STEP0-1 思考~朔夜の場合~
不安がないわけではなかった。
これから望みを託すモノ――全能の神の力の御座は、完全に信用できるモノではない。
『御座』はこれまでに二度、失調している。
一度目は、あの夏。
二度目は、記録によれば、我らが一度目の死を迎えてまもない頃に。
いずれの場合も被害は甚大、原因は不明のままだ。
* * * * *
初めての失調が起きたのは、あの夏。
『サクレアの奇跡』の起きる直前のことだった。
我らユキマイの民は皆、こう教えられてきた。
『それ』はもともと、ユキマイの地に存在したもの。
我らは『それ』を『竜神の御座』と呼び、『社』を立てて祀った。
守り、奉仕し、その恩恵を受けた。
『御座』と交信する竜神の巫女とその守り手には、異能の力が与えられた。
そして『社』を抱えしユキマイの村は、つねに実りに恵まれてきた。
だがあの夏に限ってはそれが狂った。
ユキマイの地はこれまでにないひどい旱魃に見舞われたのだ。
『竜神の巫女』は雨を乞い、『御座』に祈り続けるがかなわない。
ついに倒れた彼女の代わりに、義娘で弟子であるルナが巫女を継いだ。
ルナも必死に舞い、祈り、天の恵みを乞うた。
それでも、かたくなに雨は降らなかった。
巫女の祈りが届かなかったことなど、後にも先にもそのときだけだ。
ましてルナは歴代最高の資質を持っていた。確実に、異常な事態だった。
もしかするとそれは、サクレアを神に『仕立てる』ためのものだったのかもしれない。
サクレアの被毛、そのカラーリングはほかには見ないものだ。
若草色のポイント模様など、サクレア以外には見たこともない。
つまりサクレアは俺たち同様、もともと猫ではなく、猫の“ような”生き物であり――
『御座』がその権能の一部をサクレアに譲渡し、覚醒させるまでの短い間に、あの旱魃が起きてしまったのではないだろうか。そう、父は言っていた。
* * * * *
いまいちどの失調は、記録によれば我々の一度目の死の後、二度目の生誕の前のことだ。
原因ではと言われているのは、正規の巫女の喪失だ。
アズールはサクレアを取り込むためにと、周囲の者たちをことごとく葬った。
ルナも例外ではなかった――当時、唯一の巫女であった彼女も。
以降、誰も『御座』に祈りを聞かせることの出来るものは現れなかったという。
それでもと制御実験を重ねれば、精神に甚大なダメージを負う被験者が相次いだ。
度重なる失敗のためか、『社』に近づいただけで不調を訴える者さえ出るようになった。
『社』の周囲にさらに、幾重もの石造りの壁と、多重の結界からなる『神殿』を築いてなお、その異常は広がった。
『神殿』に近づき、正気を保てるのは――
元々管理に当たっていた、ユキマイの民。
ユキマイの民と祖を同じくすると考えられた、特殊な夜族・夜天族。
そして一部の高能力者や、彼らに厳重に守られてある者だけ。
もちろんこれらはすべて、俺たちの生きていた頃にはなかったことだ。
これを支配体制の維持における危険因子と見た唯名帝国は、『危険な遺物』の廃棄を決めた。
さまざまな方法による破壊実験にことごとく失敗したのち、『神殿』をその立つ地盤ごと、はるか蒼穹の彼方へと打ち上げた。
それが『高天原』。
“月の影”、“心食らうまつろわぬ神の御座”と伝えられる、至聖の地。
俺とイザークが今、向かっている場所である。