5 あの部屋とあの子
青年は森を抜け、家の扉を叩いた。
久しぶりに会う姉は何年も着古した服のせいですっかり年とって見えた。それでも以前と変わらず儚げで美しかった。髪は少しくすんでいたが、それでも豊かに背で波打っていたし、翠色の瞳は青年を安心させるかのように柔らかく弧を描く。
「ただいま」
「お帰りなさい。もうすぐ夕飯ができるわ」
姉はまるで毎日そうしているかのように弟を家へと入れた。
「うさぎをね、逃がしてしまったんだ。若くて可愛いうさぎを」
「あなたは昔から狩りが下手だから」
姉はくすくすと笑いながら久しぶりに会う弟をじっくりと見た。以前会った時は自分と同じ位だったように思えた背丈が、今は頭一つ分も自分を追い越している。細いけれど、逞しい筋肉のついたしなやかな肢体、柔らかな髪は麦の稲穂のように鮮やかに彩り、翠色の瞳は村の娘を捕らえて離さないだろう。なによりもその瞳を縁取る黄金色の睫は青年が瞬きをする度にまるで羽のようにふわりと揺れて美しかった。
そしてそれは姉のよく知る人物にとても似ていた。
「さぁ、荷物を置いて。あなたの部屋はそのまま残してあるわ」
「うん」
弟は荷を置くべく、部屋へと向かった。家は何も変わらない。自分が村を出た時から何一つとして変わらない。変わったのは自分と姉だけ。それ以外は何も変わっていなかった。階段の手すりについた傷痕も、下から3段目の階段がぎしりと音をたてることも変わらない。
弟は荷物を左に持ち変え、右手で手すりの傷を撫でた。そしてゆっくりと姉を振り替える。踏みしめた階段が窮屈そうにぎしりと音をたてた。
「姉さん」
弟の呼び掛けに姉は背を向けたまま、スープをかき混ぜ続けたが、それを気にするわけでもなく、弟は言葉を続けた。
「・・・あそこもあのままなの?」
姉は一瞬スープをかき混ぜる手を止めたが、すぐに何もなかったかのようにまた手を動かした。
「あのままよ。何も変わらないわ。あなたの部屋も、その階段も、あそこも、あの子も。何一つとして変わらない。あの日から、何も。変わったのは私とあなただけ」
めずらしく饒舌な姉はそれ以上の質問を許さないとでも言うかのようにスープを混ぜる手を早めた。
「・・・そう」
弟はそれきり黙って階段を上った。
青年は以前そうしていたように自分の部屋に進んだ。途中で『あの部屋』の前を通ったが、扉は固く閉ざされていた。部屋の前に立ち、扉を開けようと手を伸ばしたが、ドアノブに指先が触れそうになるところで手を引っ込めた。
扉を開けても、姉の言う『あの子』がいないことは分かっていた。けれど変わらない我が家を見ると、まだそこにいるのではないかと思ってしまう。笑みを浮かべ、自分を「お帰り」と言いながら優しく抱き締めてくれる。暖かいお日様とほのかな水の匂いをさせながら息が止まりそうになるくらい抱き締めて、頬にキスをしてくれる、そんな気がした。だけどそんなものはもう幻想以外の何者でもないことを自分が一番知っている。いつもあの人の傍にいる姉さんよりも。
「ただいま。帰ってきたんだ。今日は特別な、日だから・・・」
扉に向かってそう囁くが物音ひとつしなかった。うつろな目で扉を見つめるが、部屋の中から返事が聞こえることはなく、分かってはいたがいまだそれを受け入れてはいない自分に、悲しさと同時に苛立ちを覚えた。どうして認めないのか。『あの子』がもう返事をしてくれないことは分かっているはずなのに。自分にも姉にも。弟は深く息をつくと、己の部屋に足を向けた。
自分が家を出た時から何一つ変わっていない部屋は相変わらず整然と片づけられてはいたが、ほんの少し埃っぽかった。だが気にすることもなくベッドの上に荷を置き、階段を降りた。食卓にはすでに食事の用意が整えられていた。
「さぁ、食べましょう」
姉は弟に素っ気なく呟くと、静かに祈りを捧げた。姉に倣い弟も祈りを捧げる。そしてゆっくりと目を開き、テーブルに並ぶ料理を見た。
パン、豆のスープ、チーズ、ジャガイモのキッシュが並んでいる。豪勢ではないが質素でもない。なぜ姉がそれらの料理を準備するのかは分かっていたが弟は何も言わなかった。二人きりの食卓はとても広く、淋しかった。
口に含んだスープはあの日と同じ味がした。