椛だだいまァ! 元気してたか? 久しぶりだろ、ゆっくりしていけよ!」
そうやって、ひとしきり親子の再会を喜び合うと、衛成は今度は先程からずっと微動だにしない2人に向けて話しかけた。
「んで? 衛実、源太。お前達どうしたその格好、服着たまま水練でもしてたのか?」
それまでずっと放心状態でいた2人だったが、急に話を振られて、慌て出す。
そんな中、必死に頭を回して口実を見つけた衛実が、しどろもどろになりながら、父の問いに答えた。
「ま、まあ、そうだよ。最近、素振りばっかだったからさ、たまには、身体全部使った鍛錬をしよう、って」
「ほぉ〜、自分達で考えて鍛錬をしたんだな、感心感心。
ところでな、今日、村の見回りしてたらよ、"立ち入り禁止"の立て札が蹴り折られていたんだが……、お前達、何か知らないか?」
ブンブンと顔を振る衛実と源太。だが、彼らの精一杯の努力を嘲笑うかのように父・衛成はニヤリとした顔で意地悪く話を続けた。
「そうか、知らないかあ。なら、仕方ないな。嘘を付いていた奴には、普段よりもっと強めの罰を科すつもりだったが、お前達じゃあ、ないんだもんな?」
"さらに罰が科せられる"と聞いて、固まる2人。見かねて日奈が衛成に話しかける。
「あなた、もうそこまでにしておいてあげて。今日は、都にお務めの椛が久々に帰って来たのよ?
主役が居心地悪そうにしてたら、可哀想じゃない」
「それもそうだ。悪かったな椛」
「ううん、大丈夫。気にしないで! いつもの事だもんね!」
竹を割ったような気持ちの良い返事をする椛にツボを刺激されて、衛成は『ハッハッハッ!』と高らかに笑う。
「その通りだ! さすが俺と母さんの自慢の娘だ、よく分かってる。
さ、今日は宴だ! 日奈、今日の晩飯は抜かりないな?」
「もちろんよ、腕によりをかけて作ったんだから!」
「よし! そうしたら、さっさと始めるぞ。
源太も、源介や清達を呼んで来ると良い。皆で椛の里帰りを祝うぞ!」
「は、はい! すぐに!」
「ま、今日の事は、その後じっくりと、聞かせてもらうからな。いいな? 源太、衛実」
衛成の声音はいつもと変わらず陽気で、さらに今日は、いつも以上に笑顔だった。
だが、2人の少年を真っ直ぐに見つめるその目だけは、笑みとは程遠いくらいに冷たく、『決して逃しはしない』という強い意志が灯っていた。
2人の少年は悟った。
今日明日、いや、しばらくは地獄の日々が容赦なく己の身に襲いかかって来ることを。
そして、それに抗うどころか逃れることすらも出来ないことを。
源太は蚊が鳴くような弱々しい声で『は、はい……』と応え、衛実は『げっ……』という、言葉にもならない声を上げて絶望していた。