冬、雪
普段は緑色に染まる車窓が、白い雪に染め上げられる季節。
人々は家の中に籠り、暖炉には緋色の炎が揺らめく時分になると、わたしの心は吹雪く景色の中に彷徨う何者かに思いを馳せずにはいられなくなる。
ほんの三年前までは、この季節がとても待ち遠しかった。彼は街に出て、帰ってくる。その時がちょうど冬。十二月の終わりには、わたしと共に年を越す為に汽車を乗り継いで、外套の襟を高くして扉を叩くのだ。ポーチにでたわたしと彼は抱擁を交わし、そのまま、雪のように積もった話を聞いては聞かせ、記憶を共有する。
文を絶えさせたことはない。それこそ、あの人が帰らなくなるまでは。子は産まず、貧しい式を挙げたわたしたちではあったけれど、確かに小さな幸せはあったように思う。子供は幸福の最たる形ではあるが、幸福そのものが無形のものである以上、わたしたちの中で子を産むという選択肢は、時間的にも経済的にも、現実のものとはなり得なかった。
そうして、あの人が街に出て帰らなかったある年から、また雪を五度は見た時だろうか。
男が一人、訪ねてきた。
彼は名を兼高といった。あの人と同じ茶色い外套の襟を高くして我が家の扉を叩いた彼は、一瞬、あの人と面差しが重なった。
「お話をさせていただけませんか」
眼鏡をかけた兼高は、そうしてわたしの家に上がった。なんのことはない、貧しい一軒家である。土地ばかりが余り、生活も苦しいわたしには暖かい茶の一杯を出すのが精一杯だったが、兼高はひどく有り難がり、暖炉の前に用意した二脚の椅子の片方で大義そうに湯呑を傾けていた。
「旦那さんのことで、話したいことがありましてね」
「え?」
わたしは両手で包み込んだ湯呑の液面から彼へと目を移した。暖炉の炎ではなく、わたしの顔を覗き込んでいた兼高はどこかほっとしたように微笑むと、着たままの外套についた雪を、これまた皮手袋をはめたままの手で払った。
「いや、本当にお美しい。あいつは言っていましたよ。田舎に残した女房だけが気がかりだと」
こうして面と向かって誰かに褒められるのには慣れていない。照れ隠しに視線をうつむけながら、わたしは熱くなる顔を暖炉の炎のせいにした。
「はあ。それで、兼高さんはあの人とどんなご関係で?」
「聞いていませんか。わたしは帝国陸軍中尉です。彼とは、シベリアまで共に行った仲なんです」
「シベリア……?」
なんのことだか、わたしにはさっぱりわからない。何しろ、この山間に在る村落では外界からの情報はまったくと言っていいほど入ってこないのだ。
どこか遠くの国の名前だろうか。でも、あの人はそんな、外国へ出向くような商売ではなかったはず。
何も言えないでいるわたしを差し置いて、兼高は続けた。
「ロシア帝国は強かった。日露戦争です。聞いていないのならお話ししますが、あいつは兵隊だったんですよ」
言っている意味がわからない。わたしは細い指の先に力が入らず、傍にあった卓の上に湯呑を置いた。
「ロシア、とは、あのロシアで?」
「はい。わたしと彼は上官と部下という関係で。いい男でしたな、彼は。こんなべっぴんさんを遺して逝くなんて。そこだけが不肖といえば、それまでですが」
「あの人はただの商売人です。街に出て、人を撃っているなんて一言も……」
「これは事実です。あいつは確かに戦っていた。あなたの話も伺っている。里に残した女房には、わたしが人を撃っているとは伝えておらんのです、と、彼は常々申しておりました」
「どうして、わたしに嘘などを」
すると、兼高はくすくすと笑った。ひどくしゃがれた笑い声を幾度か漏らした後で、仕切りなおす様に咳払いをする。その口元からは微笑みが離れない。
「いえ、失礼」頭を振って、彼は湯呑を暖炉の外縁の上にことりと置いた。「わたしも聞いたのです。なぜ女房には報せないのか、と。今のあなたの様に、それを知ったら悲しむ、とね」
「すると、なんと?」
「『あいつは雪女なのです、中尉』と。その言葉の意味が今までわかりませんでしたが、あなたを見てようやく理解しました。わたしも、あなたには報せたくはない。あなたはきっと、彼の仕事を知れば融けてしまうだろう」
あの人の寂しそうな面差しが脳裏を掠める。
あの暖炉の炎を見つめていたあの人の眼差しには、確かに底知れないものがあった。黒い井戸の向こう側に、何か知ってはいけないものが蠢いているような気がして。
けれど、それを聞くことは終ぞ叶う事はなかった。
兼高は言った。
「わたしは、それを伝えようと決心しました。あなたはあいつと籍を入れていましたから、何とか辿って来れました。本当によかった。あなたにこのことをお伝えできて」
眼鏡に暖炉の炎を反射させる兼高の目を、わたしは見ることができなかった。
何も言えないでいるわたしの口から、誰の物とも知れない音が漏れ出る。この耳には、窓を打ち付ける吹雪と大差のない声。
「あの人は、夫は、わたしを愛していましたでしょうか?」
兼高は立ち上がりざまに、わたしの肩に手を置こうとしたが、途中でひっこめて踵を返した。
「朝になれば日が昇るよりも確実に。あいつは、いい男でしたよ」
彼は、それと茶の礼を告げて去って行った。
後に残されたわたしは、窓枠にこびりついては溶けて流れる雪を眺める。
どうやら、窓がどこか開いていたらしい。頬に着いた雪が融けて、わたしの頬を流れ落ちていった。