8 姉さん
私はあれ以来川に行くことをやめた。
『神聖なる川』を穢してしまったのだ。
まぎれもなく自分の手で。
穢してはいけないあの川を己の感情で穢してしまった。私は呪文を唱えることができなかったのだ。
今まで何人たりともあの川には近づけたことなどなかったのに、何年もあの川を守り続けてきたのに、あの日、あの一瞬、あの男にほんの少しでも懐かしさを覚えてしまった私はその誓いを己の手で破ってしまったのだ。
こんな汚れた心で川には行けない。
とても悲しく、とてもとても憎かった。
私自身が。
私は姉さんがきれいにする部屋で悲しみに震え、あの日のことを思い返した。
あの後、逃げた私を彼は追いかけはしなかった。ワンピースがもつれる足に容赦なく絡みついた。
いつもはふわりふわりと風に揺れるワンピースはまるで甲冑を着込んだかのように重く、いつもは大好きな森の囁きも耳に煩かった。
大好きだったのに、ワンピースも、森も大好きだったのに。
あの日ばかりはとても忌々しかった。
「姉さん!」
家に帰った私は怒鳴りつけるかのように姉さんを呼んだ。だけど姉さんはやっぱり返事もしなければ、振り返ることもしない。
「姉さん、姉さん、姉さん、姉さん・・・・っ!!!!」
私が何度呼ぼうと姉さんは絶対に私に返事はしないのに、私は姉さんを呼び続けた。
「姉さん、姉さん、・・・・・ねえ、さん」
いつもと同じように椅子に座り、レンズ豆を選りわける姉さんは絶対に私を見ない。だけど私は姉さんを呼ぶ声を止めることができない。
「ねえさん、ねぇ、姉さん・・・・・・」
私は激しく揺れる肩を下ろし、姉さんを呼ぶのをやめた。すると姉さんはこれまで私が何度呼びかけても反応しなかったのに、豆をえり分ける手を止めた。私は驚き、姉さんを見つめた。姉さんはそろりと顔を上げ、一瞬私の顔を見ると、また豆を選り分け始めた。
私は愕然とした。
姉さんが私に反応するわけなどないと知っていたにも関わらず、姉さんに私の声が届いたのだと期待してしまったから。姉さんはただ、私を通り越して空を見ただけだった。たまたま私が窓の前にいて、たまたま姉さんが時間を確認するために空を見ただけだったのだ。姉さんが私の声に反応するわけではないと分かっていたのに、それを一瞬でも忘れた自分がとても虚しかった。
「ああ、そろそろ夕食の準備をしなくちゃ」
姉さんは私などまるでいないかのように、独り言をつぶやいて、台所に立った。
私は静かに部屋に戻った。
姉さんが狂ったかのように掃除しつづける私の部屋に。