橙の星
私が子供の時分であるから、もう何十年も昔の事である。その頃は都内にもかなり自然が残っていて、今は人で賑わう青山など月見の薄取りの場所であった。町々のあちらこちらに藪や草むらがあったせいであろう、虫や蛇に悩まされることはままあり、私もずいぶんと彼らに脅かされ、肝を冷やしたものである。
その時分の人々は、今に比べると幾分か迷信深く、また怪談などの不思議語りを好む性質があった。さすがに狐狸や川獺に化かされたという話こそ無かったものの、どこぞの寺の白い塀の上に人魂が走っただの、夕暮れの川底から怪しい声が聞こえただのという怪事件が発生すれば、それらはたちまち人々の口の端にのぼり、あちこちの床屋や銭湯の話題となった。一度そうして噂が広まれば、女子供や気の弱い男は夕暮れ時が近づけば怪事の現場を避け、若い者たちなどは逆に「化け物の正体見破らん」と、さながら頼光の酒呑童子退治といった意気で真夜中に探検するのが常であった。今から思えば、ずいぶんとのんきな時代であったのだろう。
怪異を起こすのは何も妖怪変化や亡者だけではない。時には古木もまた人々を脅かした。大銀杏が女に化け、古榎が往来の人を蹴り飛ばしたなどという話を聞くたび、幼い私は心を脅かされつつも、さもありなん、木々にも魂はあるのだからと幼いながらに納得し、庭に植わる南天や百日紅の幹をそっと撫でたものである。
その日はよく晴れて、空がずいぶん高く感じたことを覚えている。夏の暑さはすっかり去り、秋はいよいよ深まろうとしていた。往来の空気はきりりと引き締まって涼しく、朝夕には寒さを覚えるほどであった。
私は通学鞄を持っていなかったから、お遣いか遊びの帰りであったのだろう。家々の立ち並ぶ静かな通りにからころと下駄の音を響かせ家路を急いでいた。別段早く帰らねばならぬ用事があったわけではなかったが、子供の習いで、ただ意味も無くむやみに道を急ぎたかったのである。
その頃の私には、常に俯いて歩くという妙な癖があった。なるほど、子供とはあちこちに気をとられてとかく転びやすいものだから、足元に注意して歩くというのは一見理にかなった行動であったかもしれない。しかし、私の場合は、自分の足が左右に繰り出され影が滑る様をぼうっと見つめているだけであったので、むしろ注意が散漫になる一方であった。対向の人をぶつかる直前で危うく避けるなど常であったし、父母には「みっともない歩き方をするな」とよく叱られた。それでも、気がつけば私の目は自分のつま先を追い、ちらちらと移り変わる影と地面の濃淡を見つめていたのである。
秋の陽は澄んだ空気を通して明るく、辺りの風景を輝かせていた。足元に映る影は陽の強さの分濃く、輪郭をはっきりと保って黒く美しかった。光と影、光と影、めまぐるしく入れ替わる様に幼い私は心を奪われ、半分は夢の中にいるような心持で歩いていた。
足元ばかりを見ていても、通いなれた道であるから迷うことはない。私はいつものように、松の植わっている家の角を左に曲がった。しばらく行くと、視界の端にちらちらと見えていた板塀が生垣に変わったので、定爺の家の前に差し掛かったのだと分かった。
定爺は近所に居を構えていた老人で、本名は定次だか定吉だかといったようである。どこぞの大店の主人であったようで、すでに隠居してかなりの年月が経っていた。女房をだいぶ前に亡くしてからはやもめの一人暮らしであったが、家も自身も常にさっぱりと小奇麗にしており、卑しからぬ人物であった。
庭木の世話と子供が好きなこの老人に私はよく懐いていて、定爺もまた私のことをよくかわいがってくれていた。もし彼が庭か縁側にでも出ていたのであれば、いつものように「坊、坊」と声をかけてきたことだろう。だが、声はしなかった。家の中のことをしているか外出でもしていたのだろうと、私は一人合点した。
さして気にも留めずに行こうとした時、ふとどこからともなく甘い香がした。同時に、見つめていた足元に大きな影がさした。影の中には、橙色の小さなものが点々と散らばっている。辺りの明るさに影は黒々と濃く、まるで夜空のようである。これは何であろうかと、私は顔を上げた。
反り返って見上げる先には、濃い緑色の葉と、いくつもの小さな橙の花があった。それは甘くどこか郷愁を誘うような匂いを放ち、視界一杯に広がっている。葉は陽光の下で濃緑というよりはほとんど黒に見え、その所々を彩る粒のような花はさながら星々のようであった。
天にも地にも星空が広がっている。
私は思わず手を伸ばし、幼子には到底届かぬ高さにある小さな花に触れようとした。
花の香がぷんと濃くなった。
途端に体がぐらりと揺れ、私はまるで何かに引かれるように仰向けに倒れていった。
一瞬の後に来るであろう衝撃に備えて私はぎゅっと目をつむり歯を食いしばった。だが、いつになっても、ごちん、という音は聞こえない。代わりに体がふわりと回転するのを感じた。私は恐る恐る目を開けた。
果てのない暗闇。そのあちこちには橙の小さな星々が微かに震えながらまたたいている。黒漆に金の砂子を撒いたような。辺りを見回そうと頭を巡らせると、その勢いで私の体はゆっくりと回る。見渡す限り、どこもかしこもぬばたまの闇と橙の星だけが広がっている。
あの甘い香りが鼻をくすぐる。そのふくよかさに私はうっとりと目を閉じる。瞼の中も闇、外も闇。夜の暗闇に怯える幼子であるはずなのに、私は不思議と恐れを感じない。赤子のように手足を縮め、甘く、温かな闇の中を漂っている。
頭のどこかで、この甘い香は星々が放つものなのだと思った。胸が微かにうずくような柔らかな香り。橙の星の優しい匂い。
そのうちに私はとろりとまどろみ始め、ゆっくりと回りながら眠りに落ちていった。閉じた瞼の闇に星はなくとも、その匂いだけはいつまでも感じられた。
目を開けると、高い所に木の板があった。幾度か瞬きをして、それがただの板ではなく天井なのだと分かり、自分がどこかに仰向けで寝かされていることを悟った。身を起こそうとすると柔らかな手で肩を押さえられた。横を見ると、定爺が穏やかな顔で笑っている。
「坊、気がついたか」
いきなり起きてはいけない、ゆっくり体を起こしなさいと言われ、私は定爺のしわだらけの手に支えられながらそっと体を持ち上げる。
「気分は悪くないか」
大丈夫だと答えると、定爺は安心したように頷きながら私に湯飲みを差し出した。湯気を立てたそれを一口含むと、微かな甘みと丁子の匂いが広がった。
砂糖湯を飲みながら聞いたところによると、私は定爺の家の前で倒れていたのだという。だが、その顔がまるで眠っているように穏やかだったので、定爺は私を担ぎ上げ、ひとまず寝かせて様子を見ていたのだそうだ。
「坊の家には知らせてあるから、そのうち迎えも来るだろう。まあ、大事でなくて良かった」
ふっふっ、と穏やかに笑うと、定爺は私の手から湯飲みを取りながら、それにしても、と呟いた。
「ずいぶんと良い夢を見ていたようだなあ、坊? 幸せそうに笑って」
私は倒れていた間のこと、あの柔らかな闇と橙の星々、甘い香りのことを話した。定爺はふんふんと聞いていたが、私が話し終えると、
「なるほど」
と深く頷いた。
「あいつもずいぶんと年寄りだからな」
言いながら立ち上がり、庭に面した障子を開ける。秋の陽はいつの間にか傾き、外はすっかり夕暮れの赤に染まっている。定爺は庭の一角を指差した。
堂々たる太い幹が、次いでさわさわと夕風に揺れる濃緑の葉が目に入った。遠目には見えなくとも、濃く甘い香りが小さな花々の存在を教える。
秋の夕日に照らされた、それは金木犀の古木であった。
そこらに植わるつつじや桔梗、紫陽花を従えて、庭の主といった風情である。大きな影を投げかけるその足元には名も知らぬ雑草が細々と生え、逞しい腕で彼らか弱きものを守るようにも見える。先ほど私が見た影の正体は、生垣を越えて往来にまで張り出したこの頑丈な枝の一振りであったらしい。
幼い私には齢の見当はつかぬものの、相当な古木であることだけは分かる。思わずほう、と息をつくと、大樹の枝は鷹揚にゆったりと揺れた。
「古木は人を化かすというから。坊はこの年寄りにからかわれたんだなあ」
定爺は庭に降り、骨ばった手で幹を擦る。私も裸足で庭に飛び降り、そっと手を伸ばして古木に触れる。幹はごつごつとこわばって、頬をつけると微かに温かい。
柔らかに広がる闇と橙の星が目の中に浮かぶ。
私は金木犀を抱きしめるように両腕を伸ばした。化かされた事への恐れはなく、ただ定爺に対するのと同じような敬いと親しみの念だけが胸に広がっていた。
秋の陽がするすると山向こうに消え家から迎えが来るまで、私と定爺は二人縁側に並び、
言葉もなく古樹のたたずまいを見つめていた。
定爺もとうにこの世の住人ではなくなり、かの金木犀はうろから朽ちて切り倒された。生垣や板塀の並んだ慎ましい通りは、今では洋風の家々が立ち並ぶ当世風の住宅街に変わったと聞く。いつの間にやら狐狸も蛇も姿を消し、古木が人にいたずらすることもなくなった。新しい世はまばゆい光に満ちて、その分、淀む影もまた濃いように思われる。
世間はすっかり様変わりし、たった数十年でまるで浦島太郎の心持、異郷の地に放り込まれたような心細さに気弱になることもある。
それでも年に一度、秋も深まる頃に甘い風が吹くと、私の老いた心はすっと凪ぎ、少年時代のあの秋の日に帰る。定爺の穏やかな笑み。砂糖湯のほろりとした甘み。風に揺れる古木の威容。温かな闇と星々の幻。
秋を運ぶ香が吹く時、私は返らぬものを思う。