花街『ウラガワ』
本編始まりです。
けだるい感じの空間を思い描いていただけるといいかと思います。
花街『ウラガワ』——
夜の空を灯す星のように、この街には煌々と赤い灯りが揺れている。
ここは、闇に舞う蝶が生きる街。
夜な夜な、一夜の夢を買う者達が集う。
虫籠のような赤格子の向こうに、着飾った女達が、一夜の主人を待っている。
大通りに行き交う人々を、この街一番の大店『夜蝶楼』の最上階の部屋で、窓縁に座り、
白河〈しらかわ〉は無表情に見つめながら、キセルを吹かせていた。
着崩した黒地の着流しに赤い帯、その上には肩にかけた豪華な鳳凰の刺繍の施された打掛け。
ザンバラに伸ばされた銀髪が垂れている。
金色の瞳に地上の者共がユラユラと映りこむ。
漂う紫煙が、彼の回りを夢遊病のように流れていく。
彼は、この『夜蝶楼』の主人、そしてこの『ウラガワ』の創設者。
彼の世界。彼の国。
毎日、ここから街の喧噪を眺めている。別に、監視しているわけではない。
もし今、彼の視界で何が起きても何もしない。
ただそれを見つめているだけ。他の奴らがどうにかするから。
他の奴ら…、同心と呼ばれるこの街の治安を守る奴らの事。まあ、用心棒と言うヤツだ。
『ウラガワ』は、外の世界とは一線を置いてる。
外で何が起きても関心はしない。だから、ここで起きた事も外は関心をしない。
だから、ここは彼の国。
この国の掟は、来る者は拒まず、去る者は追わず。
ここにいたければ、いくらでもいればいい。入れば、人に境は無くなる。
外でどんな事をしていても、ここでは皆、同じ生き物。
だが、客として一夜の温もりを求めて来たのならば、貰うモノは貰う。
街を保つのも楽ではない。それは、どこも同じ。夢の国では無いから。
キセルを燻らせ外を眺めていた白河の部屋に、違う風が入り込んだ。
誰かが、入ってきた。それに気付くも彼は、ソレに視線を向ける事はない。
この部屋に入れる者は決まっている。というより、決まった者しか入室を許されていない。
もし、他の奴が入ろうものならば、そいつはどうなるかわからない。
白河が、反応を示さないと言う事は、選ばれた者だと言う事。
その者は、ゆっくりと中に入り込んでくる。
結い上げられた青白い髪、それを彩る豪華な簪。金糸や銀糸で絢爛に刺繍された着物。
着物を映えさせるような白い肌。見るからに上級の蝶だ。
彼女は、雪晶〈ゆきしょう〉。『夜蝶楼』の太夫を務めている。
『ウラガワ』の頂点に君臨する夜蝶だ。彼女に辿り着くには、店の上級常連になり、白河の
承諾を得て、最終的に雪晶の気に入りを得なければ、一夜を過ごす事はできない。
ここに通う客の最終目標は、皆、彼女だ。
雪晶が白河の側に座り込むと、後ろを付いてきた同じく青白い髪を持つ禿二人が、赤い盆に乗った晩酌一式を彼女の前に置いた。
「ありがとう」と二人に微笑み雪晶は、下がるように合図をした。
二人が彼女の微笑みに嬉しそうに微笑み返し、立ち上がった刹那、
「待ちな」
白河が呼び止めた。
やっとこちらを向いた白河は、呼び止めた二人をこちらへ手招きすると、袂から小さな包みを
取り出した。
それが何かわからず二人は顔を見合わせている。
二人にも名はある。
風花〈かざはな〉と銀花〈ぎんか〉。
同じような顔をしている二人を見分けるには、普通では時間がかかるだろう。
これは、二人をどれだけ見てるかだ。雪晶に目通りする条件に入っているとかいないとか。
これがわからず、何人もの客が不合格をくらっている…と白河は聞いている。
それはどうでもいいのだが。
「この前、客が皆にと置いて行った菓子だ。二人で食べるといい」
白河の言葉は嬉しいのだが、貰っていいものかわからず二人は、答えを求めるように雪晶を見た。雪晶の答えは「貰いなさい」との頷きだった。
太夫の許しに笑顔になると、代表して風花が差し出された包みを両手で受け取った。
中身は、金平糖だった。
色とりどりの小さな粒に二人は微笑み合い、白河にお辞儀をする。
白河はキセルをくわえたまま、小さく笑い、二人の頭を撫でた。
禿達は、猫のように彼の手に擦り寄ってから、ルンルンと部屋を出て行った。
「いつも、あの子達にありがとうございます」
「いいよ」
雪晶は、用意した杯に酒を注ぎ、彼に差し出した。
その杯を受け取り、一気に喉に流し込む。
「それで?この書き入れ時にここに来たという事は、お前、客を蹴ったな?」
横目に見ながら言った言葉に雪晶は、悪びれもせず微笑む。
『ウラガワ』一番の太夫に気に入られたとしても、その日の太夫の気が乗らなければ、
逢う事は許されない。
本日、女王蝶様は気乗りがしないようだ。
雪晶の反応に「まったく」と小さく息を吐くも、白河はそれを咎める事はせず、再び
注がれる酒を煽る。
女からのお酌は、雪晶からしか飲まない。
白河にとって彼女はそんな存在だ。だが、心が伴っているかというとそうではない。
彼女との関係は長い。だが、それだけだ。
長い関係の中で、勝手に築かれていた間というだけ。
それは、彼女もよくわかっている。だから、それ以上を望む事はしない。
彼の心の大部分を占めているのが何なのかも、それが揺らぐ事が無い事も知っているから。
「今日、狗牙〈いが〉が喚いていましたよ」
「それは、いつものことだろ」
狗牙とは、『ウラガワ』の同心の長を努めている男で、この部屋に入る事を許されている者の
内の一人だ。
喚いていたとは、最近、街に来る奴らが増え、仕事が片付かないとの事だ。
それは、白河もよくわかっている。わかってはいるが、まあどうにかなるだろうと思っている。
「貴方が、出て行けばすぐに終わるのでは?」
それは、狗牙にも言われた。「お前が指図すれば、一発だろうが!」と。
「嫌だよ」
面倒事は、他人に任せるに限る。
自分は、誰かのために何かをしてやれるような、綺麗で慈悲にあふれた手は持ち合わせていないから。
そんな事はできない。
というか、出来ないのだ。
「もうすぐ…雨が降ります」
すぐに空っぽになる杯に酒を注ぎ足しながら空を見上げ、雪晶が小さく口を開いた。
言われて見上げた夜空は、疎らに雲があるもののチラチラと星が見え、雨が降りそうな気配は無い。
だが、雪晶の天気予報は100%当たる。新聞のヤツより信用できる。
「…そうか」
白河は、一言こぼし再び空を見上げた。
「貴方もおわかりでしょ?」
雪晶は、妖艶に口元を吊り上げて微笑む。
その笑みに白河も微笑み返す。
「俺の予報より、お前の方が当たるからね」
「貴方の妖力の方が強いのに」
「それは関係ないでしょ」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
漂うような白河の声音が、流れる紫煙に溶けて消える。
妖力など、あった所で何の役にも立たない
それは、遠い過去に実証済みだ。
変えられない過去、何も見えない、見たくない未来。
このままこの漂う煙のように、消えていけたらと思っていた。
彼女の予報がやはり当たって、この街がズブ濡れになるまでは。
100%当たる天気予報…欲しいんです。