私と彼と彼の白昼夢
ここは高知の片田舎。なんでも江戸時代から代々続く医者の名家の何代目だかの次期当主であり、地元の人間からの絶大な信頼を得ている凄腕の医者が私の夫だ。
私の家は比較的裕福だった。父親が銀行の頭取、母親が華道の大家で、幼い頃から習い事や勉強などいろいろなことを叩き込まれてものの見事にお堅い趣味に能力を全振りしたつまらん人間が出来上がったわけ。学校もそれはそれは品のよさそうなところに通っていたけど、あははうふふなんて笑うの正直面倒だよね。まあ学校で浮いてしまう方が面倒だと思ったので全力で私は猫を被った。それはもう全力だった。
というのも、小さい頃から期待ばかりされて育ったもんだから、期待に反してしまうのが怖くて昔から猫ばかりかぶっていたらいつの間にか猫ちゃんは化け猫クラスに成長してしまった。なんたる。
そんな私も大学に無事に進学、親の勧めでいいとこのおぼっちゃんと学生結婚と相成ったわけである。なんでも相手から是非私を嫁に、と言われたらしい。あの短いお見合いの時間で何がそんなにポイントが高かったのかはわからない。
立派な箪笥、何人映すんだってくらい大きな鏡台、やたらと高そうな喪服、着物、エトセトラエトセトラ…。
そんなわけで巨大な猫とともに私は嫁に行った。
「詩織さんみたいな方にお嫁に来ていただいて嬉しいわ」
「きょ、恐縮ですわお義母さま…おほほ」
お手伝いさんに囲まれてより一層おしとやかに見える女の人が義母。
簡単な荷物だけ持ってこれから自分が住むことになる大きなお屋敷での一幕である。
……猫を被るのも楽じゃない。
夫の名前は祐介。橘祐介さんというらしい。ギリギリ忘れそうになってたのは内緒だ。
私たち夫婦の部屋は母屋からすこし離れたところにある。義理の両親は母屋に住んでいるので敷地内別居のような形になるわけ。
ところであのなんとも事務的に盛大な結婚式を終えて数か月がして私は気付いたことがある。
祐介―――夫はなんともお堅い人間だった。猫を被ってお堅い趣味全般に能力値を全振りしている私が言えたことではないが、彼には趣味がない、らしい。たまにある休日も自室に一人で籠ってごはんも食べずに一日過ごしているのだ。何をしているのかと聞けばクラシックを聴いているらしいのだが…。
「せっかくの休みなのにもったいないんじゃねーの…」
思わずそう言ってしまいたかったのも内緒だ。
結婚した後って嫁姑戦争があるんじゃないかって心配していたんだけど、ここのお義母さまはそういうことに興味がないらしい。たまに私のところに来て料理の話をするだけ。世の中ひどい姑も居る中でこの人は割といいお姑さんだと思う。
今日は平日、夫も車で30分くらいの距離にある大きな病院に仕事に行っていてひとりで暇なので、お手伝いさんの申し出を断って自分の豪華な嫁入り道具の掃除をしていると、鏡台の後ろに押入れがあるのを見つけた。さすがに押入れの前に家具を置くのはちょっと…。一応言っておくけど家具の配置をしたのは私ではない。
「よいしょ…っと。重いなこれ…」
持ち上げるのは無理だったので畳を傷つけないように鏡台をずるずると横に押して押入れを開ける。
「うっわカビくさっ!げほげほっ」
押入れを開けるとホコリが視界一面に舞い、かび臭い空気が鼻を突いた。
「お姉さん、そんなとこで何してんの?」
「うわあっ!」
ゲホゲホ咽ながら手で顔の周りを舞うホコリを払っていると、ふいに背後から子供の声がして思わず私は飛び上がった。
「だっ、誰っ?どどど、どこの子かな?」
ホラーはやめてホラーはやめて!
引き攣った頬をなんともすることができず微妙な表情で声の方に振り返ると、野球帽を被った見覚えのない少年が窓から顔をのぞかせていた。
この家に子供は居ない。時間帯も学校があるはずだし、一体どこの子なんだろう?
「ぼく、ゆうちゃん」
「ゆう…ちゃん?」
「うん。ゆうすけっていうんだ。いいよ、ゆうちゃんって呼んでも」
「そ、そう…それならゆうちゃんって呼ぶわね」
そういうと”ゆうちゃん”はニッコリ笑って押入れの中を指さした。
「お姉さん、それぼくのなんだ。お母さまがどこかにしまっちゃってたの、見つけてくれたんだね」
「え…?でもゆうちゃん、これは…」
「ううん!ぼくの!」
私が何か言おうとすると、”ゆうちゃん”は勢いよくさえぎってきた。なんだか様子がおかしい。
でも押入れの中って何が入ってるんだ?
「お姉さん、それとってくれない?」
”ゆうちゃん”の押し、というかもうここからは好奇心だった。私は押入れの中に入っているあるものを取り出すと、彼にも見えるようにホコリを被ったそれ―――大きな木箱を開けた。
「……これは……」
中に入っていたのはトレーディングカード、ゲーム機、プラモ、ラジコン…男の子が好きそうなおもちゃばかりだった。
「やっぱり!お母さま全部ここにしまってたんだ!よかった…捨てちゃったんじゃなかったんだね…よかったね…」
”ゆうちゃん”はほっとしたようにそういうとうれしそうに目を細めた。
……この子は一体誰なんだろうか。お母さまにおもちゃを隠されたって、私以外にここに嫁いできた人が居た…?いや、確か夫には兄弟が居ないんだ。誰か嫁いでくるとすればそれは私以外誰も居ない…。となれば住み込みのお手伝いさんが居るとか?
そんなことを考えながら何気なく木箱の蓋をひっくり返した。
ホコリでまみれてさっきは見えなかったけど…名前が書いてある!
たちばな ゆうすけ
黒いマジックで、そこには確かにそう書いてあった。
この辺りでタチバナという苗字はこの家以外にない。
これが私の目の錯覚でないなら、私の夢でないのなら、幻でないのなら、彼は、彼は----。
「…これ、全部ゆうちゃんのだったの?」
「そうだよ。でもお母さまがぜーんぶ隠しちゃったの!いじわるだよね!ぼくはこれで友達と遊びたかったのに…」
「それは…そうね、かわいそうだったね」
「それにね、ぼくは大きくなったら野球選手になりたいのにお母さまは医者になれってうるさいんだ!ぼくの夢なのに!」
少年の悲痛な主張は、きっとどこの家庭のどこの子供にもごく普通にあるものなのだろう。
「”ゆうちゃん”、あのね、お姉さんも子供の頃は好きなことなんでもたくさんやりたかったんだ」
そんな少年に、”ゆうちゃん”に話しかけているのか、私はぽつりぽつりと話し出した。
「学校が終わったらお友達と遊んだり、休みの日は好きなアニメを見たり、お友達と同じおもちゃを買ってもらったりとか…でも、お姉さんもできなかったよ」
「そうなの…?」
「うん。お父さんもお母さんも、いいよって言ってくれなくて、つまんないことばっかり。お華とかお茶とか書道とか、全然つまんないの」
「……」
「それで、お姉さんそのまま大きくなって、そうやって全然知らない人と結婚しちゃった。結婚したのにあんまりしゃべったこともないし」
「…かわいそうだね」
「案外そうじゃなくなるかもしれないんだ。”ゆうちゃん”のおかげで」
「ぼく?」
「うん。だからね”ゆうちゃん”、君はお医者さんになった方がいいかもしれないよ」
「ええ…なんで?」
「お姉さんと結婚した人も、お医者さんだからよ」
「…」
”ゆうちゃん”が何か言いかけた時、突然大きな風が吹いて私は思わず目をぎゅっと閉じた。
そして、目を開けた時すでに彼は跡形もなく消え去ってしまっていたのだ。
それから数日、”ゆうちゃん”があの窓に現れることは無かった。今日も夫は朝から部屋に籠りっきりでクラシック音楽を聞いているみたい。
あれはきっと夢。私だけの夢だったんだ。
ついさっきまで”ゆうちゃん”が居た窓際をちらりと見ると、私は夫のいる部屋へ向かった。
夫なんて、今まで全然興味がない人だったのに、なんだか急に話をしてみたくなってしまったから。
そうだ、子供の頃の話を聞いてみようか。
窓からやさしい風が吹いて、私の背中を押した。