庚申待ち(三十と一夜の短篇第43回)
今は昔、円融帝の御代のことです。天元五年正月二十七日(西暦九八二年二月二十八日)、その年初めての庚申待ちの夜と、円融帝のおきさきの一人、梅壺女御の詮子様の許にはらからが集いました。
暦で干支が庚申に当たる日に眠ると、人の身中に住まう三尸という虫が体から抜け出し、天帝に罪過を告げに行って、それにより寿命が縮まると唐土から伝わりました。眠らずにいれば三尸は体から抜け出せないので、皆々眠気を我慢して終夜遊芸事などして過ごすのが庚申待ちです。
梅壺女御詮子様の姉上で、先の帝、円融帝の同母兄冷泉院の女御であられる超子様、長兄の道隆様、次兄の道兼様、弟の道長様がいらっしゃいました。
超子様は冷泉院との間に三人の親王と一人の内親王を儲けられ、詮子様は円融帝の唯一人の親王を授かっており、きさきとしての立場を強く固められております。
道隆様は三十近くなり父の右大臣藤原兼家様の跡継ぎとして頼母しく、道兼様は超子様より下、詮子様より上と二十代半ばに差し掛かろうというお年頃、一番下の道長様はまだ十九歳。父だけでなく、母をも同じうする強い絆をもつはらからで、これからの栄を共にしようと、気持ちが華やいでおいででした。
やっと厳冬が過ぎて春の兆しを感じ始める時期、重ね着をして、火桶に手をかざしたり、身を寄せたりしながらも、双六や碁、歌詠みなどしながら、にぎにぎしく夜明かしをなさいます。
詮子様は円融帝の兄でもある冷泉院のことを超子様にお尋ねになります。姉妹で兄弟を夫にしているのですから、お話は自ずとそうなってきます。冷泉院はお振る舞いが奇矯であると言われているので、男きょうだいたちも超子様の言葉に耳をそばだてます。
「お上はいつも朗らかでいらっしゃいます。謡いや言葉遊びを好まれます。わたくしも、ほかのきさきたちもお上を心からお慕いし、お仕えしております。
重々しさが足りないと軽んずる向きがあるのは存知ております。ですが、そもそもお上はただ人ではございません。神のお声が聞こえる、九条のお祖父様のお声が聞こえるとのたまわれます」
道隆様ははたと膝を叩かれました。九条のお祖父様とは超子様たちの祖父で、冷泉上皇と円融帝の外祖父である藤原師輔様です。
「九条のお祖父様ですか。
確かに九条のお祖父様は人とは違ったお力を持っていると聞かされています」
道兼様も道長様もお話に混じってきました。
「夜更けに宮中を退出した時に、あわわの辻で急に牛車を停められて、供回りを車の側に寄せられて、尊勝陀羅尼を唱えました。供には何も見えなかったが、お祖父様には百鬼夜行が見えていたので、難を逃れたというではないですか」
「ええ、院の大嘗会の際にもお祖父様が院をお抱き申し上げて、お守りまいらせたと聞きました」
丁度道長様と双六をしていた道兼様が、賽子を取り上げながら、話を続けました。
「我らが生まれる前、皇太后様――村上帝のおきさきだった安子叔母――が院をお腹に宿していた頃の庚申待ちの夜に、祖父さんがやはり同じように双六をしていたって言うじゃないですか。
皇太后様はそれまでおめでたがあったものの、死産だったり、授かったのが内親王だったり。先に更衣の一人が一の宮を儲けて、先を越されたと、祖父さんも叔母も穏やかではなかった。更衣の父親で、民部卿藤原元方が行く末帝の外祖父になれると得意がっていた。そこに皇太后様のまたおめでたが重なった。衆目を集めるとはこのことだ。
宮中での庚申待ちで祖父さんは双六で賽子を振りながら、「我が娘の女御の御子が男でございますれば、重六よ出よ」と言った」
道兼様は賽子を振られました。そこに出た目は二つとも一の目でした。道兼様は苦笑いされました。
「しくじったな。
だが、祖父さんは一度で重六を出した」
重六とは二つの賽子が両方とも六の目を出すことです。勝負事では最高の目です。
「周りの者たちは目を見交わしてやんやと褒め、祖父さんは自らの運を確信した。見ていた元方は顔色を変えて真っ青になったってさ。
それから干支が一つ回って五月の庚申の日に皇太后様は産気づき、翌日の天暦四年五月二十四日の寅の刻、無事に親王をご出産遊ばした。それが超子姉上――女御様の背の君の院であらせられる。七月には皇太子に定められ、祖父さんと皇太后様の勝ち。
元方はすっかりしょげかえって三年後に亡くなった。
祖父さんの強運にあやかって我らはここまで来た。それを超えたいね」
道兼様の口振りに、超子様は顰めた眉を扇で顔を隠しながらお諭しになりました。
「帝の御子が男か女かで、勝ち負けを申すものではありません。それにお産は女にとって命懸けです。皇太后様はあまたの御子に恵まれましたが、遂にはお産で命を落とされましたし、幼くして薨ぜられた御子もいらっしゃいます。
軽はずみな言は慎みなさいませ」
気を付けます、と道兼様は答えられましたが、従う気は無さそうでした。
「村上帝は同じ年に第一皇子と第二皇子が誕生され、帝にとっては慶事でも、臣下にとっては同じように祝っていられないのはお判りでしょう。
第一皇子の広平親王を跡継ぎにと願うのは母の更衣の祐姫と、その父民部卿元方。第二皇子のであられた憲平親王――院の諱をお出してしまった――をと願うのは当時右大臣だった祖父さんと、女御だった叔母の皇太后様。
帝の一の宮が皇太子になると限らぬのは、この日の本の歴史で珍しくない」
これには超子様だけではなく、詮子様もみ気色を変えられました。慌てて道長様が付け加えます。
「梅壺女御である姉上様は大丈夫です。ほかのおきさき方にご懐妊は未だございません。一の宮様が儲けの君になられます」
兄君たちは末っ子が姉に気を遣っていると、乾いたお気持ちで見ております。もし姉妹が帝の母となられたら、決して機嫌を損じてはならない、ほかの兄弟たちより味方になってもらわなくてはならないのだと、今の内から心得ているのが末弟の方とは面白いことです。
「道長殿はおやさしくていらっしゃる」
詮子様はにっこりとなさいました。
逆に超子様は憂いをお見せになりました。
「叔母の皇太后様はお産で、村上帝より早く薨ぜられました。九条のお祖父様も外孫であるお上や今上が御位に就くのを見ずに亡くなられました。
広平親王や緝子内親王を儲けられた更衣の祐姫様は村上帝を見送られてから、髪を下ろされ、後世を弔われました。
どちらの巡り合わせもさいわいとは申し上げられないのではないかしら」
「女御様がそのようにお心をお痛めなさいますな。
正月なのですから、春や寿ぐ歌を詠むようにいたしましょう。お題を出してくださいませ」
道隆様が話題を変えられました。そこで側仕えの者たちも加わり、和歌を詠み、夜を過ごされました。
闇が墨に水を流しこむように薄くなってきました。
「そろそろ空が白んでまいりました」
「興のある夜だった」
「眠くならずに済みましたね」
などと言い合っておりました。
側仕えの一人が超子様が脇息にもたれかかっているのに気付きました。もう朝になろうとしているのですから、お休みになる支度をいたしますのに、こんな所でお眠りになるとはと、戸惑いました。烏や鳥が鳴き、人々が片付けなどし、さざめいています。このままお休みいただこうかと申す者がありましたが、ご兄弟がたが気に掛けて、お声を掛けました。
「今ここで大殿籠もられてはいけません。お起きになられてください」
超子様がお返事をして目を覚まされる気配がありません。傍らに寄って、大きな声を出しても全く動かれません。
一同、普段と異なる様子であると、真冬に戻った心地になりました。お袖を引き、手を取ってみますと、ひたと冷たく生気が感じられません。まだ夜が明けきらず、超子様のいる場所も奥であるので、急ぎ手燭を持ってこさせます。
「女御様」
声を掛け、手燭で超子様を照らしました。炎は揺れず、その熱さと明るさをうるさがる動きは全く見られません。道隆様は非常の時であると、「ご免」とお体を揺り動かされました。力なく超子様のお体が崩れました。
悲鳴を上げた者がいたかも知れません。
超子様のお命は消え失せておいででした。
突然の凶事に、為す術無く、その場にいる者たちは凍り付きました。
真っ先に気を取り戻されたのは道隆様で、早速父の兼家様と背の君の冷泉院にお報せするようにお命じになり、超子様の身なりを整えるよう側仕えの者に申し付けました。
超子様はまるで眠っているかのようなお姿で、美しさは少しも損なわれていませんでした。長い黒髪はそれ自体がご装束であるかのように艶やかに拡がっています。けれども超子様の息は既に無く、脈も感じ取れず、お体に温もりは蘇りません。まだお若く、夜を徹して起きていても障りのあるお歳ではなく、親王様たちはまだ幼いお年頃です。
周りに人が大勢いて起きていたのに、何故誰にも知られぬままに儚くなられてしまったのか、はらからや側仕えの者たちは悔しく、悲しくてなりません。
夜明けは庚申の夜に誰でも待ち遠しいものなのに、これほどの激しい痛手を与える時刻となるとは誰が予想しえましょうや。居眠りをなさった超子様の三尸虫が天帝に告げ口をしに行ったとしても、すぐさまお命を絶たれるほどの罪が犯されていたとは、とても考えられません。
怪しき出来事と死穢の為に、詮子様と一の宮様の御在所を一時移すと決まりました。
その場にいた者たちは、道兼様が語ってみせた三十年ほど昔の宮中での庚申待ちの出来事を思い出し、慄然となりました。
――あの方がお恨み申し上げているからだ。
第一皇子を差し置いて第二皇子が立太子し、帝の御位に就かれたのを激しくお恨みした元方様の仕業であると、誰彼と無く言い立て、まことしやかに広まりました。都人はそれが真実であるかのように信じました。
冷泉院のお振る舞いがたまさか人と異なるのも、超子様が庚申待ちで突然にお亡くなりになられたのも、超子様所生の居貞親王のお目が悪いのも、強運の持ち主の師輔様に敵わぬがゆえ、元方様の恨みが全て向かった所為とされました。
恨まれる覚えがある者の一つの言い訳でございましょうか。今栄えある立場にあるのは、犠牲あってと知っているからこそ。恨まれた立場の師輔様のご子孫、兼家様、道長様の栄華はそれからも続くのです。
祟ってやろうと念じて、憎い相手に災いが起きるのなら、誰でも怨霊となりましょう。好んで罵られ、封じ込めのおまじないを受けたがる者などおりません。明けるまで闇夜は長くつらく感じられます。
超子様の頓死以降、九条の一門で庚申待ちをしなくなったと伝わっております。
参考文献
『大日本史料』 東京大学史料編纂所
『大鏡 全現代語訳』保坂弘司 講談社学術文庫
『枕草子 日本古典文学全集』小学館
『平安朝 皇位継承の闇』 倉本一宏 角川選書