立っている場所
私は演劇部を引退した。その事実だけが何も変わらずそこにある。つい一週間前までは稽古場で楽屋で舞台上で、みんなと馬鹿みたいに笑いあっていたのに。あの光景は、もう戻らない。
それでも、それがどんなに悲しくても、もう少しすっきりするものだと思っていた。部活動があって忙しかった分、余裕ができるものだと思っていた。でも、全くそんなことはなくて。
「あーあ、引退したくなかったなあ」
消えそうなため息ともに言い飽きた台詞を口から出した。昼休み、ご飯を食べながら委員会の仕事の最中。結構な音量でかかっている音楽がかき消してくれるかと思いきや、二人しかいない放送室にはやけに大きく私の声が響いた。隣からの声が返ってこないは呆れているのか、それとも?
フェーダーの付いた机につっぷしていた私は隣で黙々とご飯を食べている今井くんを仰ぎみた。
正直、返答がなくてもさして気にはならない。今井くんは私と同じ放送委員というだけではなく演劇部の同期でもある。会話に沈黙が落ちても気まずくはならない間柄だから。でも、言ってしまえば寂しくはなる。今日は私たち以外に誰も来ていないから余計に。
「ねぇ、今井くん。最近みんなと会ってる?」
「最近っていうかまだ引退してから一週間も経ってないけど?」
私の質問に今度は声を返してくれた彼は少し考える素振りをしてからもう一度口を開いた。
「理系クラスとは会ってない。春田と小川と須藤は選択授業が一緒だから別だけど」
うちの学校は文系と理系の教室が長い廊下で隔たれてしまっている。私は文系クラスの一番端っこ、彼も文系クラス。そのせいで理系の部員にはなかなか会えないのだ。理系側の子と会うためには選択科目で同じ授業を取れば良いのだけど、二年生の頃の私はそこまで気が付かなかった。気がついたら教科を変えていたかと言われたらそれは別の話だけど。
「いいなあ、私もみんなと同じ授業取ればよかった」
「石出は?同じクラスじゃん」
「そうだけど……そうじゃなくて」
そう。正確に言えば同じクラスの子が一人、違うクラスで同じ授業を取っている子も一人いる。でも、その子達は文系だからすぐ会える。私は物理的に遠くにいる理系側の子と同じ授業が欲しかった。……いや、悲しみの勢いとともにおにぎりを噛み砕いていて気がついた。
「そうだ、冬華とは課外で会える!」
坂本冬華も理系側の子だけど、明日から始まる課外授業で同じ授業をとっている。彼女なら毎週会える、まあサボらなければの話だけど。
「そっか。坂本は課外で会えるし、大島とも毎週仕事で会うし。俺、意外にみんなと会ってるわ」
「いいなあ。率直に言って羨ましいわ」
今井くんと毎週ここで会えるのは簡単な話、放送委員の仕事があるから。放送委員はテスト一週間前までは毎日昼休みに放送室で曲を流す仕事がある。一週間に一回当番日があって私と彼は同じ曜日。彼と会って話ができるこの時間が、今の私の救いだった。
「あ、あのね。今の私のホーム画面、これ」
「どれ?」
彼に見えるように傾けたスマホには一週間前の引退公演で撮った写真がある。
公演が終わって楽屋に入った後。着替える前にみんなとツーショット写真を撮りたいって言い出したのは誰だったっけ。もしかして、目の前にいるこの男だったか。その辺の記憶はあやふやだが、みんなでスマホを手に舞台裏ではしゃぎ合ったのは確かだ。意外と二人きりの写真はなかったから少しくすぐったいような気持ちにもなって。
合計、十二枚になった私とみんなの写真はコラージュをすることによって一枚の画像になり、私のホーム画面にうつしだされていた。
「ちょっとした休み時間とかにスマホ開くと、どうやってもホーム画面が目に入るでしょう。そうしたら目が離せなくなって、画面を閉じられなくなるの。それで時間の許す限り、ぼうっと画面を見続ける」
「大島、演劇部好きすぎでしょ」
笑いながらつっこまれたが、私にとってはただの事実なのだから仕方ない。
「うん、大好きだよ」
恥ずかしげもなく言えるぐらいにはみんなとの時間が大切だった。でも、だから。つらかった。
「水筒の中身無くなったから飲み物買ってくるわ」
「いってらっしゃい。あ、飲み物といえばさ。引退したから炭酸が買える」
「確かにそうだ」
また少し笑った彼が自販機に行くのを見送ってからスマートフォンを立ちあげる。ラインを開いてみると、部員のうちの数人の一言がかわっていた。
「切り替えなくちゃ、か。私にはまだ無理だ」
それでも少しでも変わろうと、その場で写真を撮り、部員の集合写真からフェーダーの写真にアイコンを変えた。一言には少し迷って……結局、「もうちょっと」とだけ打ち込んだ。
あの会話から一日が過ぎた放課後、私は自転車をこいでいた。特別なことなんてない、ただ帰宅途中だというだけなのに。自転車をこぎながら思い出すのは演劇部のこと。部活があったあの頃は私の他にあと二人いる自転車通学の子と一緒に帰っていたから寂しくなかった。でも、待ち合わせなんてしていない今は一人。
思い出の曲が頭の中を何度もリフレインする。虚しい、会いたい、恋しい。なんとも言えない感情が頭を支配する。こんなんじゃダメだ。わたしは受験生なんだから早く家に帰って勉強しなきゃ。そう思うのに頭はスッキリしてくれやしない。
無駄にスピードをあげてペダルを踏み、十字路に差し掛かる。もう点滅が始まっていた信号を無視することも出来ずに止まると、大通りを挟んだ向こう側に彼らが見えた。
通学は歩きと電車を使う、演劇部の同期。楽しそうに笑顔を浮かべた彼らがいた。その景色は私が今、一番欲しいもので一番手が届かないもの。
「いいな、一緒に帰ってるんだ」
まぁ、なんとなくそんな気はしていた。みんなの事だから待ち合わせて帰るのだろうと。待ち合わせなくてもなんとなく集まれるのだろうと。今までも歩きの子達が羨ましく思ったことはあったけど。今までで一番、痛いほど泣きたいほど羨ましい。頭の中が真っ白になって自分がたっている場所がわからなくなる。
声をあげればこちらを向いてくれるのだろうけど、どうせここが分かれ道だから一緒には帰れない。視力がいい人なんて私以外に一人もいないからたまたまで気がついてくれるわけない。それでも視線だけは離せず、無言で彼らを見送った。
ぐちゃぐちゃでまとまらない思考のまま家に帰り部屋に閉じこもる。勢いよく閉めたドアのせいで服が揺れていた。
それは、赤い色をしたみんなとお揃いの服。引退公演だから、と決して多くない部費から奮発して買った、とっておきの衣装だった。
「これも、クリーニングが終わったら返しに行かなくちゃいけないな」
ぽつりとつぶやいてその服を眺め続ける。思い出と色々な感情が詰まったこの服はクリーニングに出したらきっと、私のカタチを忘れてしまうのだろう。そしてまた別の人と舞台上で新しい夢を見せるのだ。
ポケットから転がり落ちたスマートフォンのロック画面にはみんなに囲まれた私がいた。でも、私がいるのは間違いなくここで、私は一人きりだった。